関東は北方系の縄文人、西国は南方系の弥生チョンだったことが判明 ※ただし、胴長短足©5ch.net
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大陸(半島)と海峡で距離が離れてから、日本が孤立し始め、僅かな縄文系の少数民が、孤立した
日本列島内で狩猟採集をしながら移動して生活し始め、5000年前に北陸から関西に定住した縄文人が
先住出雲族の祖、国常立(クナト)大神=イザナギ神。
後に移住して来た葦原中津国の渡って来た渡来出雲族の祖、天之御中主神は、2000年〜3000年前に神武天皇と共に渡って来た神。
続いて、2000年前に渡って来たのが、天照族の天穂日と天若日子で、この辺りの渡来が弥生系統の渡来のようだ(この系統が渡来倭人のようだ)。
その後、渡来が増えて人口が一気に増えて来て、南関東や東北に移住先を求めて、先住出雲族と渡来出雲族共々、開拓に乗り出したのが、後の国造家に成る。
開拓を始めしばらくし、数世代後に西暦200年から300年頃に徐福秦氏を=する天若日子の裔の饒速日(物部氏開祖)が現れ、その弟が、今の南九州に居た邇邇芸の物部印恵(崇神天皇とされている)。
徐福伝説を今に伝えて来たのが、滅んだ饒速日の物部氏の親類筋(おそらく、徐福が大陸(半島)から連れて来た若い男女の移民集団の末代)にあたる、越智氏筋の裔、倭寇水軍の河野氏だと言う。
この、徐福=饒速日が、九州から上京して来た弟の邇邇芸=物部印恵(崇神天皇)と共に徒党し南関東・東北開拓中に反乱クーデターを起こし、西出雲の杵築大社(旧出雲大社)司祭の18代目・大国主を襲名していた、出雲(神門)振禰を殺害し
杵築大社の新たな司祭に成ったのが、饒速日と邇邇芸の軍(四道将軍)を西出雲へ導いた・裏切り者の天穂日の一族だった・・。
これが、後の出雲国譲りとされている。
※この時点で、縄文人と弥生人(倭人)は、混血している。
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