☆☆☆姫路市スレッド204☆☆☆
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0736名無しさん
2017/12/25(月) 20:26:51.33ID:13epbWyB16世紀前半、御着城(現在の姫路市御国野町御着)を中心とした赤松支族の小寺氏が播州平野に台頭、その被官であった黒田重隆が城代として姫路城に入りました。
重隆によって居館程度の規模であった姫路城の修築がある程度行われました。
その後、孫にあたる孝高に伝えられたころ織田信長の命を受けた羽柴秀吉が進駐すると、
播磨国内は織田氏につく勢力と中国地方の毛利氏を頼る勢力とで激しく対立、最終的には織田方が勝利し、
毛利方についた小寺氏は没落した。しかし黒田孝高はそのまま秀吉に仕える事となった。
天正8年(1580年)、黒田孝高は秀吉に居城であった姫路城を献上した。
その際、秀吉は城の増築、および山陽道を姫路に通すようにした。
その後、明智光秀を倒した秀吉は大阪城を築城したためそちらに移り、
姫路城には弟の秀長が入ることになった。(後に転封したため、親族の木下家定が入る)
そして、関ヶ原の戦いのあと家定が備前に転封、かわって池田輝政が入城(輝政によって8年掛かりに及ぶ大改修が行われ、広大な城郭が築かれる事となる。)
元和3年(1617年)、池田氏は跡を継いだ光政が幼少であることを理由に池田氏が転封、本多氏が入ることとなる。
1618年には千姫が本田忠刻に嫁いだのを機に西の丸が整備され、全容がほぼ完成した。
その後、本多家の後は奥平松平家、越前松平家、榊原家、再度越前松平家、再度本多家、再度榊原家、再々度越前松平家とめまぐるしく入れ替わる。
そして1749年、酒井氏が入ることにより落ち着く形になる。
江戸時代の姫路城は天守の重量に礎石が耐えられず東に傾き、『東に傾く姫路の城は、花のお江戸が恋しいか』などと歌われるありさまであった。
幕末期、酒井氏は幕府側についていた為、姫路藩は朝敵とされ姫路城は岡山藩と龍野藩の兵1500人に包囲された。
その際、留守を預かる家老たちは開城を決定。しかし池田氏による威嚇射撃が城南西の福中門に命中している。
結果的には開城、姫路城での戦闘は一切なかった。
明治時代
1873年の廃城令により城の多くが不要であるとして破却された。
姫路城は競売に付され、城下の米田町に住む個人が23円50銭で落札した。
瓦を売るつもりだったが解体費用がかさみ、結果そのままにされ権利も消えた。
城跡は陣地として好適な場所であった事から、陸軍の部隊は城跡に配置される例が多かった。
1874年(明治7年)には姫路城内に歩兵第十連隊が設置された。この際、本城などの三の丸の建物や武蔵野御殿、向屋敷などの数多くの建物が取り壊された。
さらに1882年(明治15年)には失火で備前丸を焼失している。
1928年に姫路城は史跡指定され、文部省の管理となる。次いで1931年 天守閣を国宝指定(ただしこれは旧国宝)
昭和の大修理は1934年、西の丸の渡櫓が豪雨のため石垣もろとも崩壊したのを契機に開始された。1944年太平洋戦争の戦局悪化により中断。
1950年に大修理は再開される。
1955年までに天守以外の修理を完了。
1956年より天守大修理に着手する事となる。
基礎は礎石を撤去し(三の丸広場北方にそのままの配置で移動された)、
新たに鉄筋コンクリート製の基礎が構築された。礎石のままでは天守の重量を支えきれないためである。
天守を解体した時、これを支えていた東西の「心柱」のうち、
西の心柱が芯から腐って再利用不能であると判断された。ただちにこれに替わる巨木探しが始まった。
1959年になってようやく、岐阜県恵那郡付知町(現中津川市)の山中に最適な檜が発見された。ところが、
これは切り出す途中に折れてしまい、その近くで発見されたもう一本は運搬中に折れてしまう。
窮余の策として二本目の根本側と笠形神社の檜とを継ぎ合わせて使用される事となった。
天守の修理は1964年竣工した。
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