エビデンスが全てではないと言えば聞こえは良いし、それはそうなのだろうただ、その場合に効果があるか否かの判断基準はどうするのかという問題はいまだ釈然としない
瞑想を例にとってみよう。瞑想はエビデンスこそないが、集中力や感情に流されないこと、気付く能力には効果あると主張する人が一定数いる。
しかしながら、その根拠は極めて脆弱である。多くの人は仏教界の言い伝えや修行を積んだ僧侶を根拠にしているかもしれない。
しかし、その言い伝えやイメージはどの程度正確なものだろうか?悟りを得たとされる人物たちを見てみよう。
テーラワーダのトップ、アルボムッレ・スマナサーラ長老は香山リカとの対談で、マインドフルネスを仏教界から盗用していたと激怒を口にしていた。感情にありのままに気付いていたならば激怒するにせよ、公の場で口にすることはなかったのではないだろうか。
タイの屈指の名僧、アーチャン・チャーは糖尿病でお亡くなりになったが、手遅れになる前に自分の身体に気付くことはできなかったのだろうか。
ジョブスも敬愛していた禅の達人、鈴木俊隆は晩年までそそっかしいミスやガサツな所作が無くならなかったという。気付きを持続できてなかったのではなかろうか。
マインドフルネスの伝道師、ティックナントハンも数万時間は修行していたが、友人の死によりうつ病を発症した(もっともこれを修行で治したが)。
かのダライラマ14世は、大学留学した時に勉強そっちのけで遊ぶことを我慢できなかったと告白している(幼いころから毎日5時間は瞑想していたのだから、この時点で優に1万時間は超えているであろう)
彼らはいずれも数万時間は瞑想に費やしており、少なくとも我々一般人とは比較にならないほどの瞑想のエキスパートある。その彼らでも、一般に我々が抱く理想像とは程遠いならば、我々が得られる能力もイメージほど大層なものではない可能性がある。
このように、エビデンスがなくても効果があると主張する場合、その根拠が独断的イメージや無意識的に得た情報が基になっていないかは、なお検討を要するのである。