平安時代の『日本書紀私記』に日本書紀の講義の中で、
「この国が姫氏とよばれるのはどうしてか?」と言う問いに対して、
講師が「始祖の天照大神が女神、神功皇后が女帝だったから」との問答が記録されているそうである
周や呉の姓は「姫」氏であり、呉の太伯はこの家の出であり姫氏と思われていた
「倭人」を太伯の裔とする説は、『魏志』「倭人伝」より早く成立し魏志の母体とされる『魏略』の逸文、
および『晋書』『梁書』に見られる
『晋書』「列傳・四夷・東夷・倭人」には次のように記されている
「男子無大小、悉黥面文身。自謂太伯之後。」(男子は大小と無く、悉く黥面文身す。自ら太伯の後と謂ふ。)
『梁書』「列傳・諸夷・東夷・倭」にも以下の記述がある
「倭者、自云太伯之後。俗皆文身。」(倭は自ら太伯の後という、俗みな文身す。)
倭人達は、魏に対して「我々は太伯の苗裔すなわち姫氏である」と主張していたのであろう
『晋書』などを読んでいた日本の知識人は、『日本書紀』(720年完成)の成立以前から
「天皇姫氏説=太伯末裔説」を知っていたと思われる
そこで、『日本書紀』には採用されていないものの、上記のような問答があったのであろうか

しかし古事記が物部氏が記した歴史書であり
日本書紀が藤原氏が記した歴史書であることを考えれば
太伯末裔説は当時の事実上の支配者である藤原氏に適用されるものであり
天皇家が何処から渡来したのかは未だ謎である