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戦前は有能だったんですか?

嗚呼第四十三潜水艦(1924)

この碑は東山海軍基地にはなく、市内鵜戸越の山頂にあるが、有名な碑であり特に記述する。
佐世保鎮守府の基本演習実施中の大正13(1924)年3月19日午前8時53分、
海防艦「見島」に対し襲撃運動中の「第四十三潜水艦」は巡洋艦「龍田」の船底に衝突して沈没した。
佐世保港外伏瀬の南85度、3浬、深さ21尋の地点である。
艦長桑原少佐以下45名が殉職した。
佐世保鎮守府の救難作業により潜水艦を浮揚し、遺体を収容したのは1ヶ月後の4月19日であった。
碑は大正14(1925)年建立された。

美保関事件(1927)

ワシントン海軍軍縮条約により保有艦艇の排水量を制限された日本海軍は、
夜戦演習によって船員の練度を上げて、戦力の差を埋めようとした。
1927年、島根の美保関で、サーチライトなしで相手を見付ける夜戦演習が行われた。
乙組は、第5戦隊(加古、古鷹、神通、那珂)、第2水雷(夕張)、第22、第26、第27、第29、第30駆逐隊
甲組は、第1艦隊(長門、陸奥、伊勢、日向)、第2艦隊(金剛、比叡)、第1水雷(龍田、鬼怒、阿武隈、由良)
神通、那珂が戦艦たちに接近すると、伊勢、日向、龍田、由良らに照射された。
中でも、龍田のサーチライトの光に捉えられた神通、那珂は、攻撃の機会を失ったと判定され右へ回る。
このとき、後ろにいた蕨と葦に衝突し、蕨は真っ二つになり爆発炎上して全員死亡。
葦は船体後部を大きく削られて27人死亡した。
神通・那珂も船体の下半分が裂けた。
神通艦長、水城圭次は裁判で起訴されるが、判決が出る前に自殺した。
この事件を受けて、連合艦隊司令官、加藤寛治は、
「世間から非難されてもこの演習は続行する。アメリカに勝たなければならないのだ」といった。

水雷艇友鶴殉難者之碑(1934)

昭和9(1934)年3月6日、佐世保港外において佐世保警備戦隊(旗艦・龍田、第21水雷隊(千鳥・友鶴)が
嵐の中、巡洋艦「龍田」を相手に襲撃演習を行った。(真鶴は機関故障で参加できなかった)
7日目にして波が高くなってきたため、演習を中止して一列になって佐世保に戻る。
しかし高波による揺れが大きいため、3隻は分かれて佐世保に向かった。
午前4時12分、「千鳥」は「友鶴」を見失い、午前4時28分、報告を受けた「龍田」は直ちに反転して捜索開始。
早朝から駆逐隊が捜索していたが、午後2時5分、「龍田」が御神島灯台付近で転覆した「友鶴」を発見。
乗員114人のうち、生存者は13人、死亡・行方不明は101人だった。
転覆の原因は、重巡、軽巡、駆逐艦と同じで、過大な武装によるトップヘビー(高い重心)で転がりやすくなっていた。