>>623
基本的な知識が抜け落ちてる

もともと中大兄皇子と大海人皇子なんて額田王が歌で戯れに玩弄する程度の気さくな間柄だった
さもなければ当時大王権力を凌ぐ勢いを示した大敵蘇我氏本宗に対して乙巳の変をあのような形(強力とはいえない中臣氏と謀る形)で中大兄皇子は起こさないし起こせないだろう
おまけに弘文天皇こと大友皇子の后は大海人皇子と額田王の娘である 十市皇女 。その突然の死にまつわる混乱の記述もある(すなわち、その中身は作為が少ないとみられる)。死を悼んだ哀歌も複数記述されている
また、当時の大王継承では近親の比較的年長の有力者が臣下らの同意を経て位に即く慣習だった。ほかならぬ天智天皇がそうだったように「大兄」の存在がそのなによりの証拠なのな

むしろ壬申の乱より前の記述に大海人皇子の影が薄すぎるほうにこそ、作為を感じるわ