オホーツク人と緊張状態にあった続縄文人からの要請を受け、ヤマト王権の介入(助け)(阿倍比羅夫の蝦夷征討)が見られた7世紀以降、東北地方から石狩低地帯への古墳文化人の子孫の移住が見られ、これをきっかけに擦文文化が始まる。
移住者たちは江別古墳群や祭祀に用いる語彙などの痕跡を残したが、地元人と同化したとみられている。
その後、北海道にあった擦文文化を基礎に、オホーツク文化と本州の文化を摂取してアイヌ文化は生まれたと確たる証拠は無いが日本学術会議はみる。
擦文文化やオホーツク文化はアイヌ文化に影響を与えている。
遅くとも平安時代末ころから道南に和人の定着が始まり、蝦夷管領安東氏の存在した13〜14世紀になると、和人による農耕が盛んになる。