私はサンカ系?
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0001孤児
NGNG町名が「さざらい」というのですからサンカでしょうね。
親族は長身で色白で毛深く日本人離れしているので、
昔から、私は変な視線をを受け育ち、母は結婚差別を
受けたとか(内容は語らない)。下の記述はその根拠と
なるでしょうか?
一帯を開いたのが藤原氏の後裔だったから藤原と名付けられたと考えるのが自然だが、調べてみると、藤原岳の名の方が古いと思われる資料も多い。
藤原氏は「源平藤橘」四姓の実質筆頭であって、日本史上、最大の祖姓である。私は、4〜7世紀頃、天皇家の先祖とともに朝鮮半島から集団でやってきた鉄器と騎馬文化をもった民族の後裔と考えている。彼らは九州北部〜若狭に至る山陰地方に上陸して拠点を置き、九州・山陽道・関西・東海道に強大な勢力を広げ、米作文化をもたらした中国江南系の先住弥生人と激しく争いながら権力の主導権を奪い、円墳を遺した弥生人系ヤマト王朝から、方形墳を遺した騎馬民族系大和王朝に権力を移し変えた。その血筋は、一貫して天皇家とともに日本の貴族・武家支配階級の本流にあった。
だが、藤原氏の祖とされる中臣鎌足が、高千穂降臨の案内役たる猿田彦命の随臣の第23世子孫と称したことは、藤原氏の出自に微妙な陰影を与えている。「大化改新」に大功のあった鎌足は、669年、天智天皇から居住地の奈良県高市郡藤原の地名をとって「藤原」姓を与えられ、これが全国の藤某姓の発端となった。
藤原以外にも藤のつく佐藤、伊藤、近藤、武藤、斉藤、藤井、藤田、藤村、また黒田、落合、星野などの姓も藤原氏の変姓と考えられている。いずれも日本史に頻繁に登場する最大級の姓名で、武家の先祖は大抵、この一族に行き着くのである。
かつて、私の仕事先に二之湯さんという珍しい名字の方がいて、出生地を聞いてみると藤原町であった。員弁街道沿いに同名の酒屋があった。この方は港でトラック運転手をしておられたが、風貌は人品骨柄卑しからず、濃い眉、優しく大きな目、エラの張った堂々とした人相で、剛胆にして沈着、まさしく古武士の風格をもった方であった。
過去に、私は藤原氏の子孫とされる遠州の京丸藤原氏や平泉藤原氏のご子孫も拝顔したことがあるが、いずれも上に書いた特徴をもち、古武士を連想させる風格をお持ちであった。天皇・秦氏・紀氏など騎馬民族・貴族系の人相は薄い眉、切れ長の一重瞼が特徴なのだが、私の知る藤原氏の後裔と思われる人々は、どういうわけか目が大きい二重瞼の人が多く、天皇系の血筋の外見的特徴と似ていない。あるいは蝦夷の血が入っているのであろうか。
0262天之御名無主
2005/04/27(水) 03:22:46倭人の事ですよねッ?!
私も、お爺さんが広島内陸部の出身で
私の特徴は、身長は176センチ
色白、乳輪はピンク、額は広く
眉は少し酷眉尻は上がり、奥二重で
歯は親知らずが生え揃っていますし
顔立ちが整っていて、鼻筋が太く通り
髪は、左後ろ髪がカールしたヨーロピアン足は人差し指が長く親不孝足のギリシャ足性格は個性的で嘗、繊細です。
私の姓は「島谷」で歴史上の人物は唯一
小笠原諸島の探検隊隊長の
幕府の武士、「島谷 市左衛門」 と言う人がいます。
関東には、
「大島谷」、「中島谷」、「小島谷」等々の姓を持つ人もいます。
関西では、「島谷」と「嶋谷」位しか見当たりません。
私の家は広島に幾つか在る島谷家の一応
本家で私は次男です。
関西の「島谷」と書く姓は、ほぼ全て発祥地は広島になります。
顔立ちの共通点は中国地域や四国に多い
二重、額が広く、顔立ちが整っていて
鼻筋が通り、性格は荒々しく個性的
先天性のハゲは父方の親戚には居ません。婆ちゃんは、旧姓「出石」おそらく近畿出身なので、出石民族の可能性がある。
しかし、婆ちゃんから家の島谷家に
五七の霧の家紋を譲り受け、婆ちゃんは
夏ミカンの木を育ててたから豊臣家の家系なのは間違い無いでしょう。
誰か「島谷 市左衛門」のその後しってたら
教えて、情けない事に私の父達は、ルーツに興味が無いため爺ちゃんの代の事までしかしりません。(T_T)
歴史家の方責めて「島谷 市左衛門」に詳しい方教えて下さい。
0263天之御名無主
2005/04/27(水) 05:05:32「誤」五七の霧
「正」五七の桐
です。寝ぼけてました。
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