>>827
すべからく同意

特に信心深いわけではない家だったが、うちではじいちゃんが毎朝お経を上げてた。
母ちゃんがばあちゃんの仏壇に毎日ご飯盛って、それを供えるのは孫の俺らの役目だった。
正月は神棚に家族揃って拍手打って、
神社の祭りは近所のおっさん達が仕切り、声をかけてくれる。

そして、宗教を軸に生活するんじゃなくて、生活の中で万物に宿る神仏を畏れ、
自分より年齢に長け万物の理を多く知る大人を敬うようになる。

触れるもの全てに魂があると考えその魂ごと畏敬することで、
自分一人救われたり幸運がふってわく事なんてありえないが、
それを望む自分の内面に立ち返り、傲慢を恥じる事はできる。
それに、宗教的な行いの中で年齢ごとに自分の役割を見出す事で、
小さくは家族、そして邑、大きくは歴史を構成する一員であると自覚できるし、
自分の成長を確認し責任を感じる事ができる。
そういう日本の宗教や生命観はもともととても人に優しいもので、貴重なものだと思う。

中でも新潟の豊かな自然の中で培われ、政権からある程度距離を保って成熟した宗教行為と比べると、
正直カルトなんて全部ネズミ講や新興ヤクザ程度のもんだ。
そんなもんに救いを求めるくらいなら八ヶ岳に一人で一週間こもった方がよっぽど建設的だよな。