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一時的な小さな死:「睡眠」とは何か? 

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0001考える名無しさん2005/12/01(木) 00:34:04
 医学的生理学的に意義はあろうが、哲学的には無意味なもの:睡眠

 死を怖がる者も、睡眠は恐れない。 だが熟睡中の君はいったい何処にいるというのか?

 存在論、実在論でさえ、睡眠をまともに取り扱わないのは何故?
0128出張@喪板2007/01/15(月) 06:15:01
明けましておめでとう。


>>127
そこで対偶を持ち出すと、同義反復になってしまう…と思ったが、
この同義反復に対しての否定的観念自体が不必要か。
>>レイモンド・チャンドラー、の件は、即ち、自己の中では睡眠が小さな死と
結び付けられている事を示している、と捉えて宜しいのだろうか。
この様な自己内の定義は、公開して了承を取って置かないと、後々
下らない論争になる事が間々あるので確認を取る事は賢明だろう。
ただ、たとい他個体に「表現出来ない」とされようが、内省である
哲学的な考えへの影響は少ないだろう。
自己が「出来る」と言い切ってしまえばそれまでなのだから。
まあ、その事によって自己の考え、その回路が強化されたり切断されたりする事は
多分にある為、その影響に対する予防線としての意味合いはあるのかも知れない。
0129出張@喪板2007/01/15(月) 06:15:35
宗教に関しては余り軽口は叩けないのだが、仏教としては転生を繰り返して
叡智を蓄積して行くのが基本的プロセスと考えている。
其処では叡智は魂に蓄積されるのだが、転生により全く別物の個体に生まれ変わる為に、
転生した私の魂は、元々の私(ヒトで言えば脳に依存する「私」と言う意識か)
とは相容れない物になってしまっている。
これは「私」の死を回避したい者にとって、余り良い回答とは言い辛いかも知れない。

一方キリスト教だが、こちらは最後の審判によって天国と地獄に分けられ、
それが未来永劫続くと言うから、「私」の死を回避する事は出来ている。
ただ、永遠の地獄へと行かない保証も無いが。

>>審判の日までの眠り、はその通りなのだろう。
>>1兆年、と言うのも所詮はヒト個体にのみ通用する概念であって、
死した「それ」に通用する概念なのかは、些か疑わしい。

時間軸が取られる為には、タイムスタンプを取る必要がある。
即ち、視覚等の入力が処理され作られた世界の像が、意識まで何度も
伝達される必要がある。そして、前回の像と照合する事で、其処に時間が生まれる。
こう仮定してみれば、もし「それ」に外界を入力する機関があろうとも、
それは「私」と同一の物ではなく経過の感は異なるだろう。
0130出張@喪板2007/01/15(月) 06:16:36
>>そういう仕様が実現されているのは実に不思議なことだ
そんな事を言えば、「私」が実装されている事の方が不思議だ。
これは淘汰の圧力によって必要性が出て来た仕様、もしくは
必要は無いけど淘汰の圧力が掛からないので破棄されない仕様、の
どちらかだろうとは思う。
医学はヒトの循環器系、神経系、内分泌系等を白日の下に曝け出したが、
実用的意味の薄い睡眠にメスを入れる事は殆ど無かった。
やっと最近になって、脳科学や神経工学が発展して来たところだ。
それ故、今でも不思議なブラックボックスであるのは仕方無いのだろう。
まあ、だからこそ今でも哲学の領域で論じ得る事なのだが。


>>その時「私」はどこにいるのだろう
恐らくは、何処にも居ないのだろうね。
「睡眠中の私」は「停止中の私」なのだろうが、「解体された私」は「消去された私」
なのだろうと思う。
それ故、これは生物として畏敬の念を抱くべき事象なのだろう。
0131出張@喪板2007/01/15(月) 06:17:11
>>「私」を形而上的な存在として私は存在する。
>>と主張したい
「私」が形而上性を持つもの(そしてそれ故に、生死を越え得るもの)、と言う主張は、
見事に前項の認知症患者の症例によって否定されてしまう気がするのだが、如何だろう。
形而下の個体の破損によって、いとも簡単に「私」は「私」でなくなる。
また、たといその状態を「停止」と呼ぼうとも、再開の目処がある訳でもない。
主張したい、そうであって欲しいのは私も同じだが、>>どうもそうでもない
のかもしれない、ね。

とか考える月曜の朝。行って来ます。
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