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第101回全国高校野球選手権大会決勝(履正社5−3星稜、22日、甲子園)二塁から遊撃に転送されたボールが最後に一塁手のミットに収まった。

併殺で初優勝が決まった瞬間、履正社・岡田龍生監督は松平一彦部長らとがっちり握手をかわした。その満面の笑みの奥の目は真っ赤だった。

 「夢のようです。泣かないと思っていたけど、自然と涙が出てきました。奥川君にチームを大きくしてもらったと思っています」

 1987年4月、履正社の野球部監督に就任。岡田監督の言葉には、苦節32年で頂点にたどり着いた喜びがあふれ出る。

 元々、体育教師になることを希望。体育教師を探していた履正社からオファーがあり、受け入れたが、「学校としても野球部の強化というのは全く考えていなかったのではないでしょうか」と振り返る。

 当時の野球部は数年間、指導者不在の状態。部員は11人しかおらず、うち3人が卓球、体操、陸上部員。
練習グラウンドもなく、練習試合をしたくても無名のため、相手にしてもらえず、河川敷で試合をしたり、母校の東洋大姫路(兵庫)の3軍と試合をさせてもらったこともあった。

「口では『日本一を目指す』と言っていたが、心の中ではどこかで無理だと思っていた」と打ち明ける。

 それでも何とか強くしようと持ち前の負けん気で選手たちを鍛え上げた。その甲斐もあって就任11年目の97年夏の甲子園に初出場を果たすと熱血指導にますます力が入った。

 だが、2002年、ときには体罰もあったという「行き過ぎた指導」が問題となり、半年間の謹慎処分を受けた。

 「そこが指導者としての転機になった」とスバルタ主義との決別を決意。
対話を重視するようになり、選手だけでなく、親とも面談を行い、家庭も一体となってチームを盛り上げ、強くするスタイルに変えた。
「卒業生、保護者、家族の協力のおかげで日本一を取れた」という言葉に実感がこもる。

 昨年は大阪桐蔭が史上初の2度の春夏連覇を達成し、話題を集めた。「大阪は大阪桐蔭だけではないというのが分かってもらえたのではないでしょうか」と大阪の高校野球人としてのプライドをのぞかせた。