"政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力を
こめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もし
この世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、
およそ可能なこの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、
あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。(中略)自分が
世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が
―自分の立場からみて―どんなに愚かであり卑俗であっても、
断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても、「それにも
かかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう
人間だけが政治への「天職」を持つ。(マックス・ウェーバー著、
『職業としての政治』,脇圭平訳,岩波書店,強調筆者)

こういった不屈の精神が、リベラルには足らないのではないか。
たった一回の政権交代(鳩山政権)の成功体験とその後の挫折を
後顧して、「私たちはまちがっていた、不寛容であった」と
自虐するのは早計ではないか、と言っているのだ。

事実、本稿で引用した朝日新聞の岡田憲治氏の言によると、
「リベラルの正しさが必ずしも受け入れられるわけではない」と
述べているが、実際に過去10年間を切り取っても、性的少数者や
女性差別について、主にリベラル側から提起され続けてきた
問題について、現在ではそれが大メディアのコンプライアンス
基準となり、実際の番組制作や表現を動かしているではないか。
まさに、マックス・ウェーバーの言う、"堅い板に力をこめて
じわっじわっと穴をくり貫いていく作業"が、奏功したのが
現代社会ではないのか。そういった地道な、刹那的に
注目されない政治活動を「無意味」「(リベラル以外に対し)
不寛容で訴求しない」と決めつけて自虐を行い、すぐに主張を
修正しようとする恰好そのものが、リベラルの弱点だと
言っても差し支えはない。