宮崎県宮崎市 Part21
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0447名無しさん
2017/10/28(土) 15:59:29.46ID:Km+BzIu6土曜の暇つぶしに調べてみた
●阿波岐原について
古事記以外での最も古い記録は、19世紀前半の「飫肥紀行」の「アワキカ原」。
19世紀末に成立した「伊能図」には、発音が類似する地名もなし。周辺地名は江田村、山崎村。
明治4年に農商務省 地質調査書発行の『宮崎圖幅』では「江田」はみえるが「檍」「阿波岐原」の記載はみえない。
明治40 年に神武大祭を記念して地元の店舗と考えられる松井修進堂から発行された『實測宮ア縣地図』には「檍」 がみえるが「阿波岐原」はない。
明治22年の市制町村制施行により周辺が「檍村」となる。
檍村が昭和7(1932) 年に宮崎市に合併した後、周辺を「阿波岐原町」とする。(同時期に小戸町も成立)
昭和11(1936)年に陸軍陸地測量部が発行した20万分の1図に、「阿波岐原」の記載
本居宣長が「阿波岐原」について『古事記伝』の中で「日向に 曾て橘の小戸の地名を聞かず」としている
なお、「御池」については、現在、第2、第3砂丘間の低地に存在しているが、第3砂丘の形成時期は15世紀中葉から16世紀中葉と推定されている(甲元眞之2012)。
また、1498(もしくは1512)年に起こったとされる日向灘沖明応地震や、江田神社を移転させたという外所地震など、
明確な記録はないが津波の被害を予想させる災害をこの時期前後に経験していることも見逃せない。
したがって、記紀成立時はいうまでもなく「飫肥紀行」成立時期についても現在の「御池」が形成されていたかどうかはおおいに疑問があろう。
また、その他の記紀伝承にまつわる 名勝の多くが第3砂丘上に位置していることも注意すべきだろう。とのこと。
出典:宮崎県埋蔵文化財センター2013年発行「山崎上ノ原第1遺跡」
●大規模な弥生時代の遺跡群(日本最大の木棺も出土) について
wikipedia 弥生時代の遺跡一覧では、宮崎県には「檍遺跡」の1つのみ。
檍遺跡について
弥生時代前期に属する積石墓9基と小児用の甕棺墓3基が発見。
檍第2遺跡では、竪穴建物1棟、掘立柱建物7棟、土坑2基、溝5条、不明遺構2基を発見。
なお、9世紀後半には衰退期に入っていた模様
※「大規模」と「日本最大の木棺」については、記録を発見できず。
●生目には古墳時代初期の大規模古墳群、古墳だらけ、日本最大級の古墳群といわれる西都原古墳群 について
西都原古墳群は日本最大級の古墳群であり、全国に46箇所ある陵墓参考地のうち男狹穂塚・女狹穂塚の2つを有する。
なお、文化庁によると、宮崎県の古墳の数は全国トップレベルの県にくらべ桁が2つ少ない模様
http://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/pdf/maizobunkazai.pdf
●貴重なハニワ群も大量出土。
宮崎県では、家形や舟形の埴輪は出土していたが、お土産で売っているような人物の埴輪の出土はなかった。
しかし平成9年から発掘を始めた百足塚古墳(新田原)から県内唯一の人形埴輪が発掘された。
●田野町には、約3700年前の西日本最大の都市が形成されていた縄文遺跡。これはメディアでも大きく報道された。
本野原遺跡:縄文時代後期には九州地方では極めて類例の少ない大規模な集落を形成していた(文化庁)
東日本の影響が強く反映されているという謎の遺跡でもある(東日本風の大型掘立柱建物に類似した建物は、西日本で初)
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