実際、格闘家の秋山の件で話題になったように、国籍を取得したした際に何らかの契約を
交わしたとは必ずしも意識されてない(秋山のように心情的に韓国人であることも有り)。
「国籍は契約だ」といっても、どう見ても契約してるとは思えない者でも国民(主権者)になってる。
その一方で、「日本人にはないたくない」として帰化を拒む者もいるだろう。
国籍制度が単なる事務手続きで、「踏み絵(韓国人であることの否定)」を迫るものでないなら、
それはほとんど「有権者登録に必要な事務手続き」と同じことで、外国人登録などの
制度には普通に従ってる者達がこれを拒否するとは考えられず、
国籍をもって、有権者認定する制度でも、憲法(固有の権利)や人権宣言(思想信条による差別の禁止)
に反することはない。みんなが秋山だったら、国籍でもいいわけだ。
しかし、国内の日本国民に対する有権者認定がそうしているように、
有権者認定は住民登録で十分なわけで、国籍の位置づけが宙に浮いた形になる。
そして宙に浮いているがゆえに、国籍が通常の意味での「契約」を意味するものであるのか、
また、単なる印であるのか、さらには印ですらない手続き上の表現なのか、
政府と人民の意思で自由に変わることになる。
結局、「国籍は契約であり、だからこそ、主権者認定に相応しい」というのは
人権規約その他に反するし、「そんなの個人の勝手(秋山もあり)」とするなら、
国籍が契約を意味するという前提が崩れる。そして、いずれにせよ、
「踏み絵」になるだけでなく、政府の裁量が大いに認められている(剥奪も有り)という
のは憲法(15条)に反する。