Y-DNA遺伝子ハプロタイプから見た隼人、熊襲、蝦夷考
http://www1.parkcity.ne.jp/garapagos/3-26.htm

● 隼人考

Y-DNA「C1」は南方から「D」と共に陸だった東シナ海−黄海ランドを遡り、沖縄には港川人という石器時代の遺跡を残しオーストラロイドと最近判明しましたが、
そのまま沿岸部を恐らく漁労に適した海辺で拠点を形成しながら、青森まで北上し津軽海峡(ブラキストン線)に行く手を阻まれ定着したため、
現状のデータでは沖縄と青森に今でも「C1」としては列島で最大の遺伝子頻度8%以上を残しています。
つまり約12人に1人は「C1」なのです、これは驚くべき頻度と言うことができます。オーストラロイドの遺伝子は意外に多いのです。
これらから推察すると海と関連が深いような記述の多い隼人は当然「C1」で海洋性の海の男の原点遺伝子でしょう。
しかし同じ「C1」遺伝子は沖縄から青森に至るまで沿岸(特に太平洋)各地に残ってきたはずなのです。
本来なら隼人は日本列島各地に居住していたはずです。恐らく風土記を詳細に調べれば隼人と同じ風俗習慣の集団の記載が見つかるはずです。


● 熊襲考

一方Y-DNa「C3a」は韓半島から大型動物を追って南下して来た陸のハンター集団のため、沿岸部には居住せず内陸部に居住していたはずです。
九州に「C3a」としては列島で最大の頻度8%を残しています。熊襲の記述は内陸的なので間違いなくY-DNA「C3a」でしょう。
恐らく肥後もっこすの形質は「C3a」ではないかと考えられます。
海幸彦が「C1a」なら、山幸彦が「C3a」で、大和朝廷族に恭順的だった海幸彦が記紀で良く描かれ反抗的だった熊襲の山幸彦は負けたように描かれたのでしょう。

陸のハンター「C3a」にとって大型動物、ナウマン象なども獲物だったはずで、長野県の野尻湖にナウマン象の化石が発見されることから、
本州にも動物を追って「C3a」は移住したはずです。しかし沖縄では頻度が低く九州南部で多くは留まったようです。
寒冷化し始めたシベリヤで寒冷地適応を若干受けた「C3a」は、オーストラロイドの形質そのものだった彫深でいかつい顔立ちの「C1」に対し、
ややいかつさが減りツルっとした端正な彫深のイケメン顔立ちに変化をしていたはずです。
交配が進んだ現在と異なり、当時は大和朝廷族や純粋な弥生人の子孫とはかなり異なる顔立ちだったはずです。

多くの弥生人は居住地域が似通っていた「D」のジャガイモ顔系の縄文主流系とは交配をしていたはずですが、ハンター系の「C」とは居住地域がかなり異なるため、
古代には交配はあまりなかったと考えられます。「C3a」は「C1」と較べて独立性や独自の風俗習慣を頑なに守り通そうとした集団だったようです。
出シベリアしアメリカ大陸に渡る大冒険を行った「C3b」、ユーラシア大陸の東西に大モンゴル帝国を作った「C3c」など「C3」は大陸的な大冒険遺伝子の集団で、
支配したがり屋の搾取遺伝子の「O3」大和朝廷族とは全く相容れないのは当然でした。
このため大和朝廷族とは衝突を繰り返し、ハンター集団だったため武力もあり、大和側はかなり手こずったようです。