上町の寺町は、豊臣秀吉が大阪に散らばっていた寺を一箇所に集めて、形成されました。
上町の寺町と同じように、秀吉によって作られた寺町として、京都の寺町通りがあります。
ところで、なぜ秀吉は、上町に寺を集めようとしたのでしょうか?
そもそも、上町周辺には、四天王寺や生国魂神社のような古寺を中心に、自治都市が形成されていました。
その自治都市を解体し、武装解除させ、徴税をおこないやすくするために、上町周辺に寺が集められたようです。
ちなみに、応仁の乱以後の京都の人口は、4万人程度でした。
江戸には、もちろん小さな城下町や寺社が点在する程度でした。
それに対して、石山本願寺、天王寺、堺にはそれぞれ3万〜6万人程度の人口が住んでいたと言われています。
中世の日本では、本願寺、四天王寺、延暦寺、興福寺、高野山などは、自治都市として隆盛を極めていてのです。
歌舞伎、能、華道、茶道などは、畿内の寺社で生まれた文化です。
このように畿内の寺社が果たした役割と、関東の寺社が果たした役割は著しく異なるのです。