それを見てあわてたのか、翌年春には、大学院研究科委員長という大幹部であった森田一寿教授が
突然に辞めて目白大学に移った。移籍が決まってからは堂々と上野親子に反旗を翻して
教授会で言いたい放題だったそうだ。それに怒った上野一郎はアラ探しをして2002年3月に
退職直前の彼に戒告処分を食らわせた。巻き添えを食ったのは大学院研究科主任の宮俊一郎教授だ。
それでだいぶ給料を減らされたらしい。

次に標的になったのが例の玉木彰助教授だ。2002年3月ごろから周到に罠にかけられていたらしい。
2002年7月に解雇通告を食らったんだが、大学が予想もしていなかったのは、全面攻撃に出てきたことだ。
自分に対する解雇通知書と反論書をインターネットで全面的に公開し、しかも労働組合を作って全面対決に及んだ。
当時、その様子は「翻る叛旗」と評されたほどだ。私大ユニオンを通じて日教組の支援を受け、情報公開を進めたからたまらない。
産能の世評はみるみる下落した。
大学側弁護士は当初強気だったが、団交記録まで公開されたし、解雇無効の確認を求めた仮処分でボロ負けし、
しかもその決定通知書を公開されたから、敗色は誰の目にも明らかだった。意地を張って裁判に突入したが、
理事長が証人に引きずり出されそうになったこと、産能の商売にも何億円という影響が出たことなどから、
和解という形だが、とうとう解雇撤回せざるを得なくなった。相当な金額の解決金も払ったらしい。
裁判で負けたってのはそういうことだ。

この間に労働組合は産能ユニオンって形に発展し、法人登記もしたそうだ。組合員も増えた。
委員長は宮教授になり、玉木氏は書記長になった。
産能の経営陣は愚かにも職員を集めて「組合に入るな」ってな演説をしたり
団体交渉にまともに対応しなかったりしたもんだから、
組合は都労委に不当労働行為救済申立をした。これは玉木氏の裁判とは別だから、
産能はさらにやっかいな問題を抱え込むことになったわけだ。それはまだ続いてる。