ましてその頃は西洋人のいう事だと云えば何でもかでも盲従して威張ったものです。
だからむやみに片仮名を並べて人に吹聴して得意がった男が比々皆是なりと云いたいくらいごろごろしていました。
ひとの悪口ではありません。
こういう私が現にそれだったのです。
たとえばある西洋人が甲という同じ西洋人の作物を評したのを読んだとすると、その評の当否はまるで考えずに、自分の腑に落ちようが落ちまいが、むやみにその評を触れ散らかすのです。
つまり鵜呑と云ってもよし、また機械的の知識と云ってもよし、とうていわが所有とも血とも肉とも云われない、よそよそしいものを我物顔にしゃべって歩くのです。
しかるに時代が時代だから、またみんながそれを賞めるのです。
 けれどもいくら人に賞められたって、元々人の借着をして威張っているのだから、内心は不安です。
手もなく孔雀の羽根を身に着けて威張っているようなものですから。

たとえば西洋人がこれは立派な詩だとか、口調が大変好いとか云っても、それはその西洋人の見るところで、私の参考にならん事はないにしても、私にそう思えなければ、とうてい受売をすべきはずのものではないのです。
私が独立した一個の人であって、けっして英国人の奴婢でない以上はこれくらいの見識は国民の一員として具えていなければならない上に、
世界に共通な正直という徳義を重んずる点から見ても、私は私の意見を曲げてはならないのです。

私は自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼ら何者ぞやと気慨が出ました。
今まで茫然と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと指図をしてくれたものは実にこの自我本位の四字なのであります。
 自白すれば私はその四字から新たに出立したのであります。
そうして今のようにただ人の尻馬にばかり乗って空騒ぎをしているようでははなはだ心元ない事だから、
そう西洋人ぶらないでも好いという動かすべからざる理由を立派に彼らの前に投げ出してみたら、
自分もさぞ愉快だろう、人もさぞ喜ぶだろうと思って、著書その他の手段によって、それを成就するのを私の生涯の事業としようと考えたのです。
 その時私の不安は全く消えました。
私は軽快な心をもって陰欝なロンドンを眺めたのです。
比喩で申すと、私は多年の間懊悩した結果ようやく自分のつるはしをがちりと鉱脈に掘り当てたような気がしたのです。
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