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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2011/03/28(月) 17:52:20.47ID:ux4D2XKZ0名前: 大室寅之スレ@桓武から万世一系w
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内容:
田布施人脈陰謀説
山口県(旧長州藩)熊毛郡田布施出身者が日本を支配していると
いう陰謀説。南朝系(ただし後醍醐天皇の玄孫光良親王の末裔の
大室家と自称はしているが田布施町の大室家の家系図によれば
大室寅之祐の曽祖父初代大室文右衛門(1800年頃麻郷村に土着)
の代からで光良親王から初代大室文右衛門までの400年間の系図
が空白になっている。そのため1800年以前に大室家自体は存在し
なかった。初代大室文右衛門が文政時代で病死。2代目大室文右
衛門が家督相続。このころ大室家は大庄屋となり家がさかえ
南朝の末裔を自称する家系図がつくられ大室家が注目される。さらに
3代目大室弥兵衛は2代目大室文右衛門本家の子が早死してしまい大室家分
家筋の大室又兵衛家から大室本家に養子に入って家督相続し、さらには幕末
大室家は大室弥兵衛と本妻ハナの間の子2人が早死してしまい後南朝の大室
家が幕末断絶してしまう。文政時代麻郷村を荒らしていた海賊某の子であった
荒くれ者の作蔵が満14歳で元服し海賊から足をあらい村の名士地家吉左衛門家
(600年以上続く家系で先祖は藤原純友の乱の時に活躍した「海賊」といわれている)
(地家とは村の中心という意味で昔麻郷村の役場があった)(現在の地家家本家は利
通氏が相続している)の養子に入り地家河内作蔵となのって苗字帯刀を許され士族階
級に昇格。廻船業を起こし財を築く。
地家の西円寺に京都から京都浄土真宗興正寺門主一族であった興正
>>2に続く
寺(大谷)昭坊と娘のスヘが1842年〜1843年頃赴任しさらにスヘが地家作蔵と結婚した。
(作蔵19歳のころ)(なおスヘの姉は長崎に嫁ぎ谷口姓のナカで伊東巳代治を産んだので伊
東と大室寅之祐は母がたの「いとこ」の関係にあった。寅吉(のちの寅之祐)が長崎でのフル
ベッキの写真を撮ったがこの時長崎のおばを訪ねて行ったとされる)。 地家河内作蔵が満20歳
のころ麻郷村地家に家をつくる。その後作蔵20歳のころ第一子誕生(1歳で早死)。22歳ころ長女
ターケをつくり24歳のころ長男地家寅吉(大室寅之祐)誕生。27歳のころ地家庄吉誕生。28歳のこ
ろ朝平誕生。 ところがスヘが朝平生まれてすぐの1854年作蔵の暴力により離婚。長女ターケと3男
朝平は地家作蔵がひきとり長男地家寅吉と2男地家庄吉をスヘがひきとり実家の西円寺に帰るが1855
年1月スヘは大室弥兵衛と再婚し弥兵衛の2号となり、地家寅吉が大室寅吉(のちの大室寅之祐に)地
家庄吉が大室庄吉となって大室家を相続した。(大室寅之祐は1868年(旧暦)1月15日明治維新の際京都
御所において京都明治天皇を追放して明治天皇とすり替わったとされる人物)。などをはじめとして、
戦前の陸海軍の軍人、戦後の政治家などに田布施出身者が多数いるとされる。鹿児島県(旧薩摩藩)
の加世田市金峰町もかつて田布施と呼ばれていた。鬼塚英昭などが主張している。
原田実氏が大室近祐氏(大室寅之祐の弟大室庄吉の孫)を訪問したさい原田氏は偽史
を正すつもりで田布施町にきたが近祐氏が「大室家の出た田布施町麻郷は世界文明の中心地で
ある」と主張するので原田氏が大室氏を「気の触れた人物」と酷評したがようは大室家が南朝の末
裔でもないなら結局「幕末、田布施町における情報の集中による権力化が明治維新の原動力となった」
という意味で普通の人には理解しがたいが、要は玉(タマ)をとる(キャスティングボードを握り政治を
動かす)ためには「情報の量により」=「権力」基盤が出来上がり今でも西郷や三條実美や伊藤博文が麻
郷村に立ち寄ったとされる石碑が残っていて平成時代になっても橋本龍太郎の権力の源が祖母が大室家の女
であったり佐藤、岸はもちろん安倍晋三元総理の地盤ももとはといえば田布施町につながるのである。
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