>>767
ヒトの思惟が「決して認識できない存在の根幹(物自体)」なんて怪物を作り出したのは
いったいどういう事なんだろう。

デカルトは、書簡の中で、日常の生活に於いては、主観(自己)と客観(世界)の一致した
状態を認めている。フッサ−ルも、「イデ−ン1」の中で、「実在的世界(客観的存在)」は、
なるほど存在しはするが、しかし、超越論的主観性へと、本質的に関係づけられた相対性を持つ」と、
述べている。 つまり、私達は、普段の日常的認識に於いては、主観(自己)と客観(世界)は、一致を
しているが、哲学的(認識論)に厳密に定義(我思う故に我有り)付けられる事により、主観/客観の分離が
起こる。 カントの「物自体」の概念は、このデカルトの「主観/客観の分離」の認識論から始まっている。
そして、カントは、「主観と客観の一致」と言う事を念頭として、「物自体」を考察し、「物自体」の存在を
客観存在と認めている。しかし、「物自体」は、「対象が空間という感性形式を通して現れる前のものだから、
これ(物自体)を知覚することは出来ない。」と述べている。 しかし、これは人間の感性的認識(五官)から、「物自体」を、
見ようとした為であると考えられる。 この点に関して、フッサ−ルが述べている様に、「構成的内在」から客観的存在としての
「物自体」を認識することは、現象学的に可能ではないかと思う。