その昔、立川近辺は、穢多の住む部落だった
そしてそこに住む非人が武蔵の国に入ってこぬよう、その部落と武蔵の国との境に
監視所が設置される
その監視所は、武蔵の国と部落の分かれ目の寺であるとして「国分寺」と呼ばれた

その国分寺から先の地域は、武蔵の国を追い出された非人が武蔵の国との縁を絶つ地、
すなわち「クニタチの地」と呼ばれていた
その地が、今でいう「国立」

また部落では、例の如く革製品の生産地だったことから、武蔵の国の人々はその地を
「皮」を「断つ」地、すなわち「カワタチの地」と呼んでいた
しかし後世の明治時代、廃藩置県を通じて地名の整備を改める折、
その通称通りに「カワタチ」と改めると、部落であった名残を後世に残すこととなり
不憫であるという、かのヘボン式ローマ字を考案したヘボン氏の助言もあり、
「タチカワ」ということとし、そして「立川」という字を当てた

ということで、国分寺と立川の間にあるから国立、というのは、実はガセ