雪が降っていた。
 雪が好きだと思ったことは、一度もない。今も、昔も。
 約束の時間はとっくに過ぎていた。待ち人は現れない。だからといってどうしようもない。ただ、待った。時間だけがただ、あった。
 駅前の広場。見知ったはずの街。帰ってきたという気はしなかった。
「雪、積もってるよ」
 声。顔を上げると女がいた。知らず、面影を探していた。
「遅かったな」
 俺は言った。
「今何時?」
 答えず、俺は左手を差し出し、袖を捲る。腕時計。安物のクロノグラフ。
 女はその文字盤をのぞき込む。
「わっ、びっくり。まだ二時くらいだと思ってたよ」
 それでも遅れている事には変わりがない。怒る気にはならなかった。女の持つ空気がそうさせたのか、孤独から救われた喜びからなのか、判断はつかなかった。
「ひとつだけ聞いていい?」
「あぁ」
「寒くない?」
 馬鹿げた質問だった。答えず、空を仰ぎ見る。暗い。曇った空に、粉雪が舞っていた。
「これ、あげる。遅れたお詫びだよ」
 缶コーヒー。差し出されたそれを受け取る。冷えた手には熱すぎる程だった。プルトップにかけた指の感覚がない。寒さで痺れている。かまわず力を込めた。乾いた音。
「それと、再開のお祝い」
 7年ぶりの再開。7年ぶりの街並。何の感傷もわいてはこなかった。なにもかも、記憶の底に沈んでいる。戻ってくるとは思わなかった。
「わたしの名前、まだ覚えてる?」
「忘れたよ」
 覚えている。忘れたと思っていた。ここへ来るまでは。
「わたしは覚えてるよ、イ右一」
 女が不満げな表情を浮かべる。気にせずにコーヒーを飲んだ。沈黙。缶コーヒーを空にしてから、俺は立ち上がった。動いた拍子に肩の雪が落ちる。全て、はたき落とした。
 目に映る物全てが過去だった。過去を、白い雪が埋めていく。
「行くぞ、名雪」
 呼んだ。それだけで女が嬉しそうに笑った。歩き出す。
 白く、厚い過去へ、俺は一歩、足跡を刻んだ。