◆決定論:脳は物質だから意識は必然に過ぎない191◆
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0001考える名無しさん
2012/07/29(日) 10:08:49.090しかし、脳内には物質以外の「何か」がある(筈)と考える人が居ます。
・・それは願望思考・自己欺瞞という「観念論的誤謬」です。
人間の脳を構成する千億個の神経細胞は軸索を伸ばし、突端から
分泌する神経伝達物質で、他の神経細胞に情報を伝えるだけです。
勿論、脳内には核分裂のような原子核反応もありません。
分子生物学と生理学の対象分野「分子レベルの現象」が全てです。
「この宇宙」で人間の脳だけが「特殊な物質」であるとする科学的根拠は
全くありません。人間の脳も地球上における「物質の進化」の一過程に
すぎず、人間の脳が造り出す『意識』も何ら「特別」ではありません。
『意識』は『クオリア』を持つ動物全部に生成する現象です。
「何を思うか何を意志するか」は、あらかじめ物理・化学法則により
決定されております。自由(意志)感は文字通り『感じ』にすぎません。
量子論の「不確定性」は意識には何の関係もない「単なる観測問題」です。
以上が「超・大統一理論」=量子論と相対性理論の統一後に残存し得る
『唯一の最終真理(思想)』の輪郭です。全宗教全観念論は徒労です。
◆決定論:脳は物質だから意識は必然に過ぎない190◆
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1335539972/
0002考える名無しさん
2012/07/29(日) 16:45:06.17O0003考える名無しさん
2012/07/29(日) 18:40:45.2800004抄録 ◆xOLbFG9QNU
2012/07/29(日) 23:08:22.250一般的な唯物論は物質が根源ですから、「物質のさらにその由来」なんかは問わない。
「なにが物質を生じせしめるのか」なんてことを言い出すときりがないわけです。
ところで、「ある特定の対象となる物質」の、その「性質」とはなんのことでしょう。
実際、物質の性質なるものは、質点の間の差異とか関係とか変化とか運動によって規定されてしまう。
であるなら、「自然は差異(などなど)ありき」であって、実在するのは差異であり、
「いわゆる物質」とは、
その「実在する差異」を感官が情報として受け取って、主観的表象として構成した幻、
なんて物語りも可能でしょう。
じゃあ、「差異(などなど)こそが自然の根源だ」として再構成すればいいじゃんw
てことになるわけですが、それでは元の木阿弥。ネガとポジを裏返しただけ。いやそれ以下。
なんとなればですね、差異なんてものは結局、「特性の強度=量」なんですよ。
仮にそれ(=差異云々)が“時空間に従い連続的に保存される”ならば、これは実体に化ける。
実体なんてものは結局、「実体という意味」であり、エネルギーと同様にツールなんですよ。
エネルギーは、それがエネルギーとしての意味が成立する範囲内(皆さんの言うところのカテゴリー?)
にあるならばエネルギーなんです。(※それが「世界が論理的である」ってことですw)
実体が真理なわけではなく、自然にあっては、その「実体という意味」が成立できること、
そのことが重大問題なんです。
0005抄録 ◆xOLbFG9QNU
2012/07/29(日) 23:09:24.740質量なんてものは、形而上の世界に於いてですら「目は見えない」わけです。
形が無いわけです。(エネルギーもそうでしょう)
質量とは、観測される物体のある特性(の差異)から、思惟によって紡ぎ出された「実体」でしょう。
そして質量が質量として理解されたなら、質量ありきで世界を構成するのが便利だった、ってことでしょう。
それが便利であるのには構造的な理由があるのでしょうが、私にはそこまで考える頭が無いw
あるいは実体の意味にとっては、それが「保存されるなにものか」であるよりも
「粒子(またはその集合)」であることの方が思惟にとって優先されるのかもしれない。
あるいは両方なのか。。。
つづきは明日以降ニュートンの特集をちら読みしてから。
0006抄録 ◆xOLbFG9QNU
2012/07/29(日) 23:21:58.830あなたはオカルト君ではないのかな。。
貴方の言う「感じることで分かること」ってのは「錯覚」のことなのね。
そうすると、貴方の言っているのは「知ることは錯覚ではない」ということなのね?
あとですね、貴方の言う「定義できない存在」とは何だ?
とわたしは訊いているのですよ。
定義できないのだから「○○だ」とは言えないわね。(なので未来の事象だ、とも言えないでしょう)
しかし貴方はその存在に気付いたのでしょう。
どうやってそれに気付いたのだ、ってことを訊きたいのよ。
0007抄録 ◆xOLbFG9QNU
2012/07/29(日) 23:44:32.000先週までエアコンの製造ラインにいたんですが、
機械による完全自動化なんてのは現実的ではないように思いますね。
実際、組立ラインの機械化なんて、ここ数十年あまり進歩が無いと感じます。
ステレオタイプの大量生産が商売としては成立し難い時代なのかしら。
むしろ人の手をいかに有効に利用するか、にベクトルは向いているような。。。
0010抄録 ◆xOLbFG9QNU
2012/07/30(月) 02:16:02.270いや私が訊いているのだよ
錯覚が幻であるときとはどんなとき?
錯覚が幻でないときとはどんなとき?
何を基準に貴方はそれを判断する?
0011考える名無しさん
2012/07/30(月) 09:52:13.880意識は物理法則と同じで既に決定されている」になるんじゃないの。
>10
>何を基準に貴方はそれを判断する?
対象物が実在するかしないかでしょ。
0013抄録 ◆xOLbFG9QNU
2012/07/30(月) 11:15:36.470貴方の言う「幻」とは「実在しない」ということなのだね?
それならば、私が訊いているのは、
(錯覚された)対象物が実在するかしないかを貴方はどうやって判断するのか
ってことですよ。
それを言わない限り回答にはならないでしょう。
0014抄録 ◆xOLbFG9QNU
2012/07/30(月) 11:18:04.030「基準が無いものが後付けで基準が整合する」
んー・・・
それを満たすような例えばどんな状況が考えられますかね?
0015ゲーム
2012/07/30(月) 12:57:50.760差異、関係、変化、運動の由来を問わずに、そこに数“理”を当てて「よし」と
するのなら、このスレで云々しても意味がない。“物理”スレで精緻さを競うのが
常道だろう。それはそれで意味がある。が、ここは形而上学、いや本音をいえば
“神”学スレ。差異、関係…の由来に思惟をめぐらすところに醍醐味がある。w
差異、関係、変移が何によって生じるのか。それらが“無”から生じるのでないのなら、
そこに“働き”があることは否定できまい。その働きを“力”と呼んでいる。
仮に、その差異や関係、変移が「感官が情報として受けとって主観的表徴として構成
した幻」だとしても、幻を表出するためには“力”を必要する。私は“力”を主/客を
貫徹するベタな概念として用いている。
“物質”という存在者が「存在する」ためには、それが“無”を起源としていない
かぎり、差異、変化、運動、関係の産物だろう。つまり“働き”なしに「物質」が
陽の目をみることはなかっただろう。それ以降も常に、物質は“力”の圏域にある。
初めに“力”ありき、とは思わぬが、少なくとも“物質”には先行している。
0016ゲーム
2012/07/30(月) 13:33:38.490“力”は「事物が存在する条件」である。
では“力”を「非・存在(無)」へと媒介し、事物として存在せしめたのは何か。
しかし、その前に力=働きは規則に則っているかどうか。
「世界」は抄録氏のいう動的秩序として「ある」のか。
0017考える名無しさん
2012/07/30(月) 15:39:30.330「力」は「事物が存在する条件」である。「力」を「非・存在(無)」へと媒介し、
事物として存在せしめたのは何か。と、述べている。この文面から察すると、「力」は
「非・存在(無)」の領域へ入り、無から有が生じると解釈出来るが、ここで述べている
「非・存在(無)」とは、客観的存在のことでしょうか。又、この場合の「無」の概念は、
どの様なものでしょうか。
0018考える名無しさん
2012/07/30(月) 16:05:46.460「物質」の概念に対して、
>差異、関係、変移が何によって生じるのか
>それらが生じる働きを「力」と呼んでいる。
>私は「力」を主/客を貫徹するベタな概念として用いている。
私は、「力」を主/客を貫徹するベタな概念として用いている。と、
述べていますが、この「力」の概念に対して、ベルクソンは「観点にも記号にも
依存せず無媒介的に事物の内に入りうる持続的認識」と述べている。この「持続的認識」
としての「力」とゲ−ム氏の「力」とは同じ概念と思います。
0019飛べないカラス
2012/07/30(月) 19:48:52.910時間軸の中に居る者が物質の関係を知る方法はある原因から結果がどうなったかを調べれば
いいのです。
0020飛べないカラス
2012/07/30(月) 20:05:07.180> 定義できないのだから「○○だ」とは言えないわね。(なので未来の事象だ、とも言えないでしょう)
では>>4のエネルギーの定義をプリーズ〜
>>7
> むしろ人の手をいかに有効に利用するか、にベクトルは向いているような。。。
これは緩やかなラッダイト運動ですね。
0022抄録 ◆xOLbFG9QNU
2012/07/30(月) 20:17:44.030なんでそんなことをワシがせにゃならんのかね
>これは緩やかなラッダイト運動ですね。
ほー・・・・。
0023飛べないカラス
2012/07/30(月) 20:23:48.890自分の書いたレスでした〜
0024抄録 ◆xOLbFG9QNU
2012/07/30(月) 20:27:07.980正直、大した内容じゃあなかったですが。
先日来、ヒッグス粒子だろう粒子がが見つかった、とか騒いでますが
どうにも当事者のはしゃぎっぷりに違和感があるというか、感動しないというか
役にもたたん科学者の自慰行為に、あそこまでのべらぼうなおもちゃを与える必要が
果たしてあったんだろうか。。。
しかし一方でハヤブサの帰還には感動したりしたわけですがw
0025抄録 ◆xOLbFG9QNU
2012/07/30(月) 20:34:11.800ん?前スレで「定義できない存在」とか行ってた名無しさんはカラスさん?
それともその「自分」てのは私のこと?
0026抄録 ◆xOLbFG9QNU
2012/07/30(月) 20:59:05.190結論から言えば、私は「しない」と見ます。
物理学の傾向としては、力を別のもの(≒幾何)に解消しようとしているように思えます(まあ、知らんのですが)。
質量も「ヒッグス粒子の海」の中に於ける物質の動きにくさに解消されつつあるでしょう。
すべては素粒子ありき。「時空間」の性質も素粒子の性質に解消されていくのではないですかね。
ここの重大なのは、素粒子は自発的に作動している、ってことです。
ちょっと前にゲームさんに絡んだ名無しさんが「死せる物質」云々と話をされてましたでしょ。
思うにこの「死せる物質」なる考え方には、ニュートンの慣性の法則も影響しているように思います。
止まった物体は外部から力が働かないかぎり動かない。死んだも同然というわけです。
しかし素粒子は外部からの作用(=力)が無くとも活動します。停止することは許されない。
作動する物質が集まって空間を形成し、その作動の総体として近似的にニュートンの運動法則に沿うのだとするなら
「力」とは、個々に作動する物質の集合である「物体の運動」を測るのに便利な概念、
ツールに格下げされる・・のではないかしら。
私の言うことも、カラス君よろしく「何でも物質論」になってきましたがw
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