ぼくも確かに慶應に入っただけの甘ちゃんだった昔の頃は、
「自分のこころの持ち方一つで、世界なんてどんな風にも変わる。 どんな仕事でも、
給与がいくらでもぼくのこころは何にも侵されない。」などと思っていたものよ〜

だがこういった、周囲の世界への認識法を変えることによって、心の平静を得ようと
する受動的な自由っていうのは、本物なんだろうか? ぼくは甚だ疑問なのよ。
やはりそこには、負け犬の遠吠え、引かれ者の小唄的要素が存在するね。

例えば職業の上で自由な裁量が制限され、自分を押し殺すことのみを
求められる人が(はっきり言ってペコペコしている人が)プライベートの
時間になったときだけ、別人の如く充実するって難しいんじゃないの?
仕事もプライベートも同じ人間が行なうもの。心はつながっているんだからね。

ぼくが通俗終身刑と以前から繰り返し言っているのは、こういうことなんだよ。
分かってくれたかな?