それはどうかな
言語が思考に役立っていることは否定しないが、
言語はあくまでも思考の補助であり、本質的な部分は別に求めることができる。
「我々の発想は誤りである」という結論は導くことができない。
これは、思考の指示対象と思考そのものを取り違える「発生論の誤謬」に陥っている。
科学は我々の発想法に関する記述を行うものではなく、
世界に関する叙述を行うものである。このことは、人間が生まれる前でも、
地球が太陽の周りをまわっていたことからわかる。
事実は観察者の存在とは独立に存在しうるものである。
そのため、「「人間という主体」という発想を我々が抱かなくなるだろう」という
結論が導けたとしても、そこから「だから人間諸科学は誤りだ」とはならない。
つまり、フーコーは認識と独立した絶対的事実というものを否定し、
真理のゲームとしてそれを解釈しなおすかもしれないが、
それが具体的な諸問題(ここでは、人間は主体なのか)を考える上では
機能しないことは、拙稿可謬論の罠を参照していただきたい。
また、真理の存在を否定する側は、非存在言明であるがゆえに
立証責任を負わないという主張が誤っている
ゆえに夜勤者は正しい。