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項羽と劉邦 その14

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0001名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/08(金) 17:32:52.65ID:iHGb58400
基本的には、項羽と劉邦、楚漢戦争メインで語るスレですが
周辺人物、秦の治世、前漢建国後の事象など、語りたいことが
あるならば、何でもありで存分に語り明かすスレです
前スレ

項羽と劉邦 その11
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/chinahero/1606901516/
項羽と劉邦 その12
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/chinahero/1615376974/
項羽と劉邦 その13
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/chinahero/1621852801/

過去スレ
▲▲   項羽と劉邦   ▲▲
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1161621239/
項羽と劉邦 その2
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1219552075/
項羽と劉邦 その3
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1379633993/
項羽と劉邦 その4
http://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1457530173/
項羽と劉邦 その5
http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/chinahero/1505863018/
項羽と劉邦 その6
http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/chinahero/1552103528/
項羽と劉邦 その7
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/chinahero/1566228963/
項羽と劉邦 その8
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/chinahero/1575627541/
項羽と劉邦 その9
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/chinahero/1587720199/
項羽と劉邦 その10
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/chinahero/1596949788/
0002名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/08(金) 18:42:48.33ID:+ERpZ0z10
陳余は南から迫ってくる劉邦本軍に焦っていたことは否めない
あとは秦末からの動乱で兵の質が下がっていたのも影響
0003名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/08(金) 19:25:50.33ID:QEAfvVdV0
       キ       //   /::::://O/,|      /
      ュ     / |''''   |::::://O//|     /
      ッ     \ |‐┐ |::://O/ ノ   ヾ、/
       :       |__」 |/ヾ. /    /
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           |   / !、.ノ `ー''"
     '\    ヽ ,/  //
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0004名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/09(土) 04:39:37.12ID:EZrR9QM90
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3c/%E8%8C%83%E5%A2%9E%E5%83%8F.jpg
范増

張良が貴族の坊っちゃんに見える
0005名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/09(土) 04:47:57.61ID:EZrR9QM90
中国の伝説によると范増は彭城では死んでおらず、船に乗って呉エに逃れて隠れ住んでいた
国政の関心は失っておらず、再起を期してまだ野心はあったが項羽が死んだ知らせが呉につたわると
「おまえたちもうとっくに范増は死んだといってくれ」と大声で叫んだ
0006名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/09(土) 05:31:48.00ID:Icj+Vad30
新スレ乙

>>4
顔面が作画崩壊してた張良像と比べると随分男前やな范増さん
0007名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/09(土) 06:55:50.82ID:EZrR9QM90
劉邦は即位すると豊かな洛陽をみやことしたかったが、劉敬は匈奴など外敵が攻めてきたときに洛陽は弱いと指摘して
旧秦である関中で守りを固めるべきだと建言した。旧秦は人が少なく文化も遅れがちであると疑念もあったが
張良も支持したので関中に都を定め、人が少ないため10万戸を移民させた

https://en.wikipedia.org/wiki/Emperor_Gaozu_of_Han#/media/File:01_Wine_vessel_Western_Han_dynasty.jpg
前漢の皇帝の翡翠の酒盃。ヒスイの龍の浮き彫りがほどこされる

戦争は終わったので劉邦はすべての兵士は故国にかえってよいと許可して6年間の無税として、賦役も免除した
また首都である関中も税金を免除した
戦乱の中で奴隷に墜ちた人は奴隷の身分から開放して良民にもどすように命令した
農地の減税をこころみ税率は15分の1にひき下げ、流通する銭が不足したので私鋳銭をみとめた
これらは失敗もあったが概ね善政であり

匈奴に大量の武器が流れると憂慮して、鉄武器を売ることを禁じた、これは失策で
冒頓単于は交易をじゃまされたと怒ってしまう
0008名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/09(土) 10:20:08.58ID:i/aYUN530
どれいから解放されても行き場所がない
0009名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/09(土) 11:52:27.84ID:VCPBRqy40
劉邦は劉敬の言うことかなり聞いていて劉氏をやるくらい徴用してたんやが匈奴の偽装退却の話は聞かず結果ボロ負け
0010名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/09(土) 12:20:04.66ID:i/aYUN530
なんか周王とかでもジュウを手引きして簡単にやられているから
軍事力的には向こうの方が強かったんだろうね
というか犬ジュウとか戦車を使っていて野蛮人扱いされているけど
別に文明的に劣っていたのではないのかもしれない
0011名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/09(土) 15:49:46.33ID:Icj+Vad30
犬戎の武装が中国を凌いでいた可能性は普通にあるだろうね
進出域からみて繋がりが深いと思われる古代中国の北西部やステップ・ルートからは先進的な文物が結構見つかってる
0012名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/09(土) 18:47:36.33ID:i/aYUN530
普通に戦車で戦うなら殷以降の中原諸侯と変わらないしね
何より周王への反乱その他で犬戎とかを引き連れられていると簡単に負けてしまう
というかのろしで諸侯を呼んだりしているということは
西周の全盛期でさえ王直属の兵だけではまともに彼らと戦えないということになる
0013名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/09(土) 19:27:14.71ID:OQ2mFq7U0
西周は穆王の時は犬戎をはじめ周りの異民族をボコってブイブイ言わせてたのに
末期になると逆に負けが増えて最後には滅ぼされる事になるんだもんな
0014名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/09(土) 20:14:38.17ID:i/aYUN530
彼らの数とかも分からないけど申侯が犬戎を引き連れて簡単に滅ぼされたんだよなあ
0015名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/09(土) 21:08:04.95ID:0ANGgxZ40
申もよく分からん国だよな
犬戎と組んで西周を滅ぼせる力があるのに
いつの間にか春秋時代初期に楚に滅ぼされてる
0016名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/09(土) 22:56:42.22ID:EZrR9QM90
周の全盛時代、周の穆王は法律を定めるように命じ、それにこたえて司冠の呂候は3千もの拷問法を考案したとされる
この法律は「呂刑」とされた。ともあれ中国の「法」のさきがけとされる
穆王は呂候を国を与えて封じた。呂国は南陽にあった。当時は申と呂が強国だったという

呂后「中国三大悪女」は単父の有力者の呂公の娘として生まれた
劉邦は、皇后と皇太子を長安の責任者とし、蕭何の支援を受けて法廷で重要な決定を下した。
この間、呂雉は有能な管理者であることを証明し、役人は戦争が終わって彼女の能力を賞賛し、彼女の冷酷さを恐れた

紀元前196年の春に韓信が、夏に彭越が反乱を企てたとの名目で処刑され、さらに彭越の死体の肉の一部が塩漬けとして、
見せしめのために英布を初めとする諸侯王に劉邦から送られた。呂皇后は韓信を残酷に苦しめて殺したとされ
彭越は呂雉の手によって切り刻まれ醢(かい)にされた。ライバルの愛妾戚夫人は殺す前に臼をつく重労働をさせられ長い間苦しめた

皇后の恐ろしい拷問は喧伝され諸侯がおびえ平和が保たれた。蕭何や張良は呂后の賢明さに好意を持ち、
劉邦が死んだあとの高后年間は、ときに残酷ではあったものの民衆に対しては寛大で刑罰もゆるく、戦争もなく平和を楽しんだとある

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7c/Emperess_Lu_Zhi%27s_jade_seal.jpg
呂后の翡翠の玉璽。目の大きい赤ん坊?と豚がじゃれあってるようにみえる。可愛いものが好きだったようだ
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9e/Splendeurs_des_Han_%28mus%C3%A9e_Guimet%29_%2815648981106%29.jpg
皇后の裾をささげもつ侍女の小像。呂后の墳墓から出土
0017名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/10(日) 06:10:19.51ID:tBQVhxAE0
漢王朝は、4つの法源を正式に認めました:
(律:「成文化された法律」)、(令:「皇帝の命令」)、(科:「前王朝から継承された法令」)および(比:「前例」)、
その中で(令:「皇帝の命令」)は他の3つよりも力を持っています。
伝統的な中国の法では、自白しない限り犯罪で有罪判決を受けることはできません
これは、必要な自白を引き出すために拷問の使用につながりました。これらの要素は依然として現代中国に影響を与えています

法律専門家は弁護士ではなく、哲学と文学の訓練を受けたジェネラリストでした。
地元の、古典的に訓練された儒教の紳士は、仲裁者として重要な役割を果たし深刻な地元の紛争を処理しました。

財産、家族、および義務の成文である民法はありませんでした。
それは、伝統的な中国法には民法がないという今や信用を失った要素につながりました
0018名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/10(日) 08:41:50.53ID:M/FDwCEm0
中国酷刑史って本持ってたの思い出したわ
0019名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/10(日) 09:40:04.55ID:p1NalcEo0
海とか山河が皇帝の私有という考えでは
中国人もあまり海に出る気になれないよな
昆布とか日本から輸入だっけ
0020名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/10(日) 18:39:43.18ID:yBqS31u00
>>15
同音の秦だって説がある
馬の飼育だかで領地をってのはおかしいけど
周の故地にいて、幽王を討ったのは申侯と犬戎なんだから
秦ってこいつらだよね
0021名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/10(日) 19:35:32.82ID:nVYKpxyD0
秦はチン申はシェン
周はジォウ、晋はジーン
魏がウェイ趙がチャオ韓がハン
楚がチュー、斉チー

同音といえば韓と漢がハン
韓の宰相の子である張良の策略か
0022名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/11(月) 03:51:10.76ID:/ds4XSbh0
長安に、蕭何が長楽宮(全長9キロほど)をつくると劉邦は大きすぎると文句を言ったが
沛の微山湖の北にある曲阜城(魯国)でも1辺12キロぐらいあった

天下を駆け巡る劉邦はもっと大きい城をみてるはずなので長楽宮の大きさにに驚いたとはちょっとあやしい
0023名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/11(月) 07:15:56.20ID:ZaqZWSb40
>>21
魏「ウェーイ」
魏王「ウェイ王」
0024名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/11(月) 16:42:59.68ID:ptPGAha90
全然スレ違いな話になってしまうけどこの板は2006年なんかの古いスレが凄く多いね
0025名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/11(月) 19:15:50.99ID:Y8QjCXpz0
>>21
今の共通語の発音とは違うはず
隋当たりですでにLとRの発音も入れ替わっているし
0026名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/11(月) 19:56:16.69ID:/ds4XSbh0
名君始皇帝の世で滅亡した楚王がそれほど大人気だったのがよくわからないんだよね
懐王がそれほど名君というのも聞かないし沛県は宋の領域だし
呉にせめられ楚はいったん滅亡して秦の援軍で再興というのも奇跡
かなり適当な国というかんじだ
0027名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/11(月) 20:54:10.84ID:3GtFkfTf0
楚は他の諸侯と違って春秋時代の頃から王を名乗ってた国だから
臣民ともにプライドが高そうなイメージなんだよな
だから秦に占領された事を屈辱に感じてそう
0028名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/11(月) 21:39:14.81ID:/ds4XSbh0
懐王の祖父、宣王 (楚王)諱は良夫。

日本人の祖先じゃね?楚王って
0029名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/11(月) 22:25:00.81ID:ITxeLoWW0
>>13
まあ穆王も伝説的なイメージほどブイブイ言わせていたかは若干疑問だけれど
西王母説話の印象とは異なり主に東南へ進出していた節があり
西周後半の東南方の版図は広いけど西北は薄いっていう傾向と大きく変わらない可能性がある
なぜ犬戎またはその異称とされる勢力が頻繁に出没するようになったのか気になるところ

>>20
秦本紀によると秦の先祖と申(ただし申は申でも別物の可能性高し)は通婚していた、とあり関係あるといえばあるが
幽王を滅ぼしたとされる諸侯は南陽に位置していたと思われるので恐らくあまり関係ないと思われ
もっといえば史料の記述にバラつきがあり、犬戎と申の連合も定かではないという意見もあったりする


>>17
秦法を引き継いだ漢王朝、いわゆるスターリn…ソ連憲法に範をとった新中国、似ているのか否か
中国民法といえば、昨年中国史上初の民法典が制定され、今年から施行されたというニュースが記憶に新しいところだね
0030名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/12(火) 03:29:33.76ID:E5LXoErH0
三国志の武将はよろいで完全武装してるけどあれは明代のイメージで
いい身分である将帥は絹の服を着て馬車に乗り悠々としてただろう

劉邦は、わしゃ三尺の剣でーとかいってるんで剣術の心得があったかもしれない
0031名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/12(火) 06:12:08.82ID:kRH5qx1V0
>>28
米は食うし、気は強いし、恨みを忘れず、キレると自爆攻撃もして
背が低いのに、なぜか戦争では以上に強く、アメリカも何故だと思ったとか
冗談抜きで本当に楚人が東の野蛮な島に米をもって逃げた可能性はあるかと
0032名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/12(火) 06:15:03.98ID:kRH5qx1V0
>>22
意外と見ていなかったとか
身近な方は周公とかの話もあり、そんなに豪華に見えなくとか
広さを測ってみると実はあんたの地元にもっとひどいのあるじゃんってのはよくある
オバマがタックスヘイブンのどこかの建物に会社が何百社とかを
デラウェア州には同じようなのやもっと多い会社が入っている所あるよとか

最近知ったけど仁徳天皇陵は世界最大で始皇帝のよりも広かったらしい
自分も存在を知っていたのに言われるまで気がつかなかった
前世の劉邦も同じかも
0033名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/12(火) 06:58:37.81ID:AysMm2MB0
>>26
今が不満なジジババやB層は今じゃないいつかを理想化して崇拝するのさ
ろくなもんじゃなかった昭和30年代を美化した○丁目の夕日みたいのをありがたがる層が2000年前にもいたってことさ
0034名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/12(火) 08:51:57.42ID:vHyYdXZV0
>>26
「たとえ三戸となろうとも秦を滅ぼすのは楚」の伝承の影響なんじゃないかね
それに懐王は個人の資質は劣悪な方だけど、秦に拘留されて無惨な死を遂げた事に
対しては世間も同情の念がそれなりにあったんだろう
いくらなんでも王に対する遇し方の度を超えてるだろって感じで
0035名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/12(火) 10:29:49.40ID:vyv01ZiV0
>>34
判官贔屓というのは日本人だけではなく中国人にもあって、それによる同情の念だろうな。
これは項羽贔屓にもあるだろうし、ずっと後世の岳飛贔屓にもあると思う。
0036名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/12(火) 13:19:07.97ID:WTn9IgLC0
たとえ三戸(さんのへ)
0037名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/12(火) 17:29:27.62ID:MBTOgKGD0
強い方を徹底的に支持して、弱いものを完膚なくとことん叩く国民性じゃなかったのか
0038名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/12(火) 17:54:26.75ID:vyv01ZiV0
>>37
「史記」の記述を見ると司馬遷は勝った劉邦より負けた項羽贔屓の節があるし、「三国志演義」では最弱の蜀が人気で最強の魏は不人気という事から分かるように、中国人は弱気を挫き強きを扶けるだけの民族ではないよ。
0039名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/12(火) 19:49:09.02ID:shyhW+mN0
同時代なら強い方を支持して弱いものを叩く
違う時代なら自分に関係ないから弱い方を贔屓することもある
0040名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/12(火) 20:15:56.20ID:E5LXoErH0
楚首都が現在の荊州市だけど荊蛮って良い意味じゃないんだよね
白起が悪いんだけどさ
日本半分が征服されて首都が倭人市になったようなもの
0041名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/12(火) 20:52:51.92ID:GzzmWJcu0
楚って春秋時代の頃から中原の諸侯に蛮族扱いされてたから
白起関係なく無い?
0042名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/12(火) 22:37:37.04ID:E5LXoErH0
紀元前278年、白起は楚を攻めた。楚の国都郢を陥落させて、楚の頃襄王は陳(現在の淮陽区)への遷都を余儀なくされた
楚が滅亡すると翌年、王翦により呉地方も制圧され会稽郡が設置された。秦の取締りがゆるいのか会稽に項梁がかくれた
秦末に農民反乱である陳勝・呉広の乱を起こし、陳で「張楚」を建国した。
会稽郡で項梁が郡守を斬り兵をあげた。項羽は彭城、徐州をみやことした

古い楚の中心地で反乱が起きてないんだな。始皇帝の政治は案外良かったので不満はないとか
0043名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/13(水) 00:26:57.19ID:iYXq6QF90
荊州市といえば関羽の巨大像だが住民は劉備を崇めて、楚の首都だとか懐王なんて忘れてそう

項羽が徐州市に都したのはどこにでも輸送できる街道が交差する「衢地(くち)」?だったからとも
0044名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/13(水) 00:27:57.73ID:xy6K5hmI0
>>39
それは中国人に限らないのでは?日本人だって大阪の陣では恩賞目当ての牢人しか陣営入りせず、豊臣秀吉恩顧の大名は誰一人として豊臣方に味方しなかったくらいだし。
0045名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/13(水) 07:16:20.44ID:Ly2OgXd80
>>44
特に福島とか加藤とかはあんだけ世話になって可愛がられて取り立てられて、それであっさり敵につくとか犬すぎる
なんで後世像まで立ってるのか意味不明
0046名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/13(水) 10:57:11.33ID:anRU/0bg0
>>40
王の名前を使ってはいけないだから
異人が名を子楚と改めて即位した瞬間に楚の文字は使えなくなってしまった
仮に趙に改めていれば趙の文字が使えなく、魏なら韓ならもみんな同じ
本名も官職名も変えるから困る
くにを意味する文字も使えないから国になってしまった
0047名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/13(水) 11:01:41.59ID:anRU/0bg0
>>45
恨みがあったのかもしれない
感謝していると思っている時は恨まれていることが多いというのもある
また恩があっても主君の子かもあやしい奴で
祖母すら孫と認めていないからなあ
実子であっても疑われたらもう支持されない
0048名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/13(水) 12:35:39.18ID:aiDUuFJb0
劉表は荊州を文化の都にしたがってたけど、結局文化人たちは北に連れ去られましたとさ
0049名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/13(水) 14:29:35.85ID:1UHGAcWb0
>>40
荊っていばらの事で、苦しみを意味したり罪人を打つ棒に使われたりする
でもって実は楚もいばらの意味をもつ
秦が楚を使えなくなったのは>>46の言う通り
0050名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/13(水) 15:10:47.13ID:iYXq6QF90
なるほど、イバラだらけの荒れ地という認識だから楚人チューレン

「燕人(ヤンレン)張飛、これにあり! 俺と勝負したい奴はいるか!」やはり長坂橋に張飛の巨大像がほしい
0051名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/13(水) 15:51:00.38ID:anRU/0bg0
>>42
他の時代と違って飢えで反乱が起きたわけじゃないからね
劉邦の逸話も庶民が普通に暮らしているようにしか見えないんだよなあ
0052名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/13(水) 16:21:40.72ID:rhOm4jfJ0
苦役に呼ばれたら最後ってね
赤紙も総動員になる前は天国と地獄だったし
大量に従事させたのが悪い
0053名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/13(水) 16:24:40.73ID:7jmGrRli0
史記などが直接的な問題としているのは主に労役や軍役
陳勝も劉邦もこれに関りがあるとされる
中でも始皇帝晩年の大規模な軍事行動が批判されているので
伝統的文献に拠る限り始皇政治への不満が大乱の主要な原因の一つと言えそう

春秋楚の中心地域が反乱の中心地域になっていないのは確かに興味深いことだけど
それについては始皇&二世皇帝政治の是非だけではなく
当地の特徴や白起の軍事行動(南郡設置)以来の経緯、即ち昭王期の統治から明らかにする必要がありますね
0054名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/13(水) 16:36:48.70ID:iYXq6QF90
劉邦は秦の賦役で20等の最下位の爵位、公士となった(良民はなにかの記念に貰える)
そこで爵位があるななら仕事もあるはずだと県庁にかけあって亭長になった(多分沛の同郷の蕭何の厚意)
屋敷も貰えるし、土地も俸禄もつく、漢代の役人の最下位が百石なので秦もおなじ。奥さんの他愛人も囲った
まぁまぁいい身分じゃないの

警察署長の県尉が二百石で、市長の県令は千石くらい、〜郡の太守や高官が二千石
0055名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/13(水) 16:41:04.90ID:anRU/0bg0
>>53
日本の末期の徴兵もそうだけど
秦も天下統一後も労役や辺境の防衛に大陸の端から連れてきたりするからなあ
シンガポールもそうだけど小国だと厳しくても管理が上手くいくんだろうけど
本来は秦の離れた場所から労役ぐらいなんだろうけど
大きくなっても以前のままの感覚で机上の空論やって
法治も厳しくて冤罪多く連座制だから本当に犯罪やってもやらなくても
罰せられるから変わらないレベル
0056名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/13(水) 16:42:53.13ID:anRU/0bg0
爵位がないのが良民じゃない身分じゃなかったっけ
20等爵以外に被差別民がいくつかあったみたいだけど
0057名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/13(水) 16:56:20.97ID:iYXq6QF90
中国は、地方の役場に民衆がなだれ込んで打ち壊して火を付ける事件が年に1万件もあるそうだ
もし2千年まえの沛県でそういう暴動が数年ないとしたらもう、それだけで役人は好成績よ
自分でも大量の事務整理をする始皇帝がこれに気が付かないはずもない
蕭何の高評価&中央の呼び出しは、暴れそうなジモティーを丸め込める能力だったりして

自民党代議士が、マイルドヤンキーに土木工事の利権やったりしてるのと同じで
0058名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/13(水) 17:41:30.43ID:7jmGrRli0
文革とか革命的なものを別にすれば現代中国の地方でおきる騒動は土地収用絡みが多い
だから土地問題の最盛期だった胡錦涛時代に大規模な抗議デモが多発した


>>54
どういう経緯かは分からないけど少なくとも劉邦劉交兄弟の世代からはまあまあ良い身分なんだろうね
士人のような教育を受けている劉交や各地の豪傑と付き合ってる劉邦の交際範囲の広さを見る限り

>>55
距離もそうだけど量的にみても始皇期の動員数は桁違いですからね
南に数十万送り込んだと思ったら今度は北に数十万、国が壊れない方がおかしいとも言える
白起の伐楚は史記に拠る限り数万でしかない
0059名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/13(水) 18:25:39.02ID:anRU/0bg0
>>57
日本でも役人を憎む人は下位層に多いし
中国では下っ端役人でも法律を超えるし
最近の塾禁止とか弊害を考えずに対策をやって被害を拡大させて
失敗を認められないから政策の変更もなかなかできない
大量の塾がつぶれたりしているらしいけど
0060名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/13(水) 18:38:20.76ID:anRU/0bg0
>>57
ハイだけかもしれないけど
劉邦達の話を聞いているとたまに気になるのもあるけど
基本的に治安が良くて何というか普通の街みたいな感じなんだよね
県令とかもそんなあくどいことをやっていたみたいなのもないし
あれば次から次へと住民を処刑してみたいなのが書かれるだろうし
ただ、まさかと思ったのが県令の姓も出さないのってもしかして
劉だったとか、最悪同族で、従兄弟とかの続柄が分かりにくいのもそういうのを隠したからとかあったりして
0061名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/13(水) 18:40:01.82ID:anRU/0bg0
>>53
創作物でだけど、長男まで労役に駆り出されるなんてみたいなのがあって
通常そういうのに行くのは次男三男以下がほとんどだったとしたら
それを反してって段階で逃亡者が多いか労役が異常になっていたのかと
0062名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/13(水) 19:03:38.02ID:sX11PFpc0
>>59
児童教育からの資本締め出し、公教育重視は明確な政策目標で
私塾が潰れてるのは成功なのだから変更する動機がないよ

少し大袈裟に例えれば六国が潰れて関係者が困ってるから六国を復活させる始皇帝くらいあり得ない
0063名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/13(水) 20:15:25.13ID:anRU/0bg0
塾関係者の失業とか気にしてもいないのかな
せいぜい授業時間の短縮ぐらいじゃないかなあと思うんだけどね
0064名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/14(木) 04:54:58.81ID:hkcQQiY10
劉邦は人夫を引き連れて咸陽へ向かっていたが数人が逃亡した。死刑になるとやけになった劉邦は他の人夫も開放して逃亡した

秦から隠れることにしたが、彼についてくる人は10人以上いた。これら最初の手下は忠実でのちに将軍など取りたてられる。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/37/Liang_State_Tombs%2C_Mangdang_Mountain_1.jpg
劉邦が住んだのはマンダン山の廃城であった(劉邦山)この要塞は沛よりずっと南、徐州(彭城)と商丘をつなぐ街道のわきにある

なお劉邦の廃城には、逃げた人夫数人も恩を感じて、あとでもどってきて加わる。曹参や蕭何も連絡をとっていた
だんだんうわさを聞きつけて劉邦の勢力は更に膨らんだ

陳勝の乱でやむなく県令が秦に謀反を起こすと蕭何は劉邦をよぶべきだどいった。
劉邦の手下は100人以上になっており、難色を示した県令はころされ、沛にもどる。
0065名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/14(木) 05:09:21.52ID:hkcQQiY10
会稽郡守の殷通は秦から派遣された官吏でありながら、秦に反乱を起こした
「私はあなた(項梁)と桓楚を将として兵を発したい」と述べた。この時、桓楚は沢中に亡命していた
項羽は殷通を斬り会稽郡を制圧した。桓楚は部下となった

要するに劉邦のような盗賊は各地方にたくさんいて桓楚もそのひとりであった。沢中というのは
卑しめて言ってるようで別に沼地に住んでいたわけではなく、劉邦は山賊であったけど。
会稽郡守もあまり罪人を出したくないので桓楚は勝手に逃げてくれ、面倒は見る、という措置だろう
0066名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/14(木) 07:10:44.87ID:d9PWY9y50
>>59
塾であれなんであれ既存の産業を問答無用で禁止できる人知国家すげーよなw
0067名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/14(木) 16:12:29.93ID:aj0V3Poo0
>>66
社会的悪影響は凄いし、塾関係者はみんな失業だし
歴史上も弊害を無視してこういうのよくやって社会をおかしくするんだよなあ
ゲーム禁止、塾禁止とか
それで恐らく公教育は日本みたいに塾以下なんだろうし
(そうでなければみんな塾なんか行かないだろうし)
0068名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/14(木) 19:08:54.96ID:EhWP3Xna0
>>67
塾は禁止されたわけじゃないよ(情勢の変化を見て撤退するところは当然出るけど)

大義名分はあまりに過大な学校+塾による受験勉強漬けから児童の健康を守ること
および過剰競争で増大し続ける教育費の低減なので
今のところ新規参入の停止(受験勉強系以外のスポーツ等はおK)と授業料の是正(低減)が柱

全体的に、目下の経済成長優先で弊害を知りつつ目を瞑るスタイルから
中長期的な成長や安定を確保する為にリスクを取って政策や社会を変革していくスタイルに軸足を移しつつある
0069名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/14(木) 21:39:17.53ID:aj0V3Poo0
禁止じゃないと言って調べてみたら非営利のボランティアしか認めないとか
これは禁止と変わらん
日本でどの業種でも禁止ではない非営利なら認めるとやったらもう会社なんかやれない
0070名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/14(木) 23:12:42.94ID:nWQ2Uo1R0
そんなんよりマスコミ禁止法がヤバすぎる
0071名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/15(金) 07:47:28.83ID:RZl/iOR00
漢代には漢家の制という一種の理想があったらしいけど
社会主義国である新中国の理想は多分「党政軍民学、東西南北中、党是領導一切的」なんだよね

>>69
今後各級政府が指導する非営利化の程度と教育改革全体の動向次第なのでそこはこれからですね
教育負担を抑制し義務教育の公平性を確保すべく多少統制する程度であれば
ビジネス要素を薄めて半ば公共の教育機関化して存続するかもしれないししないかもしれない
0072名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/15(金) 13:05:24.03ID:p54LWDJ30
習鑿歯の子孫かもしれない習近平は明清を手本にした支配目指しとるよな
0073名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/15(金) 18:53:14.83ID:RZl/iOR00
現代中国人と中国社会自体が、王朝でいえば先秦でも漢唐でもなく明清の継承者だからね

ただ官僚党員に始まり、社会の上から下まで優れた紀律と倫理を希求する方向性はどことなく日本的だけど
0074名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/16(土) 01:30:43.35ID:AhMd2kXU0
確かに習近平政権が盛んに行っている海洋進出は明の永楽帝を、内陸進出は清の乾隆帝を意識していると思う。
また永楽帝は「永楽大典」を乾隆帝は「四庫全書」を編纂しているが、前者は靖難の変で簒奪した永楽帝への批判を後者は満洲族よる支配への批判を封じる思想統制の面があり、これは習近平政権が近年進めている共産党支配への批判を封じる思想統制に似通っている
0075名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/16(土) 02:04:32.31ID:iJrTB0Bt0
今陳平がいないんだよなぁ
0076名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/16(土) 08:26:56.85ID:pLVBUboG0
>>75
野末陳平「呼んだ?」
0077名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/16(土) 11:17:21.31ID:1xunv0sU0
今本当に必要なのは張良
次点で蕭何
0078名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/16(土) 11:34:14.31ID:esj93pgu0
冒頓単于でしょ
0079名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/16(土) 12:06:52.77ID:tkIRgk4W0
『後漢書』巻85辰韓伝によると、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人がおり、馬韓はその東の地を割いて、与え住まわせ辰韓人と名づけたという。
そのため、その地の言葉には秦語(陝西方言。
長安に都があった頃の標準語で、この亡民が秦代?前漢代に渡来したことを物語る)が混じり、秦韓とも書いた。

劉邦みたいな皇帝の労役から逃亡してきた集団が秦韓ー新羅の建国者
0080名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/17(日) 10:24:56.67ID:OVnnqw610
人材はそこらにいるんだよ
劉邦がいないだけで
0081名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/17(日) 10:30:24.16ID:lkwu41bg0
劉邦=アベシンゾウ
0082名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/17(日) 10:45:38.40ID:k1VLNYEz0
随の煬帝は612年に高句麗に350万の兵を差し向けたが敗退した。高句麗は668年に新羅唐連合軍にほろんだ
強いのか弱いのかよくわからん
0083名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/17(日) 12:13:03.93ID:OVnnqw610
>>82
いい加減スレチはやめれ
ここ一応、項羽と劉邦スレだぞ
0084名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/17(日) 14:39:05.16ID:3kBJqsj80
アメフト部みたいなのが重装備着こんで
20人ぐらい塊で突っ込んできたら
雑兵はそりゃ逃げるよな
しかも剣や槍で武装してんだもん

項羽はアメフト部キャプテン
0085名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/17(日) 14:58:39.39ID:Pl6GyNyj0
>>79
衛氏朝鮮は盧綰の部下が亡命して建てた王朝だったな
秦末、楚漢あたりの時代って中国から朝鮮に亡命する人間が結構多そうだ
0086名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/17(日) 16:20:11.23ID:HRB/0a7r0
>>80
俺もホントにそう思う
見つけだして引き上げてくれる人に出会えないだけで腐る程いてると思う
それを人材不足や時代のせいにするの凄い嫌いだ
それも散々好き勝手できる地位にあって育てず重用せず嘆く諸葛亮お前に言ってるんだぞ
0087名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/17(日) 18:01:02.16ID:XRuAhSbL0
馬良、馬謖、伊籍、董允、ケ芝、蒋琬、費禕、姜維、王平、馬岱、魏延、楊儀
0088名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/17(日) 19:01:11.47ID:HIOwARXI0
孔明みたいな1地方軍閥のチンカスと大陸統一した劉邦を比べるのも失礼
0089名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/17(日) 19:06:35.73ID:E9k/o4El0
>>85
秦末や楚漢に限らず王朝末期の動乱を逃れて中国大陸朝鮮半島に亡命する人間は結構いる。
朝鮮の外来帰化氏族の江陵劉氏の始祖の劉筌は劉邦の41代子孫で北宋の神宗の代に兵部尚書を務めたが、旧法党に属したため王安石に追われ高麗に亡命し朝鮮半島に根を下ろしたという。
0090名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/17(日) 19:35:13.25ID:k1VLNYEz0
蜀の士大夫はレベルが低くて太守クラスでも読み書きができなかった。王平もそう、魏延もそうかも
なので孔明も荊州人を多用した
劉邦の漢中王は首都は南鄭とさだめられていたが途中で引き返したから、一度も入ってないのかな
あまり南鄭の
人士を登用したとは
きかない
0091名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/17(日) 22:48:52.73ID:r0MhbKRV0
三国カスは該当スレで語れや
0092名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/17(日) 23:56:45.88ID:Pl6GyNyj0
>>86
勘違いしてる人が多いけど普通に諸葛亮は人材を育てて重要してるよ
その証拠に諸葛亮が育てて指名した後継者がいるうちは蜀漢は安泰だったけど
その後継者が死んだら蜀漢は衰退し滅んだ

劉邦が死ぬ間際に誰に任せたら良いか言って
その人材達が死んでも前漢は長く続いたのと比べると
やはり人的資源の差は大きく感じるが
0093名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/17(日) 23:58:43.18ID:Pl6GyNyj0
>>90
蜀の士大夫が読み書きできない人間ばかりなんて初めて聞いたぞ
そんなの書かれてる人間は蜀漢では王平だけ
0094名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/18(月) 00:20:56.38ID:tZJnfmei0
項羽は文字を読めなかった。楚の貴族で当時の最高の
家柄でもコレもんだから劉邦も読めなかったかも
0095名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/18(月) 00:42:56.07ID:OQ9xOVK80
呂雉は劉邦の指名した通りのメンツに丞相等を任せてるわけで、呂王朝とかそんなまで考えちゃいなかったよな絶対
0096名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/18(月) 03:51:45.23ID:4qZYjBBU0
会話に使う言語が統一されてないのに
中国の右端から来た項羽のアニキが
中国の左側や中ら辺で文字わかる訳ないじゃん

ショウカはよく左端のカンヨウの文字言語と文化に即応して
治めに治め倒したな
0097名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/18(月) 07:12:27.53ID:jS2P3qr60
始皇帝が既に字だけは統一しただろ
世界史の教科書的に
0098名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/18(月) 07:21:34.36ID:fIi4EC0P0
>>95
あの話は作り話くさい
0099名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/18(月) 07:53:02.42ID:ehj9jroN0
>>94
史記では項羽は文字は姓氏を書けば足りると言って、それ以上は学ばなかったと書いているが文字を読めないと書いていないから文盲とは限らない。
劉邦は恐らく文盲だろう。漢人の統一王朝の創始者で文盲は劉邦だけと思われる。明の朱元璋は貧農の子だが両親の死後に寺に入れられて、そこで教育を受けて最低限の読み書きはできたようだから。
0100名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/18(月) 08:02:25.69ID:tZJnfmei0
呂后は母の曹氏と付き合いが古いせいかもしれないが劉肥はつめが甘いし子供とかも沢山いるし
自分が育てた劉長にも甘い。正妻を狙った戚夫人と仲悪かっただけか

誰でも自分の血のつながるむすめをおしつける悪癖、これがかえって呂氏の寿命を削った、
息子の恵帝にも同母姉のうんだ娘をおしつけるのがひどい
0101名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/18(月) 12:08:24.81ID:YT4/W3vo0
まあちょっと興奮するけど
0102名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/18(月) 14:24:31.56ID:OvzwGTEQ0
>>80
劉邦こそ最も得難い人材である、か
まぁでも教育によって作れる人物かは不明だし
なろうと決意してなれるかというと無理なんだろうな
0103名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/18(月) 16:04:47.49ID:KOxp7SPh0
横山漫画に出てくるバカでお人好しで酒と女に目がなくてだらしないホラ吹きのアニキ、みたいな人物像なら、そらまあ人気者にはなるわな
でも現代だったら騙されておしまいかな?
0104名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/18(月) 17:31:30.88ID:jaqdO97G0
>>102
上の人は上の人で、劉邦はいくらでもいるけど蕭何がいないと嘆いていたりして
劉邦がいなければ世の中にでられなかった有能な人材なんて韓信くらいで、他の連中は自力で出世したり勢力を築いたりしていたからな
0105名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/18(月) 17:36:50.99ID:KOxp7SPh0
>>104
韓信だってちゃんと門番職を得ていたじゃないか
半蔵に殺されかけたけど
0106名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/18(月) 18:13:10.31ID:yIG7EMkT0
世に出る事と大成する事は別だからなぁ
劉邦の存在がなければ漢の重鎮の大半はそれなりの人生で終わってたでしょ
0107名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/18(月) 18:16:36.76ID:Ao8/7+3e0
>>75
謀臣にして百官の長な今陳平型の政治家ってむしろ現代よくいるタイプじゃね?
中共の指導者クラスや自民党の有力者ってその手の道に熟達してる人が多いだろうし
0108名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/18(月) 18:28:24.53ID:2qWsg6610
劉邦とロワンが書を学んだらしいから文盲ではないかと
普通に親兄弟も文字が書けるし、弟は留学しているし
0109名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/18(月) 18:29:31.19ID:jaqdO97G0
>>106
その連中はそれなりの能力しかなかったのが劉邦に付いていたから大成できただけだろ
盧綰とか周勃とか
0110名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/18(月) 18:30:16.75ID:2qWsg6610
>>105
実は季布も韓信も官職名は郎中だから履歴書は同じになるんだよな
公務員で課長も平も事務官であるように
0111名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/18(月) 18:33:19.80ID:Ao8/7+3e0
>>106
人材を大成させるのは劉邦というよりは戦乱やな
戦乱は数えきれない才能を殺すけど、同時に戦乱がなければ大成しなかったであろう人間もいる

故に主の性質に関わらず、革命の時代には吐いて捨てるほど有力者がいる
劉邦以上に才能をこの世から抹殺した毛沢東やスターリンでも殺し切れんほどいる
0112名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/18(月) 18:41:30.43ID:2qWsg6610
>>103
人を見る目と危機管理は異常にできるから多分騙されない
歴史にも騙された記録がない
0113名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/18(月) 18:43:48.47ID:2qWsg6610
>>109
戦争で派手な功績はないけど普通に勝てる状態なら勝てる将軍で
劉家を長続きさせるのは周勃起であろうと言われたし
息子の周亜父も軍事でかなり優秀
ただし、どちらも文帝景帝が始末したがっていて
あの世で謀反しようとしたなで自害に追い込まれて餓死
0114名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/18(月) 18:44:00.42ID:Ao8/7+3e0
>>110
郎中は要するに広義の側近なので
出世コースとも言えるのかな
0115名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/18(月) 18:47:31.10ID:3Ho/Fkhz0
>>107
今の政界はたくさんの陳平がいて、互いに権力闘争してる状態だよね
必然どろどろした暗闘になってすっきり出来ない国民の不満は募るばかり
0116名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/18(月) 20:02:17.55ID:jaqdO97G0
>>115
と言っても国民だって自分のことは棚にあげて他人には自己犠牲や道徳を要求するようなやつばかりじゃないか
政治家より一部の国民を見てる方が反吐が出る
0117名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/18(月) 20:11:23.80ID:WdmipYKD0
漢では名門子弟の出世の振り出しが地方官で
トップの宰相はまず無理ィとしてもせめて
御史大夫になりたいと願っていてこれは副丞相に当たる
そのまえに中央入りで九卿の末席の少府になるのが難しい
秦の将軍の章カンがこれだったか

いずれ副首相になれるエリートコースなのに勿体無い
0118名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/18(月) 20:15:09.67ID:WdmipYKD0
劉邦の御史大夫は周苛がやっていたが
木石のような人物が好みだったらしい

戦中の副首相って何のお仕事なんだろう
0119名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/18(月) 20:17:58.41ID:GeJSTJ8s0
>>100
身内に甘いよな呂后
趙王張耳の息子である張敖が高祖暗殺未遂事件で容疑者となったが
娘である魯元公主の旦那だから呂后は張敖を擁護したし
0120名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/18(月) 20:30:13.45ID:2qWsg6610
>>117
>>118
御史大夫が副宰相と言われて、上将軍とどっちが上かと思ったけど
韓信が上将軍から左丞相に昇格しているのと
項羽が周苛に降伏すれば上将軍と三万戸に封じると言っているので
上将軍は御史大夫よりも多分上ってことなのかな
でも楚の都尉だった陳平を劉邦が同じ都尉と参上典軍にしたら
周勃達が反発したから上とは言えないのか
御史大夫と太尉のどっちが上かとかも太尉と大将軍も
大将軍が上っぽいけど司馬懿やカンエイとか見ると悩む
0121名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/18(月) 20:31:58.20ID:2qWsg6610
>>118
実際にはケイヨウ城だかの防衛の主将みたいな感じだったし
あまり内政とかはやってる気配がショウカ以外ないんだよな
0122名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/18(月) 20:33:56.79ID:2qWsg6610
>>117
左遷とされる太守や県令で十分な気がする
洛陽令とかから始まるのもいるけど地方のトップで好きにやれる方がいい
日本でも国司で地方を支配している方がいい
0123名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/18(月) 20:43:41.19ID:gLP8utyx0
>>120
まず御史大夫と太尉と大将軍の職掌の違いがわからん
全部軍関係のお偉いだよね
大将軍以外は文官なのか?
0124名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/18(月) 20:57:37.33ID:2qWsg6610
>>123
太尉は文官
秦独特で周だと大司馬
ただ、韓信が韓王になる前に韓の太尉だったりする(漢の太尉かもしれん)

御史大夫は監察官のトップのはずが副宰相みたいになって
御史中丞が事実上の監察官である御史のトップ

大将軍はカンエイやサイブがなってたような感じで
太尉とどちらが上かよく分からない
大将軍が上っぽいんだけど司馬懿が大将軍から太尉になって
これが左遷でなくむしろ功績による褒章みたいで
かといって後に司馬師が叔父より上にならないために太尉を大将軍の下にとか

太尉が大司馬、御史大夫が司空みたいで
魯の三桓氏も司馬の叔孫氏と司空の孟孫氏でどっちが上かも曖昧だし
でも魯の人民の三分の一を季孫氏が取り、残りの半分を孟孫氏、その残りの全てを叔孫氏が支配したと書かれた順番から、司徒、司空、司馬の順かもしれん
0125名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/18(月) 21:00:50.65ID:2qWsg6610
本来の三公は太師(太宰)、太傅、太保だったが
秦では左右(最後は中も)丞相、御史大夫、太尉が三公
それを大司徒、大司空、大司馬に名称変更
0126名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/18(月) 21:28:51.77ID:QOn3Uq0d0
不幸なことに劉邦のようなリーダー不在の時代もある
後漢末とか劉邦のような傑物がおらんかったんや
0127名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/18(月) 21:58:21.29ID:aGd0QHi+0
紀信が将軍で周苛が御史大夫
もとはタダの農夫や豪族で才能無さげ
みな不審だったらしいが
きちんと筋を徹して劉邦軍の人柱になった
0128名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/19(火) 04:21:48.31ID:dy9acdb+0
>>127
項羽と劉邦の漫画ではショウ公がトップぽかったけど
周苛が御史大夫と最近知ってそんな大物だったかと思った
項羽の三万戸も、劉邦が張良に最初与えようとしたのが三万戸でそれが二番目食邑が多い奴の三倍だから実はとんでもない褒章なんだよね
楚も、漢の副宰相を降伏させられれば宣伝になると思ったのかね
左丞相や仮左丞相と御史大夫のどっちが上かよく分からないんだけど
0129名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/19(火) 04:21:49.14ID:dy9acdb+0
>>127
項羽と劉邦の漫画ではショウ公がトップぽかったけど
周苛が御史大夫と最近知ってそんな大物だったかと思った
項羽の三万戸も、劉邦が張良に最初与えようとしたのが三万戸でそれが二番目食邑が多い奴の三倍だから実はとんでもない褒章なんだよね
楚も、漢の副宰相を降伏させられれば宣伝になると思ったのかね
左丞相や仮左丞相と御史大夫のどっちが上かよく分からないんだけど
0130名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/19(火) 04:26:11.23ID:dy9acdb+0
漢の出世の状況からして

相国は(右)丞相よりも上
右丞相は左丞相よりも上
左丞相は上将軍(大将軍?)よりも上
太傅は形式的には右丞相よりも上、前漢後漢でも相国は太傅より上と思うけど違うかもしれない
魏での諸葛誕の話から司空はヒョウキ将軍、車騎将軍よりも上
衛将軍は輔国大将軍よりも上とされるが、諸葛瞻の元上官が後者なので同格か衛将軍より上の可能性がある
0131名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/19(火) 07:47:50.82ID:draGKn+t0
>>109
たまたまN社に入ったら今でも大手のゲーム屋で、たまたまS社に入ったら、今はパチンコ屋だと言うことだろ
最初の就職は大事
0132名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/19(火) 10:20:57.73ID:M0L+7/Da0
楚の項燕は上将軍で項梁は上柱国になり
宋義はかつて楚の令伊だったらしいが上将軍に任命

令伊はもとは殷の制度で祭儀長
殷の滅亡で亡命してきて楚の宰相になった
外国人の呉起も任命されたが本当は楚王族でないとなれない
その下に大司馬がいる

上柱国は将軍らしいが上将軍の方がうえかわからない
0133名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/19(火) 18:39:46.24ID:dy9acdb+0
>>132
爵位と官職が別みたい
柱国の上が上柱国だけど、最高位は令尹なのと
それに近い権力の奴が大司馬や左司馬になってるからそんなに上といえないかも
それにしても宋義が令尹ならもしかしたら楚の最後の令尹かもしれないのに
外交官風情がみたいに書いている作品があって超大物じゃないのかと思った
0134名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/19(火) 19:02:16.12ID:dy9acdb+0
楚の昭陽は非常に強い将軍で、魏軍を壊滅し、
八つの城を占領し、さらに斉まで攻め入ろうとした。
陳軫は斉王の命を受けて、昭陽に面会し、勝利を祝福した後
「楚の国の規定では、軍事に功労のあったものの官職と爵位は何か」と尋ねた。
昭陽は「官職は上柱国、爵位は上執珪である」と答えた。
さらに陳軫は「それ以上に軍功のあった者はどうですか」と尋ねた。
昭陽は「令尹である」と答えた。
0135名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/19(火) 19:40:27.10ID:/hNLeZNF0
宋義が語られるのってほぼ必ず項羽と劉邦の物語中なんだよな
だから過小評価になる
仮に代々令尹を出してた家系だとすれば武官の項氏よりもよっぽど格上のはず

まぁ景駒が項梁に滅ぼされてる時点で家格の話なんて無意味か
0136名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/19(火) 22:30:23.20ID:bHYg00dc0
上官大夫が屈原と同等らしい
屈氏は漢代はどうなったんだろー
0137名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/20(水) 05:44:27.22ID:xUWtRWij0
楚の平王の兄の子孫のケイクさえ打ち取っているのと
それ以外も楚の目池が全然その後出て来ないからなあ
0138名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/20(水) 05:48:25.19ID:xUWtRWij0
宋義はその家に生れ、父のあとを襲って令尹を継ごうとしたあたりで楚が亡んだ。この男が、一族を引き連れ、しかも「王」を奉じて 薛 ( せつ ) にやって来たのである

張良が韓で五代の王に仕えた宰相の家と同じで
宋義も令尹じゃなくて令尹になる家ってこと?
令尹だったってあちこちに描かれている気がするんだけど
それに大抵オッサン、あるいは老人に描かれているような
最後の令尹か、最後からちょっと前で引退したか、少しの期間だけ令尹じゃないの?
0139名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/20(水) 05:51:09.78ID:xUWtRWij0
最悪、どうせ分からないと思って令尹だったが嘘の可能性もあるけど
流石に民衆にもばれるよなあ

懐王も令尹も名前をかたった偽者ってのもあるけど
記録上全く疑われていないし
懐王も王宮かなんかにいて顔見知りだった可能性もある
0140名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/20(水) 07:18:35.32ID:liDRZPm70
最後の王子様が羊飼いなんかして生きていけるもんかね?
ラストエンペラー溥儀は、自分でヒモもゆわけないしボタンも止めれなくて全部女中がやってくれたみたいだが
0141名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/20(水) 08:42:34.13ID:Nc15CurT0
宋家なんてきいたこともないような
界王様はホンモノだと思う
0142名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/20(水) 08:57:09.77ID:xUWtRWij0
>>140
それでも食べていくために色々やるんじゃないかな
王女が娼婦になるとかってのもあるし意外と生きていけてる

>>141
名前を聞かなくておかしいんだけど
項燕もそれ以前の有名人を聞いたことがない
項羽の父親も不明、嬰という説もあるけど
0143名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/20(水) 11:31:58.93ID:RuKCrvlJ0
宋昌のこと考えると宋義ってやはりそれなりの家の出やないの?
0144名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/20(水) 11:33:32.49ID:KpVtOegf0
宋義は子孫が漢代に切れ者で偉くなってるから
楚の貴族といっても騙りでは無さそう
ただ切れ者過ぎで嫌われという
0145名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/20(水) 11:39:02.28ID:KpVtOegf0
上柱国はあとの時代で八柱国とか復活した称号らしい
0146名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/20(水) 11:43:12.59ID:KpVtOegf0
盧ワンは大尉だが
皇帝の親友で寝室にはいれる
むしろ御史大夫らしい仕事

遠征で皇帝代行してる
これは大将軍や大司馬の呉漢ぽい仕事
0147名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/20(水) 12:02:00.96ID:e5Hh8JNC0
曹氏も薄姫も呂雉に苛められなかったのは影が薄くて可哀想かつ慎み深く
流石の呂雉も色々と躊躇われるものがあったからかなあ
薄姫と友人だった美人さん2人はどういう扱いだったのかねえ
精々監禁位で済んだのなら良いのだが
0148名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/20(水) 16:52:12.52ID:KpVtOegf0
呂皇后は悪というより漢帝国確立の功労者でもある
盧ワンは駄犬のぶんざいで王なんぞなりくさって
危険人物で絶対にコロスけど妻子は赦す甘いオンナ
0149名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/20(水) 17:08:59.73ID:12jGahrP0
>>144
宋義家の真相は知らんけど
子孫に著名人が出たから騙りではなさそうってのはどうかな?
後人が勝手に箔を付けるパターンはありがちなんでどちらかと言えば信憑性が下がるイメージだけど…
0150名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/20(水) 17:21:35.59ID:KpVtOegf0
馬皇后が先祖の捏造をした例はあるね
0151名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/20(水) 17:24:11.93ID:12jGahrP0
>>148
敵(匈奴)から帰順を許すのは一般的な対応だろうし甘いも厳しいもない気がする
それに盧綰自体、不満を持つ劉氏諸侯王や戦功赫赫たる連中と比べりゃ安牌っぽいし
0152名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/20(水) 17:50:24.35ID:TBGtN7/N0
呂后は専横時代治世を安定せさたのが大きいよね
そもそも父親に穀潰しでヤクザなオッサンと結婚させられ項羽に人質にされて死にかけるは子供は馬車から投げ捨てられるは散々苦労してるからな
もう楽していいだろって時になって若い戚夫人がしゃしゃり出てきたらそりゃ我慢できないのも当たり前...
0153名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/20(水) 18:12:09.82ID:FoC9T9Mt0
>>150
明の?と思ったが後漢の方か。
0154名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/20(水) 18:16:34.04ID:A7s8pwoM0
馬皇后「おめーに飯食わせる為におっぱい火傷したのにその言い草はなんだ!」
朱元璋「すみません・・・」
0155名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/20(水) 18:32:07.12ID:12jGahrP0
史料上明確な秦漢的中央集権と外戚(+内戚)専権が同居する体制は、呂后以前には秦昭王期があるけど約60年ぶり、意識するところがあったのかなかったのか
周初の幼い成王を王姜が支えた話の方が聞こえは100倍良いけどこちらは外戚政権とは言い難いのがネック
0156名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/20(水) 18:59:59.62ID:A7s8pwoM0
周公いたしねえ
そんじょそこらの外戚では歯が立たないでしょう
0157名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/20(水) 19:25:22.74ID:MndnglxS0
>>156
それ+太公望に召公奭だもんな
三監の乱が起きてもそりゃ盤石だわ
0158名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/20(水) 19:39:12.92ID:rRb4vPrL0
劉邦の人選びは1人ひとりの力は単純だがすべて機械の部品のように
ピースがハマってるのが素晴らしい
皇后は選ぶ余地も選択なかったが亭主の死後はキチンと婚家に尽くしてる
元勲と呂一族はどっちが悪で善なのかはよくわからない
0159名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/20(水) 19:59:32.28ID:glLs69k40
善も悪もなくね
単に呂氏が劉氏に続いて勃興しかけてその後しくじって滅んだだけ
0160名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/20(水) 20:04:14.14ID:rRb4vPrL0
もし漢代の九卿の末席になるならいちばんじみな宗正になって
皇族後宮に
イキった名門子弟を推薦しワナをかけて
出世コースから失墜させてほくそ笑みたい
0161名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/20(水) 20:54:13.42ID:VaRfWasG0
平安貴族のよくやった手の位討ちみたいな持ち上げて落とすみたいな陰険な楽しみ方だなあw
0162名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/20(水) 21:21:15.00ID:rRb4vPrL0
環境大臣チンジロー的な遊び
0163名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/20(水) 22:46:43.87ID:12jGahrP0
>>158
劉邦人事、ほんまに機械の部品のようにハマってるかな?
選ぶ余地がありそうな前漢最大の脅威である対匈奴防衛ラインなど諸侯王人事には成功とは言い難い例が散見されるし
戚夫人の台頭や功臣への疑心、最終的に頼った血族劉氏と危うい関係

どちらかといえば革命期らしく必死で行き当たりばったりした人間くさい人事な印象なんだけど
0164名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/20(水) 22:49:29.40ID:12jGahrP0
>>163
×戚夫人の台頭や功臣への疑心、最終的に頼った血族劉氏と危うい関係
○戚夫人の台頭や功臣への疑心、最終的に頼った血族劉氏と呂氏の危うい関係
0165名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/20(水) 22:54:01.47ID:MndnglxS0
>>109
周勃は楚漢戦争だと地味だけど
劉邦の天下統一後、各地で起きた反乱鎮圧で大いに活躍した名将だぞ
0166名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/21(木) 05:36:50.45ID:6gQ+eLGa0
中国人は唐代いぜんは直接的先祖があまり活躍しないので人気ないが
劉邦死後の呂皇后から文帝の後宮物語は
大河ドラマがたて続けに制作され関心有るらしい

劉邦の大風歌、美女心計など
0167名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/21(木) 06:55:32.20ID:+2HdULl10
>>166
俺らで言うと奈良時代とか殆どドラマ化されないのと同じか
0168名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/21(木) 07:04:21.56ID:6t7CBYOy0
>>166
直接先祖って北狄や西戎だぁよね?
0169名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/21(木) 08:05:46.26ID:6gQ+eLGa0
卑弥呼や倭国大乱のNHK大河とかつらいものが
0170名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/21(木) 12:18:07.06ID:XkqbGNrh0
創作キャラかどうかは考えないこととして、仮に夏侯淵の末裔とか司馬懿の孫の孫の孫の曾孫とか、関羽の嫡流とか、そういう本筋キャラの話を読みつつ、自分は阿会喃元帥や越吉元帥の子孫とかはっきりしてたら逆に読むのが辛くないのかな?
0171名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/21(木) 12:34:08.19ID:NN5mc6QZ0
げんざい中国人の父系遺伝75パーセントほどが長江由来の南方で
共産党の偉いさんも毛主席など南方が多い

魚の吸い物や米食べる楚人チューレン
懐王の子孫という
良夫さんという楚王もいたし日本人も半分ほどが近縁
0172名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/21(木) 12:53:37.69ID:NN5mc6QZ0
恐らくは戦争は北方民がつよいが彼らは人口が少なく
長安など北中国の都市は人口が増えると飢饉が多く補給が不安定
南方は食い物がゆたかであまり努力せずとも地力があり
コメ食人口が多いため北に増えて逆転していったのだろう
0173名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/21(木) 14:08:54.57ID:VYeYvnH70
夏殷とかから南方系といわれるけど
逆で負けて南に逃げるのを歴史上繰り返してきただけだよ
0174名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/21(木) 14:29:22.65ID:NN5mc6QZ0
中国南方でも長江のお米はインディカ米
項羽はタイ米に近い品種たべる
豚肉チャーハンや羊肉ピラフに適する

ジャポニカ米は寒さに強いため北の准河流域でつくられ
韓信は准陰の出なので日本米に近いコメと魚の吸い物食べる

劉邦の豊邑は現在コムギ地帯だ
コイの蒸し魚や流通したジャポニカ米も食べたろう
当時は北中国はアワが主食で粟餅のようなものを食べてた
アワで鉄条麺も作れるのでラーメンもたべたかも
0175名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/21(木) 15:39:34.38ID:VYeYvnH70
劉邦の父親が餅を食べて闘鶏をするのが好きだとか
0176名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/21(木) 15:55:37.11ID:qh+BWLjX0
つきたての粟餅は江戸や京都でも名物で臼のまわりに人だかりになるくらい美味いらしい
粟茶も美味い
0177名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/21(木) 16:05:34.30ID:qh+BWLjX0
中国人はカレーは食わないが最近は日本式カレーライスがブームで
ルーの売上が20倍も伸びてる
インドカレーやタイカレーはだめだが日式は口にあうそうで
英国もカツカレーがブーム

日本ではお粥は病院食だが
もともと中国は朝はお粥で始まるので
カレーライスもうけいれやすい
0178名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/21(木) 16:35:18.03ID:VYeYvnH70
粟とかぱさぱさしてるとかいうけど本来というか普通は米も粟もお粥で食べるから米みたいに炊いたらぱさぱさになるのは当たり前
0179名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/21(木) 16:44:43.75ID:qh+BWLjX0
ロシア国民食もカチューシャという甘いお粥だしおかゆくわないのは日本人だけかも、、
項羽はお粥なんて食べないイメージある
焼き飯喰いそう
0180名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/21(木) 18:05:51.84ID:H0SLF+V10
>>166
人気なかったらドラマなんか作られんよ
楚漢にしろ三国志にしろ
0181名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/22(金) 01:27:17.75ID:QJdijJKP0
韓の宰相の孫の張良が項羽に手紙おくり劉邦は関中王になれば満足で
大王とは戦争いたしませんと書いてあるのに信用して斉にせめかかり
項羽は斉人チーレンを虐殺して降伏した市民も穴埋めにして楚人の憎悪を煽った
張良の三枚舌を信用して何がしたいのか

あとあとの韓信とか考えるとキングダムの漫画のようにいくらでも兵隊が畑から取れるのか斉国も
0182名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/22(金) 06:08:15.43ID:3Z2i7E690
周から春秋戦国、項羽と劉邦は向こうじゃ日本以上に親しまれてるぞ
0183名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/22(金) 07:53:33.86ID:XipPzLaz0
日本はどうしても織豊時代ばっかだよな
ちょっとマニアックな人でも源平や応仁
楠木正成?誰?みたいな
0184名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/22(金) 08:11:20.70ID:1V7aXQC+0
日本人にとくに多い鈴木姓も
熊野に住んだ外国人ウイススキ党のちに宇井鈴木党
が熊野詣でマニア後白河法皇のころようやく出てきた新しい家
鎌倉以前は先祖が出てこないから
こりゃつまんねーわ
0185名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/22(金) 08:25:18.84ID:1V7aXQC+0
習主席の姓は漢代にも出てきて
荊州で劉備につかえ蜀で高官になった人が先祖

てっきり随唐のころかと
0186名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/22(金) 09:34:57.27ID:0SUSQ1a40
よくある史上の人物をご先祖認定する類のでよければ
日本人も普通に中臣鎌足くらいまで遡れるし特に問題ないのでは?
天皇家に至っては有史以前からおるし
0187名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/22(金) 12:12:06.36ID:Q1hH/0fY0
習なんて武将いたか?

てか自分の祖先が歴史的ゲーに出てだとして、曹豹みたいな扱いだったら嫌だな
曹豹の名誉のために言うと、徐州のきちんとした武門の武官であって、正史に無能記述は一切ない
0188名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/22(金) 12:33:57.01ID:HqRwXRdK0
習鑿歯の先祖の習禎と予想
0189名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/22(金) 12:39:58.62ID:RN/ssmMo0
習 禎(しゅう てい、蜀漢に仕えた。字は文祥。荊州襄陽郡の人。習禎は?統に次ぎ馬良より上の名声を持っていたとある。
荊州より劉備に付き従って益州に入り、広漢太守、子の習忠も尚書郎の位まで昇った。

なお『襄陽耆旧記』(『襄陽記』)や『漢晋春秋』の著者である東晋の習鑿歯は、この習禎の子孫である。とあるが
裴松之は習鑿歯にはいいかげんな部分があるとも評している。
襄陽が苻堅の手に落ちると、彼の名を聞いていたので習鑿歯を召し出し、彼らと語り合い厚遇した
0190名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/22(金) 12:58:10.80ID:rei6BszK0
何々より上という場合は実際には無名ってことなんだよなあ
有名なら比較対象出さない
0191名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/22(金) 15:08:47.37ID:RN/ssmMo0
劉邦が秦に謀反して旗揚げしたとき父は家に伝わる3尺の剣をわたした
剣は漢帝国が成立したときに宝庫に隠された

当時の礼に従い、劉邦は一週間にいちいど父の機嫌伺いにかよっていた
むすこと殆ど変わらないぐらい長生き
長安の北にあるレキ陽に宮殿を構えていたようだ
0192名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/22(金) 15:53:17.82ID:rei6BszK0
家に伝わるって名門ってことになる
自称晋の六卿筆頭の范氏と同族なんだっけ
0193名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/22(金) 17:08:49.86ID:tZu+f9Ya0
>>191
櫟陽は春秋時代から色々な高位な人物の受け入れ先だからなあ
0194名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/22(金) 17:47:29.64ID:rei6BszK0
父親をないがしろにすると叩かれるからじゃないの
本当は姉が死んでも気にしないけどそれが知られると批判されるから姉の命乞いをする人みたいに
0195名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/22(金) 18:03:43.87ID:RN/ssmMo0
周の頃王の子、姫季子(劉康公)が劉国をたてた、劉国は洛陽のすぐ東、子爵
王位のあらそいで戦乱にまきこまれ、劉は焼かれた
劉国は、劉丁公の8年目以降記録されていない。これから、劉国の終焉の時期は、戦国時代の貞定王の時代であったと推測される。
晋が趙・韓・魏に分割される件にかかわりがあり滅ぼされたとも
0196名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/22(金) 18:33:55.78ID:Sat+OmqV0
>>186
>天皇家に至っては有史以前からおるし

いねーよ(w  天皇という称号は唐の高宗が武則天とペアで天皇と天后と名乗ったのをパクったものなのに。
0197名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/22(金) 19:47:07.91ID:rei6BszK0
>>195
晋が滅ぼした数十国の一つか
0198名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/22(金) 22:07:11.00ID:L9JfPMan0
>>196
日本の天皇が天皇と名乗り始めたのは奈良時代頃からじゃないかとは思うけど
天皇という名称自体は史記にも載ってるし何を参考にしたかはわからんくない?
0199名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/22(金) 22:26:36.26ID:rei6BszK0
>>198
思いっきり近い時代に唐が天皇、天后を名乗っているんだし
もしくはその影響元である北極星の天皇大帝でしょう
明文化された証拠とか言われるとないし、あっても嘘かもしれんか
0200名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/23(土) 00:35:24.57ID:80YwKIpN0
日本の天皇号は武力で天下を得た天武天皇が既存の大君に対する優越を示す為に使い始めた、という説がある
もしそうなら秦の皇帝号と近いかもしれん
0201名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/23(土) 05:18:42.12ID:CRvEgtRS0
天皇の前は大王を使ってたらしいけどこっちもバリバリ中国の匂いするよね
案外先に大王を使ってたのが出雲や大和の勢力だったりして
0202名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/23(土) 06:37:22.70ID:BT6VF58u0
>>192
(十中八九自称じゃないけど)范氏から更に遡って劉邦は帝堯陶唐氏の子孫ということになってるよ
しかも劉邦の家も豊公なので大夫級だね

>>196
皇統は隋唐なんかよりもずっと昔から続いていることになっているのだから仕方ない、信憑性はまた別の話
0203名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/23(土) 08:05:56.74ID:s3TyL2aD0
中国の農民はこの時代、8人家族で100畝の田畑をもってるのが平均で、老父母・長男と嫁、こども4人と
豪農だと大きな3・4階建て集合住宅に数世帯が同居した、後代の客家みたいな構造
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/87/Earth_building-chengqi2.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/14/Wenchanglou-gate.jpg
百畝の畑で150石のアワがとれて、数トン収穫、税金や必要品や衣服の購入で、これでは8人家族でかつかつだが
やや時代がくだると100畝の田畑でも、絹の養蚕など副業が高度化して十分食えた

劉邦の父は宴会が好きだったというし劉邦も人に飯を食わせるのが趣味で、嫂とけんかしてる
0204名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/23(土) 09:04:52.62ID:QW/hkR5C0
>>194
誰だよ
0205名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/23(土) 10:37:32.33ID:boOcVAPI0
>>204
光武帝とか
0206名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/23(土) 10:38:55.26ID:boOcVAPI0
というか兄弟が死んで悲しむ人間って世界に100人もいない気がする
0207名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/23(土) 13:19:13.13ID:boOcVAPI0
>>201
大抵の底で一番偉い奴を語源を無視して王って訳してるだけなんだから
0208名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/23(土) 13:24:30.99ID:IgYMM2GE0
>>206
えぇ…
0209名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/23(土) 15:12:54.78ID:s0FQbPpA0
>>205
姉が死んでも気にしなかったって根拠は?
おまえの脳内?
0210名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/23(土) 15:13:58.26ID:CRvEgtRS0
>>207
翻訳の話じゃなくて、埼玉の稲荷山古墳から
「辛亥年(西暦471年)」とか「大王」とか掘られた剣が出土してる
0211名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/23(土) 15:14:30.90ID:s3TyL2aD0
光武帝も農業が本職だっけ。南陽の開拓していたようだが
0212名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/23(土) 15:14:36.58ID:CRvEgtRS0
掘られたじゃねえわ
彫られたね
0213名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/23(土) 15:49:34.70ID:LinZMQHx0
>>212
「アッー!」
0214名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/23(土) 16:22:20.82ID:ABfiDooz0
>>203
嫂は義弟に恥掻かせたり義妹苛めをした代償として呂雉に馬車から突き落とされたり
子供の立身出世はその義弟の劉邦が全然しなかったりでその代償は極めて高くついたなw
0215名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/23(土) 20:41:59.93ID:s3TyL2aD0
光武帝の先祖の舂陵節侯 劉買の賜った屋敷が去年ぐらいに発掘されてるが、これによって漢代の候など貴族の屋敷の手がかりになる
長方形で170メートル、140メートル、壁の高さは6メートルほどだったようだ。景帝の孫にしては小さい気がする
舂陵侯は、長沙の零陵にあったがチワン族など異民族が多く辺境で低湿地であるとして、劉仁のころに国替えして南陽に移ってる
0216名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/23(土) 20:46:43.89ID:boOcVAPI0
王になれず侯なのでそれがたくさんいたのだからそんなに大きくはしないのでは
すると皇帝とカに目を突けられるかもしれん
0217名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/23(土) 20:55:52.88ID:s3TyL2aD0
王族の家だから版築でけっこうしっかり壁が作ってあったようだ
これは漢代敦煌の監視塔。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/43/Summer_Vacation_2007%2C_263%2C_Watchtower_In_The_Morning_Light%2C_Dunhuang%2C_Gansu_Province.jpg

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6c/JiayuguanWall.jpg
0218名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/23(土) 22:32:16.29ID:Ya6GfoLK0
帝都長安の城壁はどうもあまり高くなかったっぽいし
高さ6メートルの壁はかなり立派な気がするわね
0219名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/24(日) 01:02:21.22ID:jMMjjBtT0
そういやどこで見たか失念したが蜀漢劉備は劉秀の兄劉伯升の血筋だっていう説見た記憶ある
ほんと好き勝手言うよな
0220名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/24(日) 07:14:56.35ID:DcLRiVQ20
藤がついてりゃ全員藤原氏、みたいなもの
0221名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/24(日) 13:37:05.57ID:vY2DyypW0
陳勝が実は小作農じゃなく秦の官吏だったって説あるけど信じる?
0222名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/24(日) 14:06:18.72ID:jLQQq6HX0
陳勝が王になった後、彼の初期の仲間が彼を訪ねてきて、「家具がたくさんあり立派な生活だ王とはたいしたものだ」
宮殿が豪華だと感心し陳勝について過去の話を話しました。。誰かが陳勝に、この人物は王の威厳に有害であると言い、
陳勝は訪問者を殺しました。それ以来、旧友は自分も殺されるのではとおそれ、すべて自発的に去ってしまった

陳勝が王になったときき義父と義兄は会いに行きました。陳勝は冷たく他の訪問客と並べさせた
「なんと、こいつは強烈に傲慢な野郎だ」義父は怒って言った「年配者を無視するか!」去ってしまった
0223名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/24(日) 14:21:50.85ID:jLQQq6HX0
蔡賜は河南郡上蔡県に住んでいた。房という邑の爵位を持っていたため、房君ともいう
陳勝は戦争が上手く進まないので国内の「英雄」を募集し蔡賜を上柱国に任じた。

趙の地に派遣した武臣はかってに趙王になったので陳勝は家族を殺そうとしたが蔡賜がとめた
「秦がまだ滅びてしないのに、武臣らの家族を誅殺するのはよろしくない、祝賀しておき、秦を攻めさせましよう」
蔡賜の発言に同意し、蔡賜の計略に従い、陳勝は使者を遣わし、武臣の趙王即位を祝賀した

章邯が陳を攻撃する時、蔡賜は陳に立てこもり戦死する、陳勝は部下も有能だよね
0224名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/24(日) 16:06:16.14ID:V2oCyUre0
張楚の家臣は史記にそれなりの人数が出てくるわりに殆ど知られてない
創作にも全くと言っていいほど出てこない
多分、ここの住民でも語れない
0225名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/24(日) 16:29:14.10ID:F024xrnZ0
>>221
あり得るけど、信じるとかはないわね
この時代の大概のことがそうであるように確証がないので、そうかもね程度
0226名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/24(日) 17:52:38.30ID:jLQQq6HX0
陳勝 - 政治90、戦闘77、知力76
呉広 - 政治40、戦闘63、知力5
葛嬰- 政治60、戦闘82、知力48

蔡賜 - 政治102、戦闘79、知力98
周文 - 政治50、戦闘94、知力85
呂臣 - 政治55、戦闘90、知力35

武臣 - 政治52、戦闘74、知力40
李良 - 政治103、戦闘65、知力89
張敖 - 政治88、戦闘73、知力85
秦嘉 - 政治68、戦闘75、知力69

コーエー風に評価してみました
0227名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/24(日) 19:03:45.81ID:QeRdGAZz0
>>226
ガキっぽいね
0228名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/24(日) 21:15:32.93ID:9C38EZFe0
陳勝を渉と連呼してみんなにあらぬことを吹き込みたい
0229名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/24(日) 21:34:31.63ID:KYRctj9v0
>>226
呉広の知力で笑う

しかし陳勝の政治90は過大評価
史記読むと分かるが張楚は政治的には未熟もいいとこ
外交も指揮系統も終始ガバガバで、本当にノリと勢いで保ってただけ
0230名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/24(日) 23:55:42.65ID:DcLRiVQ20
>>229
ジョブズとウォズが設立した頃のアップルみたいな組織だったんだろな
0231名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/25(月) 00:47:57.52ID:FmVUiILe0
呉広は、中国や道教の寺院で門神として使われることがあり、陳勝とペアになる

彼は陽夏という町の門に住む貧乏人引き連れて漁陽に向かう予定であったが
下級士官として兵士に非常に人気があり、やってられねえと公言して、上役の長尉を
斬り、陳勝もこれに加勢して3人の将尉を殺し旗揚げした

陳勝は将軍、呉広はそのしたで都尉を称する、大事件を起こした割にあまり野心はなかったらしい
どうも計画されたというより、真相は呉広が突発的にキレて上役を殺し陳勝は場を収めたという感じ

呉広は仮王となり前線にむかったが無為無策で兵略を知らないと評判悪く、殺されて首は陳勝に献じられた
ケイ陽の方面攻略にてこずり、結果として全体の崩れをまねいた。
もし劉邦だったらうまいところ騙して降伏させるか、項羽だったら突撃して打ち破っていたろうね
0232名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/25(月) 11:20:39.79ID:ixA97eHt0
陳勝が楚王名乗る過程のグダグダ感とか酷過ぎる
報連相不足で部下粛清してるし
仮に秦に勝っても1800年前の李自成になるだけだと思う
0233名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/25(月) 14:39:41.83ID:FmVUiILe0
劉邦は陳勝を祀ったが、文帝が葛嬰にも功績があると子孫をさがし、諸県侯に封じられた。
葛氏は「諸葛氏」に改姓したので、諸葛孔明は、葛嬰の子孫にあたる
文帝が陳勝の部下まで訪ねて侯に封じられこりゃラッキー。孔明も漢朝に恩を感じるわけだ

司馬?も武臣に従軍した。父は趙の将軍で李牧と同僚であった
郭開が李牧とともに司馬尚を讒訴したため、李牧は処刑され、司馬尚は逃げた
司馬?は項羽が章邯をやぶったあと趙軍をひきいて関中に入り項羽の贔屓で殷王に封じられた。
項羽ちゃんは身近な人に甘い。河内郡温県の司馬氏は、河内に定住した殷王司馬?の子孫
0234名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/25(月) 17:46:02.29ID:N/uPxtOw0
呉広の知力が5評価なら他の張楚の人も良くて30くらいまでが妥当やろ…
次元が違うと思わせるような情報はないだろうし
0235名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/26(火) 05:41:12.71ID:t+hex8Ok0
陳勝呉広が秦に立ちむかった功績に感謝して高祖は墓守をおき、王号をおくった
王を称したのはいろいろ性急だとしても、項梁将軍も陳勝を王とみとめており秦嘉が陳王にそむいて景駒を擁立したのは大逆であるとした
劉邦もいちじ景駒に属していたっからあぶなかった
項羽も項伯も劉邦をいたく気に入っていたから「そうはならんやろ」かもしれないけど
0236名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/26(火) 05:49:44.83ID:RK54xkkz0
まかり間違ったらィ君レベルで終わってた可能性あるんだよな劉邦
0237名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/26(火) 07:03:49.16ID:jkva3AmL0
スーパークレイジー君?

>?君
0238名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/26(火) 07:33:34.21ID:aJa6XYrE0
劉邦の子捨てとか正当化しようとしてるけど
捕まったら生き埋めにされるかもしれないから怖くて
子供を馬車から投げ捨てましてでいいじゃん
0239名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/26(火) 08:09:11.71ID:t+hex8Ok0
二世2年(紀元前208年)3月、劉邦は項梁のもとに赴き同年4月、秦嘉は彭城の東方に陣を敷いて、項梁の軍を阻もうとした。
項梁は激怒して攻めた。秦嘉は迎え撃ったが大敗、胡陵まで追撃した

やべー、1ヶ月の差で投降し、首繋がってる劉邦。
景駒は楚の名族である、と意気投合しそうなもんだが楚の三氏でも並び立つ昭氏と景氏といわれ
項燕将軍の席次の上の景・昭はもとから煙たかったのかも
0240名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/26(火) 08:20:38.35ID:t+hex8Ok0
当時の道徳も法律も異なるし、特に「子捨てが悪いことと」は思われないフシがある
秦の法では「親不孝は棄市」斬刑にして市場に晒す、
親を助けるために子が馬車を降りるのは当然で劉邦は手助けをしたにすぎないという本もあったね

毒親とかいう現代日本では発狂しそうだが
この時代ローマの法でも親が子供を殺してもよいと家長権を認めており東西問わず常識
我が子を家長が裁く権利がありと皇帝に死刑にされた息子のさげわたしを要求したり家長権を逆用した例もある
0241名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/26(火) 10:40:10.29ID:+emUM3gg0
>>240
子捨てが認められてたなら、それを拾った夏侯嬰は君主を危険な目に遭わせた不忠者となってしまう
一般的に認められてなかったからこそ、わざわざ拾ったと考えるべきじゃないか?
0242名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/26(火) 11:25:08.60ID:t+hex8Ok0
曹氏のうんだ長男の劉肥はすでに成年に、楚漢戦争では将として活躍してる。
曹無傷が曹氏と劉肥の冷遇を怒り、項羽に密告したという説もある

恵帝は軟弱な少年だった、戚夫人の劉如意は2歳、活発で劉邦は可愛がり期待していた
立派な劉肥はおるし、劉如意はかわいい、マジで捨てていいと思ったのかも

夏侯嬰にとってはもちろん恵帝は可愛かったし見どころがあると考えておりこの事件の後
劉邦も諦めて友人たちがまもってくれるなら、アレもあとを継げなくもないだろうと王太子に立てられた
0243名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/26(火) 12:23:35.07ID:8lYcArUS0
>>241
だから不忠の夏侯嬰は子孫が漢朝を簒奪してるだろ
0244名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/26(火) 15:58:10.82ID:aJa6XYrE0
正当化する必要ないと思う
腹が減ったから強盗したを何とか美化する必要ないように
0245名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/26(火) 16:06:13.14ID:YEM3JHem0
>>237
あれ文字化けしてる、ネイ君ね
景駒の臣下で劉邦の元同僚…と言っても恐らく伝わらないレベルの知名度の人
0246名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/26(火) 16:39:43.00ID:27Zy2acd0
呂后は劉大公とともに二年も項羽に囚われた
舅と煮殺される危険もありたいへんだったはずだがそのへんの
話しはないので案外良い待遇だったのか
0247名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/26(火) 17:53:53.77ID:x1/69VnW0
普通は囚人でも貴人は貴人対応だからな
0248名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/27(水) 17:48:51.53ID:5y7HxAN00
呂后と劉大公は劉邦にとり項羽陣営に煮殺された方が利用価値あったやろ
0249名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/27(水) 18:23:01.18ID:ohcqdKWG0
>>248
戚夫人「ほんにそう思いますわ」
0250名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/27(水) 20:40:54.32ID:hY6zKE+k0
彭城の戦いでは劉邦も東に警戒線は引いていたが、項羽はそのうらをかき西から迂回して急襲、油断した56万の漢軍はやぶれ、
10万の死体が河に流れたという。彭城の西、街道ぞい下邑に義理の兄の呂沢が一軍をひきいて駐屯してた

さて項羽軍は彭城の西からせめたわけで劉邦も西ににげるのは大胆だが
じつはこのあたりは劉邦が盗賊していたマンダン山の廃城もあり地理は項羽の将より熟知していた

漢軍は崩壊して逃げたり項羽に降伏したが呂沢は剛直な性格で期待どおり平気で踏みとどまっていた。
義兄は下邑では心もとないと指摘してトウに移り、やがて数千の敗兵を収容して劉邦は、難攻不落なケイ陽にうつる
呂雉の兄は何人もおり、呂沢はその中のひとりだったが、この件で侯に封じられた

ここで蕭何が関中であつめた秦の騎兵が加わった。李必・駱甲が、ケイ陽で楚兵を蹴散らし大破した
大いに気を良くした劉邦はケイ陽の陣中で四男文帝を儲けることになる。文帝が即位するのはわずか二十年後になる
0251名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/28(木) 06:18:46.70ID:Y8ORhIuq0
反秦蜂起のとき、蕭家、曹家の二人は沛で比較的門地が高く、民衆はかれらがリーダーになつてほしいとのぞんだが
父老は卜(占い)して劉邦が沛公にえらばれたと告げてふたりは家臣になった。もちろん仕組まれた政治劇で
漢朝の成立後、蕭何は八千戸の候として功績一位になった。多くの武将は蕭何は文弱だと不満を述べた
劉邦は蕭何は家族の一員だから何も問題ないと乱暴に脅した
晩年は高祖はボケて蕭何が富商から賄賂をとり、上林苑、皇帝の土地を農民を入れて耕して私腹を肥やしたと
蕭何は金持ちの商人との共謀で土地を盗もうと企てたとして起訴され投獄して拷問器具にかけろと命令した

呂雉は蕭何の奥さんと友人だったらしく、蕭何と長男蕭禄が死んだあと奥さんと末っ子にも爵位を贈ってる
奥さんネットワークがあって閨閥ピラミッドの頂点が呂雉?
0252名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/28(木) 08:13:55.47ID:wLBDlkqN0
ググったら蕭何の奥さんの名前「同」なのな。
0253名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/28(木) 14:30:41.14ID:nXzwnCaE0
滎陽防衛がうまくいったのは項羽と英布の離間工作がうまくいったおかげやろ
0254名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/28(木) 18:24:26.84ID:hXKUzKQv0
英布の人間がいまいち掴めないんだよな

時に恐れ知らずの罪人、時に勇猛果敢な名将、時に情けないほどの無能
その癖最後は男らしく大見得切って戦場で死ぬという不思議な人生
0255名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/28(木) 18:34:28.89ID:FtiUPJ8y0
自分の置かれたポジションに因ってその都度気分が変わるタイプかも
0256名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/28(木) 19:02:58.73ID:Y8ORhIuq0
英布が謀反したとき劉邦は重病で、とても立ち上がれないと考え、太子に遠征させたいと望んだ
恵帝はよろこんだが、4人の隠者は太子が戦争に行くものでないと反対し、断るように勧めた
呂后は泣いて止めた。ききつけたハンカイが昂奮して怒鳴り込んできた
劉邦は他に方法がなく自分が遠征すると述べた。老いにも病気も戦って勝つしかあるまい!
英布は劉邦は年取りすぎていてもはやこれないと確信したので皇帝親征に驚いた
0257名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/28(木) 19:21:51.20ID:Y8ORhIuq0
英布は項羽麾下の猛将で、すべて精鋭のエリート兵士だった。劉邦は苦戦したが
そこで十数万をひきつれて斉の相曹参が乱入してきた
曹参は韓信ともに各地でたたかった肉弾戦タイプの猛将であり斉兵は精強で
英布もたまりかねて敗走した
0258名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/28(木) 19:22:32.95ID:r7lh9gr90
そもそも項羽陣営の話が少ないんだよな
范増季布龍且鍾離眜英布彭越とかが嘘でも脚色してれば世間的に人気でたかもね
0259名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/28(木) 20:47:57.59ID:Y8ORhIuq0
英布は随何の質問にこたえて「わたしは項羽の家臣である」と述べてる
随何は「王は項羽が苦戦してるときに4000人をおくっただけ。これは臣のたいどではない。あなたは楚が強いから従うと思ってるのでしょう」
この位置から漢と手をむずび楚をせめれば天下は取れると説き、英布は同意した
英布は項梁の猛将で、項梁は項羽が出陣するときも副将につけてやったほどで、将軍としては先輩だが
楚の名門の項羽は英布はしょせん罪人よと侮蔑しており、降伏した秦兵を穴埋めにして殺すなどヨゴレ仕事ばかりさせた。

彭越も功はあげたにもかかわず、項羽は盗賊はあいてにせずと、何の報奨もあたえなかった
呂皇后も彭越に近寄るのを嫌悪していたからおそらく盗賊というだけでなく、見栄えはかなり悪かった
この時代は背が高くないとダメなんだよね
0260名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/28(木) 21:25:35.89ID:Y+xN/uZp0
>>255
いるねそういう人
本質的なところで主体性がない
しかも本人にはその自覚がない
英布は置かれた状況次第で活躍したり腐ったり差が激しいタイプかね
0261名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/29(金) 07:07:45.92ID:8NUz+CQh0
>>259
背は現代でも高くないとダメだろ
女性が婚活にだす条件は、ごく普通の男で良いとしてその普通とは年収500万身長170センチMARCH卒以上だぞ
0262名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/29(金) 07:32:45.75ID:/tYcIcrM0
彭越居なかったら劉邦陣営は項羽に破れてたのに
彭越が一番酷い扱いだな
0263名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/29(金) 08:52:35.22ID:AchmJvQg0
韓信は項羽の郎をしていた、韓信は背が高く、大きなことを言ったが項羽は身長189センチもあり将軍たちも大きかったので
愉快なやつと笑うばかりで耳をかさなかった。韓信は漢軍についたが連敖(接待係)という役職しかもらえず
サイコロが好きだったので仲間と盗みを働いてさわいでつかまり、死刑にされそうになったが夏侯嬰に「俺は英雄だ」と訴え
見るといい体格をしてるのでなにか使えると考え、蕭何のしたで尉につけた

張蒼という者があり南陽攻略で死刑になるところを彼が背が高く丸々と太っているのを見て只者ではないと感じた王陵が助命した
じつは張蒼は秦の九卿の下の御史で、六百石の役員であり秦の制度では地方に監察官として派遣されていたなかなかのエリートだった

大動乱で劉邦の軍に参加したもので、計算を得意としていたことからこの手の人材をもとめていた蕭何の下で戸籍の統計を司り、
郡国から報告される予算書を主管させた。劉邦の部下の中で珍しく書や律暦に詳しく暦を定め、また調律を行い音楽を定めた。
張蒼は、漢王朝はまだ「水徳」であると信じていたので、秦暦を採用、衣装は黒にさだめた

有能な張蒼は呂皇后に珍重され、取り立てられて御史大夫になり、文帝の代で丞相灌嬰が死亡するとついに後任の丞相となった。
秦が続いていたらいずれ秦の九卿になれる人材ではあったものの、文帝に漢は五行思想の水徳である、秦とおなじやと放言して解任された
張蒼は古代の数学の本「九章算術」を補足し、改訂しました。また、16冊の本をしるした
0264名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/29(金) 10:22:52.62ID:ugt5ctQu0
>>262
韓信彭越は報奨がないと劉邦裏切る(見捨てる)ってのを実演してるから
あの時点で粛清の内定もらってるよ
0265名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/29(金) 11:10:11.46ID:GcXWcPCX0
>>261
ケ小平(身長157cm)「小猫でも大猫でも鼠を捕る猫がいい猫だ」
胡耀邦(身長155cm)「仰る通りです。」
0266名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/29(金) 11:16:09.95ID:RKzSQ2x10
>>261
婚活しなきゃならない人達の出す条件ほど参考にならないものはないぞ
0267名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/29(金) 11:43:15.29ID:n7FSw1in0
>>255
>>260
3人の劉邦に天下を取らせた王の内、2人が罪をでっち上げて処刑されて
しかもその肉を塩漬けにされて送りつけられて
謀反するしかない状態に追い込まれたわけだし
無能というけど、人間の中ではかなりマシな方だと思うよ
0268名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/29(金) 12:02:20.30ID:TabZdRL00
王位なんて返上するぐらいの処世術が必要、それが無心だからなw
私なんて侯爵で充分でございます、王位は是非とも劉姓で我々はそれを盛り立てていきますと
それやっても>>264の罪を許されるかどうかなのに馬鹿面で安穏としてればそりゃ死ぬよ
0269名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/29(金) 12:19:24.40ID:AchmJvQg0
劉邦は晩年、落ち込むばかりで宮廷のものはみなどうにかしたいと思っていた
悲歌をうたう劉邦に趙堯はいった「陛下は戚夫人と趙王のことが心配なのでございましょう?」
「そうだ、呂后は戚夫人と仲が悪い。わしがしんだあとかわいい趙王はどうなることやら・・・」

「趙王に強力な大臣を後ろ盾にすれば、安心です。周昌をつけましょう。陛下は永遠に生きられますか?ことは急ぐのです」
「おまえは知恵者だ。なるほど御史大夫は呂后もはばかる頑固者!」
劉邦は周昌を趙国におくり、大臣の印をもてあそびながら微笑して言った「さて御史大夫の席にだれをつけたものかの・・」
「趙堯よ!きみが御史大夫やってくれるか」

呂后は高祖が死ぬとさっそく御史大夫趙堯を解任し、かわりに任敖を御史大夫につけた
任敖は沛の役人で、呂后が牢獄に繋がれたときに拷問した獄卒を殴りつけた男らしいイケメンで呂后の好みであった

劉邦は感謝して任敖はゆたかな上党の太守(趙国の旧地)につけた。呂雉はひきたててやりたかったが
すでに老人でもありまた三公は元老が独占していたので3年で代わった
文帝が即位すると彼は元勲たちの世代交代をのぞんでいたので張蒼を御史大夫に任命した
0270名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/29(金) 12:29:18.55ID:W9eDKqgo0
なお100歳以上も生きておっぱいをちゅうちゅう吸う模様
0271名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/29(金) 12:48:36.01ID:AchmJvQg0
彭越は項羽とたたかい、盗賊として補給線を切り崩し、いくつもの都市をうばい
さらに楚の物資を大量に捕獲して、そのまま仕入れルートで漢軍のケイ陽に送り届けたから
劉邦もよくがんばってくれる彭越に好意を持っていたが魏の宰相という地位しかあたえなかった

羽柴秀吉くらいのはたらきがあるんだけど、けち
0272名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/29(金) 14:42:45.96ID:ugt5ctQu0
王族でない以上魏王にするわけにいかないし、相国以上の地位を与えるのは無理だろう
あとイメージだけど、彭越も活動地域の魏から離れる気なさそう
0273名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/29(金) 15:21:18.84ID:n7FSw1in0
>>268
王位を失い無力になっても韓信も彭越もころされた
0274名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/29(金) 16:23:10.43ID:sFrjt0wq0
>>273
そりゃそんな叛意が服着て歩いてるような奴ら殺すでしょ
逆に生かす理由があれば教えてほしい
生かすなら兵権預けて冒頓単于ボコらせに行ってるでしょ
0275名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/29(金) 17:04:25.76ID:mCaCKlb/0
反乱をくわだてなければ捨て扶持で暮らせたであろう粛正者もチラホラ
0276名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/29(金) 17:09:53.35ID:sFrjt0wq0
蕭何ですら私財投げたり戦時は親族前線に投入して猜疑心対策してる
蕭何ですらだぞw
それを外様が捨扶持に集って食わせてもらおうなんて寧ろ厚顔過ぎるでしょうが
0277名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/29(金) 17:31:41.42ID:QSt81GaN0
軍人でもないのに王翦の処世術を知識として蕭何は活用したくさいな
0278名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/29(金) 18:51:07.70ID:AchmJvQg0
劉邦は彭越の部下のラン布に「梁王がいなければ天下は取れなかった」とせめられると都尉に任命してる
劉邦はおしきられる形で一族皆殺しにしたがやはり同情の念もあった
呂后にしたがって彭越を処断した王廷尉は高祖の死後、呂后四年(前186年)に山都侯に封じた
手飼いの部下に気前のいい呂后であった
0279名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/29(金) 19:15:59.83ID:AchmJvQg0
劉邦の晩年なら呂皇后に毎日ゴマすりまくって
呂后年間に御史大夫になるのが出世の道だね
韓信も中央政府でボケッとしてればそのうち九卿に
0280名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/29(金) 22:04:46.49ID:TB+ZHer70
趙高「誅殺して晒した上に醢してわざわざ諸侯に配る漢の連中、俺より陰険じゃね?」
0281名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/29(金) 22:23:34.94ID:AyUfhmeW0
龍ショって項羽の小型コピー武将で
突撃で敵兵穴埋めという
そんな将軍に20万もあずける楚
0282名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/30(土) 10:41:51.42ID:em3BzePt0
楚の将軍としては使える方だし
戦績、項羽からの信頼を考えると王にならなかったのがおかしいくらい
まぁこれは季布や鍾離昧にも言えることだが
0283名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/30(土) 11:28:10.43ID:wrrNh3/70
韓信陳平は楚の将軍と顔見知りなのが大きいね
相手の性格を知ってる
0284名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/30(土) 12:04:10.72ID:em3BzePt0
実際、なんで王に封じなかったのか
近くに置いときたかったとか?
0285名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/30(土) 12:32:56.56ID:wrrNh3/70
全土治めるのがむずかしいから
やむなく王置いてるわけで
左遷と取る人もいるのでは
0286名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/30(土) 13:00:54.52ID:MGcFYmMK0
>>282
そこら辺の有名どころ最終的にはほとんど漢に降ってるけど
どうして勝利枚だけ降らずに韓信にかくまってもらうような逃げ隠れしてたんだろうなぁ
0287名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/30(土) 13:08:44.49ID:3lmjIlZa0
>>281
そこで20万の兵を失い、楚軍は10万だけになった
韓信軍は30万になった
0288名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/30(土) 13:48:12.71ID:CDeyOQ9w0
韓信より陳平のほうが疑わしいと思うしじっさい呂氏の太鼓持ちしてるんで
劉邦は彭越より曹参・灌嬰・周勃あたりを処刑すべきだとおもうわ
0289名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/30(土) 14:47:01.12ID:iqaw8MhU0
家臣部下食客の意見を聞き入れた人 劉邦蕭何陳平

家臣部下食客の意見を一切聞かなかった人 項羽韓信
0290名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/30(土) 14:51:10.60ID:iqaw8MhU0
どれだけ凄い傑物だろうと人間一人の知識や見識なんて限度がある
だからこそ頭や口だけじゃなく色んな意見を聞き入れる耳が重要
諫言と讒言と佞言を聞き分ける耳を持つ物が成功者になり無い者は消え去る、これが歴史の事実
0291名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/30(土) 15:03:57.38ID:CDeyOQ9w0
中国人はすごいおしゃべり。アメリカ人もおしゃべりで、しゃべらないやつは空気が悪くなるなど言われるしフランス人も喋らないと死んじゃうとか
まあぁそれは普通なんだが中国の場合はマシンガンのようにしゃべる
無口な中国人でも、夜中にワーワー他人がしゃべるラジオとか聞いてニヤニヤしてるので、楽しみになってるらしい

中国人はとにかく主張するのがよし!言いたいことをいえ、という文化なので
もちろん古代中国もおなじで、劉邦も文帝も側近の、たいこ持ちのような家臣がつきそって、絶えず気分のいい話をしゃべる
もちろん王様に讒言とか耳に吹き込まれるんで、むしろウルセーとしりぞけるほうが難しいのだわ
0292名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/30(土) 15:27:43.46ID:7yu6zTPG0
韓信はたぶん人の話は聞かない
項羽はむしろ項伯のエピソードなどから人のはなし鵜呑みにして政令がコロコロ変わるタイプ
0293名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/30(土) 17:04:23.43ID:/IyaPSAK0
項羽は信頼するものの話は聞く
陳平によると嫁の関係者のみ
0294名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/30(土) 18:24:37.49ID:e+3z2mfS0
楚の内政は誰が担当したの
上柱国とか司馬はいたようだが
令伊はいたっけ
0295名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/30(土) 19:08:16.95ID:BPI4eQWo0
>>294
周殷
あとは不明
0296名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/30(土) 19:48:54.28ID:CDeyOQ9w0
楚の左令尹(項伯)項纏
楚の柱国(項タ)

龍ショが20万率いる大将軍かな?韓信の下で龍ショと戦った諸将は、騎将灌嬰、将軍呂沢、将軍柴武、丁豊、丁複
このとき呂沢おにいちゃんも歩兵率いてがんばってるんだ!

柴武は、東阿の2500人ひきいて漢軍に参加、垓下の戦いでは劉邦本陣の工兵守備を担当、のちに文帝の大将軍になってる
大将軍柴武は文帝に対し、10万の兵で漢に従わない異民族を伐つことを進言したが却下された
0297名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/30(土) 22:12:12.70ID:cHg/O6HF0
>>296
傅寛もいなかったっけか
0298名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/30(土) 22:55:14.36ID:6C5hVxKO0
>>296
龍且が20万率いた時項他が一応総大将じゃなかったか?
0299名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/30(土) 23:18:01.59ID:CDeyOQ9w0
>>297
曹参もいたね。韓信が斉王になったときこれらの武将が韓信に取り込まれるのでは恐れられた

秦騎兵の李必・駱甲をしたがえた太尉灌嬰、魏の五大夫の騎将傅寛、相国曹参、剛直な呂澤、大将軍柴武、丁豊将軍、丁複将軍
漢軍の最も強力な親衛隊をすっぽ抜いたようなものじゃん
0300名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/31(日) 07:55:17.50ID:GfJhA+lP0
項羽と劉邦 King's Warってどのくらい本当なのかな。
0301名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/31(日) 09:15:57.84ID:UmHGA1O40
>>299
五大夫って秦だと官爵の最下位なんだけど、、、
それと騎将って将軍より下じゃないの?
それなのに太尉???
0302名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/31(日) 09:19:14.77ID:Zitefw7M0
本人が出演してない時点でもうね
0303名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/31(日) 09:25:58.72ID:eSj8lEar0
虞美人は実在したらしい漢代の伝承では長生きして項羽の墓を祀った
儒教的にもそれがただしい
それが後代の時代になるとのうのうと生きてるのはおかしいと自害した美談になった

また虞美人の兄弟は存在せず
弟が将軍になった話は明代などかなりあとの作り話
0304名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/31(日) 09:31:36.98ID:eSj8lEar0
同じような改変は大河ドラマでもみられ本能寺の変で一級資料は信長は女どもを
逃がしてから自害としかないが
NHKでは帰蝶と自害した創作がおおい
女の扱いが適当

項羽と劉邦では項羽が主役で劉邦は小物
呂后も虞美人も扱いぞんざいらしいが惜しい
0305名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/31(日) 12:02:38.30ID:o6pjrUhI0
垓下の戦いでは斉王韓信が先鋒をつとめ、劉邦の本軍は孔将軍と費将軍陳賀、周勃将軍、大将軍柴武の四十万人

孔将軍は孔子十世の子孫で字は子彦、費将軍・陳賀は、ふたりとも劉邦が盗賊のときからの配下で信頼が厚い猛将で
舍人から戦功をたて左司馬・将軍・都尉と昇進してる。「孔費将軍は、臆病でもいずれ羽を勝ち取るでしょう」と詩にうたわれた

申屠嘉は楚の人で、15歳で漢軍にはいり、うまれつき怪力なので足踏み式の強力なクロスボウをあつかう部隊の指揮官に抜擢された
項羽との戦いに参加し戦功をたて英布征伐でも都尉に昇進した。若かったため文帝の代には高祖に従った唯一の古参兵となる

当時、文帝のトウ皇后の生き別れの弟のトウ広国がみつかり、抱き合って姉弟は涙した。これに感動した文帝は弟さんを宰相にしようといったのだが
トウ広国は賢明で、務まりませんと断った。申屠嘉は清廉な軍人であると宮廷で評判が高く丞相張蒼が罷免されると後任の丞相になった
0306名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/31(日) 13:35:06.15ID:SsVKexOi0
費将軍ってどんな役職?
0307名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/31(日) 14:06:27.44ID:o6pjrUhI0
雑号将軍といって下位の将軍、三国志にそもれっぽい称号がたぶん准将的な意味合い?

劉邦と項羽が講和し呂后や劉太公を解放したあと
協定を破り、漢軍は追跡を開始、
項羽とたたかったが孔費将軍は大敗し劉邦は陽武ににげこんだ

孔費将軍は羽根を得るとは、多分このこと
0308名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/31(日) 14:19:23.84ID:o6pjrUhI0
裨将軍は八品ですべての将軍で最下位
0309名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/31(日) 14:28:38.32ID:+ONrBsgE0
漢王本軍は嫂どろぼうとか葬儀屋とか凡将軍しかいない印象
有能なやつは韓信の戦線に出払って
0310名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/31(日) 14:41:02.49ID:GfJhA+lP0
薄姫が凄く聡明に演じられてるが、文帝の母になるからかな。
0311名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/31(日) 14:42:42.50ID:t9+9x6mt0
この時代実力測るの難しくね?
史上最強候補の韓信項羽に負けたから弱いのかというと早計のような
0312名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/31(日) 14:49:47.53ID:C1l2zN+n0
韓信は兵を練り項羽との対決に自信あったが
やはり押し負けるから楚は強かったんだろうな
葬儀屋や孔将軍は雑魚。戦闘力20ぐらい
0313名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/31(日) 15:06:51.87ID:Mf39sUHy0
章邯が他の時代ならどこまで通用したのか見てみたい
0314名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/31(日) 15:52:48.59ID:o6pjrUhI0
高帝十二年(前195年)劉邦の病は重く、英布征伐に使えない皇太子をかえたいとねがった
張良は反対した「普の献公と共太子、ケイセイの末路、始皇帝と扶蘇と趙高のことを思い出してください」

劉邦は彼に同意するふりをしたが、それでも王子を変えたかった。宴会を開き
皇太子のそばに80以上の白ひげと眉毛の老人が四人いるのをみて劉邦は驚いた「彼らがやってきてる?」

「私は数年前からあなたを訪ねてきました。誰もが私を避けてきました。なぜあなたは私の子に仕えるのだ」

「私は、太子が慈悲深く、親孝行で、学者を愛していることを知っています太子のため働きたいので、私たちはここにいる」
この四人を用意したのは張良だった
かつて、呂雉の兄呂沢は皇太子をまもるように張良にたのみ、四人の学者を呼び寄せるように言った

劉邦は戚夫人をよびよせ、四人をみせ、太子をかえるのはむりだと泣いた、夫人はすすり泣き、劉邦は去り、宴会は終わった。

武帝は呂沢を評価して、高祖の下の五大将軍呂沢の栄誉を与えた
0315名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/31(日) 16:12:21.85ID:UmHGA1O40
>>312
日本軍もそうだったけど、アメリカ軍が調査して
その強さの秘密は命令に忠実に従うこと
通常はソ連とかでも督戦隊とか逃げたり突撃しない兵士をころす部隊がいたりで
兵は言うことを聞かない、味方からの兵糧攻めや嫌がらせは日常茶飯事だから
能力が低くても、命令通りに突撃するだけでかなり強い
更には楚人も日本人もキレやすく自爆攻撃もするから
中国だと爆弾持って突撃しろという命令に普通は従わない
死んでもやるのは史記にも10人もいない
0316名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/31(日) 17:57:39.82ID:OfTYRsmj0
中国の場合、士を自認する人が義によって決死の突撃を買って出ることはあるね
あくまでも個人の判断で

いくら進退窮まったからといって決死攻撃を組織化して上意下達で行う日本はかなり特殊だろう
0317名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/31(日) 18:16:39.59ID:IvslgPxe0
劉邦も楚人だよ
申屠嘉も徐州はるか南方の安徽省の楚人だし
自分の縁者が項羽にいれば楚軍に入隊したろう
0318名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/31(日) 18:21:54.48ID:IvslgPxe0
楚漢戦争はどうも国境に関係なく漢軍にかってに入隊したらしい
血縁の濃い項羽配下に秦人や趙人ははいりにくいものがあるけど
0319名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/31(日) 20:40:57.28ID:23e6xUWO0
斉が天下取るにはどうすればよかったの
0320名無しさん@お腹いっぱい。2021/10/31(日) 21:09:30.85ID:JS+4CF9N0
斉は秦と通じた売国奴のせいでガタガタ
所謂戦う前に勝つというやつ
0321名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/01(月) 00:59:09.44ID:MxyHD7cH0
秦は七国のなかではじつはかなり身分の流動性がある国で、風来坊の外国人がきて宰相になれることは周知だが
子供が生まれると大臣になる、貴婦人になる、などの占いをしたという
張蒼のように誰も真似できないほど高度な学問を修めるか、申屠嘉のようにこつこつ戦場で手柄をひろうかはともかく
皇帝に認められれば列侯になれる、九卿になれる、という夢があった

楚は神権政治で王族で固められ、斉にいたっては将軍も王も宰相も、逆さにして振っても田氏しかでてこない
システム的に秦のほうが人はのびやすく優れていたのか
0322名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/01(月) 07:08:33.95ID:VUld1h3Y0
>>321
なれるけどなりたくないだろ秦の宰相は
最後ほぼ処刑されるんだから
韓国の大統領みたい
0323名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/01(月) 07:28:24.74ID:3MgartAk0
戦国七雄は全体の史料不足及び秦とその他の国の史料格差がヤバいので比較ムズイ

史料に偏りがあることに加えて、秦が勝者である事、前世紀の儒法闘争etcの影響で
秦や商鞅改革を殊更特別視し他国との違いを強調しすぎたきらいが無いこともない
0324名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/01(月) 07:30:19.11ID:MxyHD7cH0
公孫賀は匈奴の公孫昆邪の子で、妻は衛子夫の姉で、軽車将軍・車騎将軍・左将軍・浮沮将軍などになって匈奴と戦った。石慶の死により丞相に任命される。
石慶以前の丞相3人が続けて罪を得て死んでいることから丞相を拝命する際に泣いて「田舎者ですから丞相はむりです」と申し出たが武帝は怒って許さなかった

武帝の丞相やるのはいやだって匈奴人まで逃げ腰
0325名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/01(月) 08:57:02.83ID:g1wWDkvt0
天災ひとつで罷免されるんじゃなりたくないのもわかる
火中の栗みたいなとこあるわ
0326名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/01(月) 11:17:30.91ID:MxyHD7cH0
蕭何は劉邦が広武山で葬儀屋とか嫂泥棒とたたかってるあいだに関中をまもっていたが
匈奴の族長まで劉邦に援軍として差し向けたから、異民族にワイロも贈ったらしい
どこからそんなカネが湧いて出た。始皇帝のかくし財産かな
0327名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/01(月) 11:59:26.27ID:Ep4b7afJ0
武帝の時に丞相になりたくないのは、たぶん巫蟲の乱で、
自分に嫌疑がかけられる可能性を考えてだろうな。
江充とかが権力者を次々に陥れていった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%AB%E8%A0%B1%E3%81%AE%E7%A6%8D
0328名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/01(月) 17:17:53.34ID:MxyHD7cH0
武帝って酷いやつで民は搾取に苦しみ生活できなくなり流民化し高官の末路は腰斬ばかり。でも中国では人気
0329名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/01(月) 17:25:42.19ID:lBg0BL/M0
そら皇帝の雛型作ったやつやからね
0330名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/01(月) 17:49:45.05ID:3MgartAk0
>>325
大国になればなるほど瑕瑾は増えますからね
天候や地方の統治機構の不手際が漏れなく行政の長の処刑理由になるなら中国史上の宰相全滅しそう

>>326
秦末漢初は群雄はそれぞれ運転資金?を確保できてるんだし
諸侯中でも最大の版図持つ漢なら金持ってても不思議はないんじゃ
0331名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/01(月) 18:05:51.87ID:8q2v259d0
衛青霍去病様々だよな
中華は異民族戦の功績が内戦の100倍高いから仕方ない
0332名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/01(月) 18:13:06.12ID:3MgartAk0
内戦は基本中国人の誰かが勝つゲームなのに対して、異民族戦は勝てるとは限らんので希少価値が高いわね
0333名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/01(月) 18:14:40.00ID:Cm0dw81q0
呂雉はご機嫌だと近臣に一千金を与え
文帝ちゃんはゴマすりの近臣に毎回1億銭与えて
老後の不安と訴えられると
銅山をあたえ銭をドンドン鋳造しなさいという気のいい奴

項羽もその半分くらい家来に金ばら撒けば
0334名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/01(月) 23:34:16.50ID:R3IhQgww0
ゆうほど蒙古ボコった孟キョウ評価高いか?
0335名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/02(火) 05:40:18.86ID:f2Q9oKLr0
高いといえば高いけど
知名度ないんで人気はさっぱりやね
0336名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/02(火) 08:46:18.11ID:VJyTbLWO0
>>335
古来から大陸でも台湾でも中国人に人気が高いのは異民族には強くても味方の筈の政権側に疎まれ冷遇されて悲劇的な最後を遂げた人物じゃないかな。
金に連戦連勝した南宋の岳飛、オイラートのエセンから北京を防衛した明の于謙、後金のヌルハチを敗死させた明末の袁崇煥ら異民族相手に武勲をあげながら最後は政敵の讒言を信じた皇帝によって処刑されている。
0337名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/02(火) 14:20:30.68ID:oBd8vrGY0
陳平の都尉がわからない。漢の「都尉」は副将ともいい、郡の長官を監察して地方軍を統率した

陳平は美男子なので項羽に二十金を与えられ都尉にとりたてられたが讒言が多いので金を返却して漢軍に降った
劉邦はケチな項羽が取り立てるのはよほどの人物とみて都尉にしたが、周勃など将軍を統率したのでうらみを買う
これだと劉邦の副官にみえる
孔費も将軍から都尉に昇進してるから、将軍の上なのか
0338名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/02(火) 16:06:43.71ID:K5DFRmmn0
都は全体という意味もあるとか
0339名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/03(水) 00:26:11.62ID:23Qi0vmk0
陳平は陽武県の人で実家は三十畝の畑しかない貧乏農民だった。陳伯はけんめいにはたらき陳平を遊学させたため
「びんぼうで働かないのに、なぜ色白で太ってるのか」といわれた
金持ちの張仲のむすめが5度も出戻りしてた。張氏の老婦人は陳平の葬式の働きを見て気に入り
「陳平の家は貧民窟にあり、ムシロを下げて門としてるが、貴人の車が多く出入りした轍がある、立派な方にちがいない」
張仲「陳平は何も仕事をせず村のものは皆彼の振る舞いを見て笑っていますが・・・」
老婦人は子の仲をしかりつけた「立派な人物がなにいつまでも貧乏である道理がない!孫娘は陳平にやろうと思います」

項羽は陳平が美男子なのをみて気に入り、卿の爵位をあたえてかわいがり、彭城で王位につくと信武君とした。
さらに都尉に任命して二十金をあたえた。項羽が一族以外ここまで引き立てるとは異常だね
0340名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/03(水) 01:16:58.49ID:HXEFRNSq0
>>336
岳飛は人気者だけど
後者二人はいうほど人気ないのでそれも少し違うのでは?
0341名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/03(水) 06:56:14.84ID:ld+mZr3S0
>>340
二人とも中国人の間では人気あるよ。孟キョウと違って彼等が主役のドラマも近年作られているし。
0342名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/03(水) 10:24:23.70ID:HXEFRNSq0
>>341
いや、ドラマの主役イコール古来大人気じゃないし…(地味な孟キョウは上回っても李靖や霍去病、戚継光や鄭成功との比較なら上とは言えない)
もちろん二人が不人気だと言いたい訳でもない、味方に殺されるという要素は不可欠ではないというだけ
0343名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/03(水) 10:28:47.15ID:ccGQJ/1N0
防衛に強いのは国が滅びないと評価されにくいからなあ
孟キョウいなきゃおそらく金滅んだ直後に南宋も滅んでたね
0344名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/03(水) 11:21:19.07ID:23Qi0vmk0
劉邦の兄劉喜 (代王)紀元前201年代王に封じられた。匈奴が侵攻すると、戦わずして逃亡した
末っ子の楚王劉交も英布にやぶれる。劉喜のあとも代王に幼児の文帝を置いたりして匈奴国境を軽視しすぎる

だだ文帝はぶじに国をおさめ、趙王に移らないかとさそわれても「匈奴に備える」と断ってる
キングダムの李牧将軍の熱狂的ファンだと告白してるし騎射も修めたのかも
0345名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/03(水) 12:45:24.87ID:JKzBUvoR0
>>343
防衛が完璧だと敵が攻めて来ることすらなくなるからな
敵がいないからと不要扱いされるまである
0346名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/03(水) 19:48:22.41ID:sJRlPH3N0
李広なんかはそんな感じだな
匈奴にも恐れられるが中央には評価されない
0347名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/03(水) 21:39:25.38ID:2xkK28YG0
李広は衛青という完全上位互換がいたのがねえ
0348名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/04(木) 12:24:00.99ID:vdg1rMjY0
斉は戦国最強で人も多く海に近いのになぜ斉人はあんなに弱いのか、項羽にも劉邦にもボコられてる
0349名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/04(木) 12:41:54.13ID:xRN4xwsL0
京王線ジョーカー「レキイキで動きを止めて韓信で刺しました」
0350名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/04(木) 17:33:52.58ID:3is09DOi0
自分達が一番最先端な文化人で他国は蛮族ぐらいの感覚だったんじゃ
0351名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/04(木) 19:51:19.59ID:KFsEPr540
>>348
歴史時代より前に西から東へ逃げて逃げたからじゃね
そこから更に東の島国には独特の遺伝子があるらしいけど
そこで誕生した可能性は数万年程度じゃ低いから
恐らく大陸では絶滅しただけかと
0352名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/04(木) 20:12:11.32ID:+khqc+As0
>>348
強かったとは言っても既に秦にボコられた後でしたし
0353名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/04(木) 21:21:10.03ID:KFsEPr540
斉は70ぐらいの城があって2城を残して全部落とされて滅亡寸前になったから
もっともその2城は結構強かったんだと思うけど
東京が落ちて、大阪と福岡の2県で韓国・朝鮮軍と戦争みたいな状況
0354名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/04(木) 22:59:43.07ID:bKxQahyO0
>>353
即墨と莒だけど莒は元々一つの侯国だったから人口それなりで城も当然それに相応しい防御力があるからそれは良く分かる
でも即墨は田単がいたからというのが一番大きいと思う
寧ろそっちの方がロマンがあるw
0355名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/05(金) 00:14:12.75ID:uNH9Rua/0
項羽の降伏した斉兵を穴埋め、みなごろしという作法は
コッチが負ければ当然虐殺になる秦相手では普通のプレイだが
戦国時代にも秦とロクに闘ってない東方の
斉人相手だとハードなプレイ過ぎたかも
0356名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/05(金) 02:39:18.29ID:A7VlxFnT0
項羽はダメな指導者の見本みたいなものだから
司馬遷に最期を美しく描いてもらえたのがせめてもの救いという人生
0357名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/05(金) 08:22:22.77ID:XGFC1ftU0
>>354
即墨も将軍や主要武将が捕虜になって兵法を知る田単が指揮官になったけど
その前に68城?を落とした燕軍に1城の兵で普通に攻撃しているからなあ
十分に戦えると思い込んで壊滅。。。
田単が捕虜の鼻をそぎ落としたのは、この将兵を頭のおかしい連中と思ったからかなあ
0358名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/05(金) 08:27:19.36ID:XGFC1ftU0
どうでもいいけど
中国の推測では斉軍20万VS5ヶ国連合軍50万で斉は敗れ首都を落とされ
燕軍10万?のみで斉を滅亡させるために侵攻
半年?2年?で斉の67〜71城?を落とされ
残るは2城のみで滅亡寸前、そこから田単が仲間の捕虜の鼻をそぎ落とし
先祖の墓を焼いて、偽りの降伏で油断させて燕軍を破ると
降伏していた城が反旗を翻し斉は城を全て奪い返した
0359名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/05(金) 12:37:13.83ID:jKGCphfm0
それで鼻削がれる方はたまんねーよな
0360名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/05(金) 13:56:30.67ID:6jWJ4FQL0
田単は捕虜の鼻を削がれること&墓暴きをされる事を恐れていると敵に広めさせ
燕軍が愚かにもそれを実行してしまった為に斉軍が怒って戦意旺盛になってしまった
昭王が生きていて楽毅が引き続き指揮してたならこんな見え透いた手には引っ掛からなかったろうにね
0361名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/05(金) 14:14:42.44ID:xZI5IezJ0
墓燃やされて逃げた頃襄王の例もあるし
恐怖を怒りにすり替えた田単が名アジテーターだったんじゃね?
0362名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/05(金) 14:30:10.51ID:e6ET9g+o0
ただ「捕虜の鼻削がさせたの、実は作戦だったんすよ」
なんて、いくら勝った後でもよくばらせたな

生き残った捕虜もいただろうし
遺族もいただろうに
0363名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/05(金) 18:12:49.99ID:1WL4rza20
斉には主力となる五都の兵(一時燕を制圧したのもこの五都軍団らしい)がいたと言われ、即墨と莒はその五都の一つだと推測されてる。
この推測通りだと即墨と莒には燕軍単体相手なら対処可能な戦力がいてもおかしくないので、楽毅軍が手こずって攻め落とせなかったのも理解できる。

即墨と莒を抑えていない事が、斉の東部と南部の支配が脆弱(または依然斉領or楚などが制圧中)である可能性を示唆するとすれば、
燕の斉占領はいつ崩壊しても不思議ではない状況だったのかもしれない、たとえ楽毅が健在でも。
0364名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/05(金) 19:08:36.20ID:H1Uq7M/60
>>362
本人がバラしたとは限らんだろ
0365名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/05(金) 19:39:36.81ID:NfdMQhjo0
斉は全盛期には五十万ぐらいの兵力を動員できたのでは
弩も大量に装備していたし、土地が痩せていたらしいが、海もある
あのへんは赤眉の乱や黄巾の乱の策源地だ、漢代は人口が多く盗賊や反乱がもとから多かったようだ
0366名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/05(金) 19:45:40.74ID:1WL4rza20
ツッコミが入ることも多い戦国説話や項羽最期の無双と同じく
その辺りの田単説話が全て事実である保証もないしね。
0367名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/05(金) 20:27:28.69ID:NfdMQhjo0
クロスボウも斉が発明して世界に広まったり。弩が歴史に姿を現したのは紀元前6世紀頃からで、紀元前4世紀には機械式の弩も生まれていた。
中国における最初の文献的証拠は『孫子』で中国の戦国時代には斉の孫?が戦闘で弩兵を運用している記述がある
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/19/Han_crossbow_trigger_mechanism.jpg
漢朝のクロスボウのトリガーピース。戦国時代頃の弩は発射装置を構成する部品である青銅製の精巧な弩機が遺跡からいくつも出土した。
0368名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/05(金) 22:33:14.18ID:PlDYNc560
田横って何がしたかったんだ
漢が嫌なら楚を助ければよかったのに意味不明
0369名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/05(金) 22:38:17.83ID:cgmPZvbi0
斉って戦国時代末期は衣類に関してはほぼ中華の半分以上のシェアを握っていたし
他の製品も似たようなモノだから地力は凄いんだよなあ
それを生かせなかったのが勿体ないけどさ
0370名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/05(金) 22:56:29.26ID:NfdMQhjo0
鉱石は蜀、製鉄は山西商人、塩は呉、織物は斉?越後の大名も織物で軍資金を得ていたようですね
中世クロスボウは英国では作れずイタリア製らしいのでジェノバの弩兵が活躍とか、斉はイタリアっぽい
0371名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/05(金) 23:36:27.60ID:g+1o5YT70
>>367
プラモの部品にしか見えないが
0372名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/05(金) 23:42:54.30ID:g+1o5YT70
田兄弟の斉におけるカリスマは諸葛亮も認めるレベル
0373名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/06(土) 01:55:39.70ID:CD40felj0
>>348
斉が戦国最強だった時代は孫ピンが魏軍を大破した時〜孟嘗君が一度斉から離れるまでで
楽毅により滅亡寸前に陥ってからはかなり弱体化してる
0374名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/06(土) 01:59:56.23ID:CD40felj0
楚漢戦争時代の斉も田横は項羽相手に劉邦が彭城に来るまで粘り
項羽が彭城救援に向かったら斉全土を取り返したりと割と強いところも見せてるんだけどね
0375名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/06(土) 02:03:26.70ID:CD40felj0
>>368
漢に対しては同盟しようとしたのに韓信が無視して攻撃したからな…
その後、楚が救援に来てるから結局楚と同盟したのだろうか
0376名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/06(土) 03:26:22.09ID:QVZaTTQe0
日本の歴史小説だと秦は野蛮人との混血がどうのと力説されるが史書だとぜんぜんそんなことはなく
むしろ楚人のほうが猿に近いあつかいで差別されてるね。

劉邦は鼻が高いというしサルっぽいという楚人とは中身はたぶん異人種なんだろうけど
晩年は悲しい楚歌を唄っていたというから、文化的には楚人そのもので不思議
0377名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/06(土) 06:25:00.42ID:IahLR4Gc0
力説はされてないかもしれないけど一応秦本紀の最初の方はそこそこ西戎の匂いが漂ってますね
あと楚人も特に異人種というほどの扱いはされてない気がする

>>373
孫子2号の頃も戦国最強とは言い切れないからなぁ(斉が楚に大敗し徐州を包囲されたのは馬陵の後)
東西二帝逸話を額面通り受け取ると最盛期でも秦には及ばないことになるし
0378名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/06(土) 08:55:45.91ID:0ECrHGes0
秦は兄弟で女のやり取りしてたから野蛮人扱いだったのかねえ
重耳も秦の穆公から甥の元嫁押し付けられてビックリかつ迷惑に思ったろうな
商鞅の改革で次男以下は家から出て新たに家を興さないといけなくなったりしてそういうのは徐々に改められるようになったんだけどさ
楚はやはり周王朝に反抗的だったせいで野蛮人扱いされてたんだろうけど
0379名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/06(土) 11:12:16.13ID:JT2NFcCa0
>>368
斉を支配したい→楚がそれを邪魔するので下したい→漢と組もうとしたら国を乗っ取られておじゃん→敵の敵は味方で楚と組むしかない
基本的に成り行き
0380名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/06(土) 13:05:27.11ID:bQlIrpsE0
中共がウイグル弾圧してるから漢民族ではイラン系の顔立ちが嫌われてるというイメージ
中国人が一番興味もつ唐代にウイグル帝国はチョー悪役として登場するからなぁ
ハァー唐に皇太子はウイグル様にたいして口きき方知らんナと唐の大臣を棒で百叩きして撲殺したり
0381名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/06(土) 19:04:17.24ID:EyBKUDwd0
西突厥なんかペルシャ人だしな
0382名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/06(土) 19:43:26.03ID:QVZaTTQe0
降参した城塞都市の住民を穴埋めする、敵兵の死体で建物を作る(京観)、煮殺す
異民族の戦いだよな。秦はズット何百年そんな戦争してたから趙人はひどく憎んでたようだ
韓の宰相の張良がそのわりにあっさりしいてる。漢イコール秦だろと
紀元前284年に楽毅が斉人の死体3万人で京観をつくったと燕下都遺址の発掘で明らかになったが燕は宣伝してないようだ
0383名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/06(土) 22:10:54.67ID:IahLR4Gc0
>>378
実際のとこは知らんけど、伝統的文献で秦人が野獣みたいな扱いになるのは大体戦国中頃からやね。

春秋秦は晋と戦ったり空気化したり勤王に励んだりとあんまり野蛮人してない。
晋を脱出した人の溜まり場になるところは戦国と共通している。

>>380
ああいう目鼻立ちがくっきりしてる顔立ち自体はむしろ現代漢人の好みじゃね?
もしウイグル族が漢族に嫌われる理由があるとすれば
それは彼らに漢族と諍いを起こすだけの力、つまり無視できない人口、異質な言語、宗教、文化があるからでしょう。
0384名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/07(日) 03:22:10.25ID:vFobmPnP0
呉漢にひきいられた漁陽の突騎三千は天下を平定した。(漁陽郡は現在の北京)戦国燕の力はかなりのもの
楽毅以外の燕の将軍は異民族との戦いが多くぱっとしない
0385名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/07(日) 06:16:24.47ID:YS97Af690
まあぶっちゃけ当時は辺境だからあんま記録が残ってないだけかも
0386名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/07(日) 14:11:54.75ID:vFobmPnP0
イギリスの名城はウェールズに多く、異民族攻略の前線だったからでしょうといえばそれまでだが、海沿いに固い城をつくって
現地人の謀反で孤立無援になっても船で補給できるようにしてる。海賊の根城ともいう

歴史的に山東半島の港は半島北部に集中してるが即墨は、半島の南側で、海沿いで、船が入れる穏やかな港湾になってる。
げんざいは青島市即墨となってるが青島はこのとうじ辺鄙な漁村に過ぎなかった

ドイツは、大洋艦隊の寄港地となる軍港を中国沿岸に確保しようとし膠州湾一帯に目をつけ1898年には膠州湾を99年間の租借地とした
このため、チンタオは現在中国海軍の最大の軍港となってる
即墨は、敵国の燕から一番遠く良港であるために呉越から補給を受けることも出来た
0387名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/07(日) 16:40:18.51ID:iYF6OIz+0
好きな映画30選と年齢を晒すスレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/movie/1622893332/
0388名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/07(日) 17:33:50.21ID:UXrUQTCB0
>>385
出自的に超がつくほどの名門国なのにやたら記録が少ないよなあの国
0389名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/07(日) 17:41:27.46ID:kmoFRXhN0
>>385
春秋時代のネタは魯の年代記の体裁をとる春秋に依存
戦国時代のネタは斉や中原で活動した諸子系文献に依存

中原とのやりとりが少ない諸侯が空気化するのは当然やね。
0390名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/07(日) 18:02:07.56ID:kmoFRXhN0
>>386
海や内海を大いに活用した戦いは西洋では数多いが、大きな島や半島が少ない中国では存在感が薄いね(特に古代では)。
複数の大河川に恵まれているおかげで常に内陸が中心だった古代中国とは対照的。
0391名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/07(日) 19:56:36.74ID:jk8bxXDr0
>>385
燕は君主の名前というか諡号すら不明なのが数人いるからね
もっとも古代の書では君主の名前を飛び飛びに記しているそうで
斉とかで諡号や諱がかぶるのを見ると他の国は不明な代に適当にでっち上げただけだろうね
0392名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/07(日) 20:22:52.24ID:vFobmPnP0
燕国は北に山ジュウやケイインと接していて戦っていたらしいよ。
10万騎という強大な東湖という部族と、山ジュウは隣同士だった。人種的にはテュルクでモンゴル語を話していたようだ
遊牧民だが、刀銭を鋳造して家畜の改良がたくみで最高品種の馬やラクダをもっていて豊か
斉は燕を助けて山ジュウを追い払った

戦国後期になると秦開という将軍が東湖をうち、さらに満州や北朝鮮まで征服していた
秦にほろぼされたとき、燕は広大な開拓地を持っていた。燕王や避難民は荒れ地を5年も逃げたそうだ
0393名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/07(日) 21:47:07.04ID:jk8bxXDr0
トルコ語勉強しているけど日本語と順番一緒なのがいい
これはナニナニですかを
ブ・ナニナニ・ミみたいにいうみたい

秦開の息子高孫が役に立てばなあケイカかわいそう
0394名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/07(日) 22:01:55.19ID:DwuxYMc+0
燕は楚漢でも空気だもんね
なんだろう、立地的にぼっちになりやすいのか?
0395名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/07(日) 23:15:37.44ID:vFobmPnP0
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f7/Early_Warring_States_Period.png
趙チャオが中原で大きい
燕ヤンは朝鮮半島と満州まで足すと、楚チューや秦チンを圧倒する
0396名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/07(日) 23:17:55.77ID:jk8bxXDr0
>>394
中原から遠すぎてってことじゃないかな
高句麗とか燕と朝鮮半島北部を混ぜたようなものだし
劉備の時でさえ幽州は地の果てのイメージで
罪人か地元にいられなくなったか、よほどの変わり者しかいかなかったらしいし
0397名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/08(月) 10:54:13.86ID:4Zv1bwba0
今に日本でも通り魔が、一般人を憎悪しているのだから

楚人の秦人に対する憎悪は激しいだろうな
もっとも、その恨みのことをやっている将軍や宰相が楚人だったりするんだけど
0398名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/08(月) 10:54:17.69ID:4Zv1bwba0
今に日本でも通り魔が、一般人を憎悪しているのだから

楚人の秦人に対する憎悪は激しいだろうな
もっとも、その恨みのことをやっている将軍や宰相が楚人だったりするんだけど
0399名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/08(月) 10:54:21.14ID:4Zv1bwba0
今に日本でも通り魔が、一般人を憎悪しているのだから

楚人の秦人に対する憎悪は激しいだろうな
もっとも、その恨みのことをやっている将軍や宰相が楚人だったりするんだけど
0400名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/08(月) 11:21:27.08ID:AiuAeHoc0
大事なことだから3回言ったのか
0401名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/08(月) 12:49:39.73ID:h7ZkhUjD0
内容わかりづらいわ
0402名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/08(月) 13:14:58.47ID:4Zv1bwba0
>>386
光武帝ですら幽州まで行ったことないらしいし、もう地の果てなんでしょう
0403名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/08(月) 13:48:25.93ID:NCPBVvhc0
東北平原は海抜は200メートル程度、面積は35万平方キロメートルで日本の面積に相当、中国最大の平原
荒れ地の寒冷だが土壌は肥沃であり、最大の食糧生産地。品種改良された米も盛んに栽培される
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/20/LocationSonghua.PNG
その南には華北平原があり中国二位の平原で31万平方キロメートル地味豊かで限りなく平らで温暖

蓋 延(がい えん)は。漁陽郡要陽県の人で身長184センチで三百斤の弓を引いた
要陽県は、げんざいの豊寧満族自治県、北京の真北に当たる。現地の写真
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f2/Genghis_Khan_temporary_palace.JPG
やべー連中じゃん

呉漢の突騎は南陽などで略奪強姦をはたらき、非難する声はあがったが
光武帝は呉漢の忠義はだれも真似できないものであると言い張った

(ばかいってんじゃねー、おまえらにあの部下を統率できるか)
0404名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/08(月) 14:06:31.71ID:NarJn1pX0
そんな呉漢も蜀征服の際の虐殺で流石に怒られたみたいだけど
あの突騎軍団を統率できるのは呉漢位だから譴責されて終わりだった
0405名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/08(月) 15:00:01.72ID:NCPBVvhc0
楚人は小柄で剽悍といわれ、集団で怒るとすぐ人を殺す。ベトナム人にちかい感じ

調査によると人類は南に行くほど喧嘩や闘争が多くなり、個人戦闘力が高くなるらしい
インド人も集団でとてつもない乱暴を働くとイギリス人の貴族が書いてる。メキシコも殺人が多く危ないしね
0406名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/08(月) 15:15:24.77ID:96ODw3a+0
ゲルマンやスラブはマシなのか
0407名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/08(月) 15:47:21.15ID:NCPBVvhc0
寒い国ほど大柄になって助け合いの精神ができるらしい。助け合わないと人口希薄がますますひどくなる
北欧やソ連は村やアパートにセントラルヒーティング集中暖房施設があり、ソ連崩壊で壊れて難儀したという
温かい国だと自己責任。寒いとマジ北朝鮮になる
秦の孝公の十人組(什)と五人組(伍)を監視させ、連帯責任を逃げたら全員処罰とかこれを利用したもの
河北の民は義にあついといわれた。始皇帝を暗殺しようとしたのも燕の士だしね
0408名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/08(月) 21:19:06.81ID:Kl+SKnwK0
>>407
"ベルクマンの法則"だな。
これは「恒温動物においては同じ種でも寒冷な地域に生息するものほど体重が大きく、近縁な種間では大型な種ほど寒冷な地域に生息する」というものでクマやシカが典型的だが、同じ哺乳類の人間にも当てはまるようだ。
0409名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/08(月) 21:35:21.09ID:Wepc64wY0
南のが怠惰な奴が多くねーか?
そもそも北方からの侵略がお決まりのパターンじゃん
ローマギリシアマケドニアみたいなラテンを南に定義するなら変わるけど普通に北部だろ
0410名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/08(月) 22:07:12.37ID:ft4rnQR50
温暖な地域ほど人間の手足は長いとは聞く
0411名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/09(火) 00:07:02.22ID:ORQrgyym0
ローマは最初は北のガリア人からボコボコにされて大量の金を支払って赦してもらったり
ギリシャから訳のわからん理由で侵略されたり
カルタゴからは例え嵐の緊急避難の為とはいえ港使うの禁止とか言われたり
海賊に沿岸荒らされたりと割りと酷い目にあってたからなあ
まあ全部仕返しするのは忘れなかったが
0412名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/09(火) 00:23:11.62ID:ws6ZS4+A0
中国の科挙では荊州(楚)に秀才なしとして有名で、南は土地が豊かで勉強が嫌いだったらしい
諸葛孔明は斉の人だから楽毅や管仲をもちあげたが身長192センチもあった。斉人は大きいのかな

北は植物相が貧困で人口を養えない。ゲルマン人のばあい人口過多になり飢えたため定期的によそに攻め込んだ
「われらの勇敢さは比類ない。部族の土地は狭く、しかも豊かな土地は弱そうな連中が住んでるから住もう」と演説して、
数十万は家族ぐるみで南に集団移動した。ヴァンダル人などアフリカに住みたいのが希望だったらしいね

大司馬呉漢や、フンのアッチラ大王も戦う前の演説が得意で、野蛮人を煽ったらしいが「よわっちいやつらをいたぶって
略奪し放題だ」と多分似たような内容だろう
0413名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/09(火) 12:27:18.26ID:8kqkw2In0
諸葛氏の出自の「諸州」とは、そう言う名前の州なのか、「いろんな州を渡り歩いた」と言う意味なのか
0414名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/09(火) 15:34:19.00ID:RZniusMt0
>>413
諸葛氏の出自は「諸州」ではなく「諸城」で現在の山東省の地級市「イ(サンズイに維)坊市」内の県級市「諸城市」に当たる地域。
0415名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/10(水) 10:14:47.07ID:4YBmlCmZ0
>>405
べとなむじんだから
0416名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/10(水) 15:44:46.66ID:izXer5F30
古代中国では刺し身は贅沢なものと考えられて楚を滅ぼした伍子胥を呉王が宴を開き魚の膾でもてなした
刺し身は海が近い呉だからできたとも考えられるが
秦の始皇帝も斉を滅ぼすと東方しばしば行幸して沿岸でクジラをしとめたともされ咸陽に呉の海産物が持ち込まれた。

刺し身は、魚を薄く切って塩を付けたり醤油・味噌や酒などおいしいタレが考案されて、美食は内陸にも広まった
むしろ海にちかい山東に魚を絶対生食しない地方があると記録されるほどで
唐代ではごくふつうに川でフナやコイをとり刺し身にして庶民がたべた、
異民族の征服のせいもあるだろうが中国ではそのあと肝吸虫など川さかなの害がひろまり、刺し身の習慣は減少した
九州ではフナを甘く煮て甘露煮にするそうだが川さかなの食い方としてはこの辺が妥当

伍子胥は「必ず楚を滅ぼしてやる」と言ったそうだが南方人らしいなぁ
0417名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/10(水) 17:43:34.41ID:ZF1An5Pc0
>>416
そりゃ父と兄を殺されたからな
0418名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/10(水) 18:37:10.01ID:4YBmlCmZ0
>>417
目的のためにセンショやヨウリにヨウリの妻子を犠牲にしてるんだよなあ
0419名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/10(水) 20:08:34.43ID:qeYQ7yu40
全ては呉王の為に〜!
0420名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/10(水) 20:20:43.40ID:BBUpn8ql0
伍子胥は因果応報の最期を迎えてるからまぁ
復讐果たしたあと天寿を全うしてたらあんなに後世の人を惹き付けないと思う
0421名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/10(水) 20:26:33.01ID:izXer5F30
呉の属国となり、私は呉王様の奴隷として仕えるので、許して頂きたい
0422名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/10(水) 20:49:47.48ID:qeYQ7yu40
それこそ100人程度の村の邑主に封じておけば良かったのにな
0423名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/10(水) 21:09:06.31ID:Ou3pSxlD0
実は項羽より先に覇王と号してた越の勾践
0424名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/10(水) 21:15:51.83ID:izXer5F30
越王勾践は呉王夫差にへつらって、みずから王の馬を洗い自分が先陣にたつから斉を攻めるように勧めた
呉はガイ陵の地で斉をうちやぶり、中原に威勢を張り強大をほこった。そのために国力を損ない、越に制圧された

越王に騎士としてつかえるために魏の公孫弘は野蛮の風俗に習い髪を短く切ってた
これをきいた公孫喜は使節をつかわし「先祖に恥ずかしい。もう縁を切る」

公孫弘は返事をした「わしが髪を切ったというが、おまえは首を切って王に仕えるという。これを先祖になんというべきか」
公孫喜は戦争で首をきられて死んだ
0425名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/10(水) 22:08:07.51ID:6mh3/f5t0
越は勾践の前は記録少なすぎだし、勾践の後はあっという間に衰退して滅ぶし、燕に増してよく分からん国って感想しかない
0426名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/10(水) 22:09:09.21ID:pqOi3b4q0
范蠡と伍子胥が真反対な感じでいいんだよな
まあそういう脚色感が春秋は嘘だらけだと揶揄される要因でもあるが
0427名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/10(水) 22:21:58.99ID:7Dn3MK8c0
范蠡と楚の范増の范氏は繋がりあったんだろうかとかいう妄想
0428名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/10(水) 23:43:37.79ID:izXer5F30
越王勾践はあるとき力んだガマカエルをみて、敬礼した。「どうしてこんなものに気をかけられますか」「わしは勇士が好きだ。がまでさえ
こんなに力みかえってるのに敬礼せずにはおれないのだ」この噂が立つと越の人は
「王様は士が好きなようだ。ガマですら敬礼するのだから人士であればどんなに待遇されるか」といいあった。
一年もすると首を切って越王に献上したいという勇者があつまった
「わしは呉をせめたいのだが」
大夫の文種はいった「よろしいでしょう、人心を知るために、ためしに宮殿を焼いてみたらいかがでしょうか」
宮殿が炎上すると民は何もしなかったので越王はいった

「さぁ、火を消したものは戦場と同じ賞を与えよう」
進撃の太鼓をうつと、たちまち人があつまって長江の水にもとびこんで消火活動した
王に恩賞が約束されたからである

「もうよかろう」進撃の太鼓をうつと、越人は呉にせめこんだ

越人がが可愛い気がする
0429名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/11(木) 01:20:56.59ID:c7/v+mNm0
>>428
蟷螂に敬意を表した斉の荘公が涙目になりそうかなとも思ったけど
あんな君主でも臣下は結構な人数が救出しようとして崔杼の家に突入して死んだんだよな
0430名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/11(木) 01:24:44.98ID:6U2kWRYC0
主君がいなくなると落ちぶれるからね
それに崔杼は君主の地位を譲って崔の地に行った長男の子孫だから
実はある意味斉の公族で最も嫡流とも言える
0431名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/11(木) 02:42:07.47ID:nLELvT610
越が呉に勝った後、楚に申し送った「ともに軍をおこし、晋を攻めようではないか?越と楚の連合軍であれば勝利は疑いない」
楚王は「どうしたらよいのじゃ」

左史がいった「これは気違い沙汰です。呉は大国、これをうちやぶったとはいえ、越の大甲(装甲兵、鎧をつけた騎士)は深く傷ついたはず
さらにこれから超大国の晋をせめようなど・・」
楚王「ムムム確かにおかしい」
左史「越の内情はぼろぼろ、越王は我らを騙そうとしてます、これは絶好のチャンス、このさい楚は軍を起こして呉を横取りいたします」
楚王は「善し」といった。
楚軍が呉にせめこむと越王は激怒して反撃を命じたが大夫の文種はとめた

文種「王の親衛隊はぼろぼろです。戦はやめましょう。楚王にまいないを贈ります」越は賄賂として五百里の北の土地を楚に割譲した

楚は西方だけに秦ほどではないがずる賢い、越人は単純な感じ
そのへんが楚漢戦争でも様子見した荊州人だろうか。陳勝項羽の兵は越人や呉人ばかりで
0432名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/11(木) 05:11:58.88ID:P84SQFTc0
>>430
君主個人に贔屓されまくって、世間からたっぷり恨み買ってるような場合は、君主が死んだら終わりやからなぁ
宰相格、領邑多数という最強レベルの力を保有していた筈の商鞅でさえ、主が死んだら権勢は失せ、挙兵も失敗、車裂きの運命…
0433名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/11(木) 11:27:56.31ID:cnXXmndY0
>>422
中国史ではそーゆーのは安全策だけど、日本史では許してもらった恩も忘れて殺しにくるからね
頼朝とか義経とか
0434名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/11(木) 14:44:40.32ID:d0f+kCkq0
>>432
呉起「せやな」
0435名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/12(金) 15:02:09.17ID:D8pJGlX90
>>434
あんたさん三国志の人物でなくて良かったなあ
中原の覇者では名前全部カタカナやったんやで
0436名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/13(土) 21:35:48.12ID:GhdvTbMJ0
>>432
下っ端迄処刑はしないこともあるけど
少なくとも出世の見込みはなくなるからね
0437名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/13(土) 23:23:13.87ID:KPBn9mXm0
鴻門の会のあとで張良が上書して項羽に大王様、范増に大将軍様とかいてるから、この時点では
范増が上将軍なのね、老人だし丞相や録尚書事という役柄だと思うけど楚の旧制度は高官は将軍職ばかりなの
0438名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/13(土) 23:45:30.02ID:GhdvTbMJ0
大将軍とか上将軍とか韓信とか他の人も両方書かれたりして正確な官職名はどうなんだか
0439名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/13(土) 23:49:37.90ID:KPBn9mXm0
大将軍が楚では上将軍らしいね。張良は韓風で大将軍としたのかも
漢では大将軍は外戚で三公のうえというオチになるが韓ではどうなのやら
0440名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/14(日) 02:27:19.28ID:5e8T9ulb0
当時の中華での主流名は大将軍なのか上将軍なのか
横光の韓信は元帥と呼ばれてたが
0441名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/14(日) 17:56:45.38ID:iuE3ZAfR0
張良は楚王景駒に従おうとして留に赴いたが、劉邦と出会い、劉邦に従うことに決めたため、景駒と会見することはなかった
韓の五代宰相だして300人の奴僕を使う貴族が、なんで楚王でなく農民に従うんだろう

あとで劉邦の後継問題のときに大将軍呂沢はこういうときに張良を使えと呂雉にすすめ「この問題は私が言うより」と
高名な4人の隠者を礼を尽くして車で招いたそうだ、
韓宰相と呂家に古いつながりがあって、その呂家勢力を利用しようと張良は思いついたのだろうか
0442名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/14(日) 18:31:02.92ID:GLRgE89b0
>>441
生まれて初めて自分の意見を聞いてくれたからですよ
0443名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/14(日) 18:40:50.26ID:iuE3ZAfR0
さらに項羽はは范増の進言で韓王を処刑した結果、韓の民のうらみを買って劉邦につける結果に。
0444名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/14(日) 20:17:39.97ID:GLRgE89b0
>>441
呂不韋は張良と同じ韓国人らしい
衛国人説もあるけど
0445名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/14(日) 20:20:27.89ID:GLRgE89b0
というか実は李斯の同僚の右丞相と将軍も韓の人間なんだよな
元上党大夫の親族だか子孫って
なんか実は秦って韓に乗っ取られてるんじゃ
0446名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/14(日) 21:13:21.16ID:Ftbd36Fm0
毎度思うが張良の人物像が全然見えてこないんだよなあ
私財はたいて暗殺企てるわ参謀役として献策は悉く用いられず親分肌で兵隊率いると糞雑魚い
ほんとに実在してたのかなあ
0447名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/14(日) 21:28:01.88ID:Y/S+I/ti0
それでいて婦人のような見た目
どんな奴やねん張良
0448名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/14(日) 21:32:49.90ID:GLRgE89b0
だけど劉邦より年上で項伯より年下だから結構年いっている
また若くて官職に就いていないとあるが国が亡びる25年前に父志望
ついでに弟の葬式も出さなかったということから若くて滅亡時25歳
恐らく30前後
中国は貴族だと30で結婚していなくて40でようやく親の後を継いだりする
君主は10歳ぐらいで結婚させるのだが
0449名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/14(日) 21:34:07.07ID:GLRgE89b0
でも陳平をいさめた張良の次男とかいたりで
地味に張良に子供がいるのがショックだった
0450名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/15(月) 01:24:27.08ID:pByeDTJE0
よし、張良女の子説でいってみよ!
0451名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/15(月) 02:24:14.73ID:ThXbmALF0
>>441
五代宰相出して300人の奴僕を使う貴族とな
寡聞にして知らない詳しい情報だけどマジか?

>>445
乗っ取られているは大袈裟としても
一族で高位高官を占める例が目立つというのは、始皇帝の政治を考える上で非常に重要なことだと思う
0452名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/15(月) 12:45:45.26ID:UEHI/bqT0
>>449

わしが張子房の次男の張つるぺた房である!
0453名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/15(月) 16:01:33.17ID:+EZ1B/do0
韓は秦に貢物を贈り、労役を提供していて
これは滅びているのと同然と言われているが
貢物をはっきり言えば、韓は秦に納税しているのと同じということになる
秦の政府の命令に従い、穀物や金銭を支払い、労役も行う
もう実質秦の領土になっているのと同様
0454名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/15(月) 17:20:22.28ID:ybbWnh5i0
>>444
ウェーハハハッ!
0455名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/15(月) 18:11:01.76ID:hkIVyaXn0
>>450
亡国の貴族で天才的な頭脳を持つ美熟女とか
色々と盛り過ぎだろ
0456名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/16(火) 17:29:26.55ID:G6xrwR2g0
もしかして、男だって明記されてないかも
まあ実は関羽も女の名前だし、男とは多分書かれていない
0457名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/16(火) 17:57:32.54ID:0SQGJ7hV0
髭が魅力の女の子
0458名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/16(火) 18:16:51.82ID:6H7S29AA0
韓はもとは鄭という国で、鄭姫といって美女が多く、さらに鄭声といってみだらな音楽をとくいとした
鄭は宣王の同母弟が伯爵として封じられ、西周滅亡のあと東周では卿士として他国を滅ぼしたり
睨みを効かせた強国でもあったが洛陽の南にあることで文化は発展した

韓氏は、晋の公族で、韓原に食邑をもらった。六卿でも名門だが貧乏でしられる。
この当時は晋は貧乏国であったので韓原(陝西省)ははるか西のまずしい土地で、郤氏など
東のほうに領地をもち威勢をほこった。そのためびんぼうな韓氏は鄭の攻略を担当する

韓をほろぼし秦が置いたのが潁川郡で、後漢末の魏晋では潁川貴族の門閥が高官を占めた
中国でもとりわけ人口が多く文化が進んでる先進地帯で、その経済力でのしあがった

張良は劉邦の軍の援助で、二十城あまりを回復して韓を再興してるから斉七十城にくらべると
戦国最弱にふさわしく小さい国であったようだが、洛陽の周辺だから経済力はとてつもなく大きかったはず
0459名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/16(火) 18:41:36.73ID:6H7S29AA0
鄭国も楚と晋という大国で挟み撃ちにされて攻められて、そのたびに降伏して「正義などない」というほどたいへん苦しい位置だ
しかも当時、覇権国にたいして小国は「幣」といって上納金を収めなければならなかった
日本国民がアメリカと中国に税金を収めなければならないわけで、そのあいだに中抜き貴族が居座り、これでは民もやるきがなくなる
こんな国は早く滅んでしまえというのが民意でもちろん政治もやりにくい。
韓もそんな立場で、張良も人はあつまらず百人の兵士しかいなかったため、楚軍に頼らざる得なかった
0460名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/16(火) 18:43:25.42ID:G6xrwR2g0
韓は元の鄭を滅ぼしそこに遷都し、最後はそこだけの領土になった
晋の六卿唯一の公族だが
献公も桓叔・荘伯の族を族滅した時でさえ韓氏は対象外だった
韓は兵が強いと言われていたらしい
歴史ブログで三晋最弱は韓でなく趙だと書いている人がいた
自分は三晋の最大勢力が趙だと思っていたんだけど魏が晋最大だったのは事実っぽい
0461名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/16(火) 18:56:26.96ID:w9cV6A9N0
みんなスゲー詳しいな
やっぱこういう人がいてるから専門板は最高だわ
0462名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/16(火) 19:34:46.78ID:PYoShVSq0
まとめサイトの養分になるかと思うと複雑だろうな
0463名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/16(火) 21:34:07.05ID:6FKDmgbc0
魏韓趙の強さはその時期によって全然違うからな
武侯、文侯の頃は魏が
武霊王、恵文王の頃は趙が
それぞれトップだろう
韓が三国のトップになった事はないんじゃない?
0464名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/17(水) 01:44:04.84ID:GSCGgTXv0
当時の戦車は3人乗りで御者がおり、主君は弓を射た。鉞をもち、主人をまもる3人めが車右で第一の勇者だった
魏氏は、晋公の車右として魏邑を拝領することになったが、歩兵をたくみに運用して山岳で夷狄をうち、勇名を高めた

晋公の御者だった趙氏は食邑をもらい(劉邦の御者夏侯嬰の位にあたる)趙衰は文公の義兄となり、公族に準じた
趙氏は一族皆殺しなどの危機を乗り越えて再興したので家風として、温和な風貌をもち、一歩退く姿勢をとった
また一度滅んだ趙武をかくまい再興を願い出て景公のゆるしをえたのが韓氏で
このような三国関係のためいわば紳士協定として兄弟国、互いに助け合うたてまえだったようだ
0465名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/17(水) 07:03:27.38ID:baSOK0sM0
三軍(中軍・上軍・下軍)の将・佐を卿と呼んだ

序列は
1位 将中軍・正卿(せいけい)
2位 佐中軍・次卿
3位 将上軍
4位 佐上軍
5位 将下軍
6位 佐下軍

智氏が魏氏と韓氏を引き連れて趙氏を攻めたが
魏氏と韓氏が裏切って智氏が滅び晋を事実じょう3分割した

ただし、周から諸侯と認められた後も(名目上の君臣でさえなくなったという)
魏文侯・武侯は晋の正卿であり、形式的にはまだ晋公を君主扱いしていた
0466名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/17(水) 15:44:44.35ID:GSCGgTXv0
項羽は秦をやぶると張耳を常山王にした。また関中入りに従わなかったが陳余も賢明と聞いて南皮3県を封じて候とした
陳余は項羽が六王を僻地に追いやったと憤り、張耳をせめ、代から趙王むかえて宰相となった

張耳は、「わしは劉邦と親しいが王に立ててくれたのは項羽であるから楚にいこう」といったが部下が「秦に星が集まってる」と予言し
秦つまり漢王が興ると予言したため張耳は劉邦について手厚く遇された

張敖は呂后の娘をもらい趙王になった
高祖が娘婿の趙王にうやうやしく饗応されても態度が悪くテーブルに足をなげだし罵った。これをみた趙の宰相は激怒した
「趙王のため劉邦を殺したい」
「なにを、思い違いしてるのか。わしが王位についたのは帝力の賜物である。どうか二度と口にしないでほしい」

宰相貫高はいった「なるほど我らは間違った。趙王は徳義に厚いお方。しかしこのはずかしめ、怨みはらさずにおれようか
王にはだまって劉邦を殺そう。うまくいけばよし、失敗しても責はわしがうける」

趙人はめんどくさいー
0467名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/17(水) 16:18:59.37ID:e3H9iYmx0
>>463
残念ながら韓が魏や趙を凌いで三晋随一の威勢を誇ってた時代は贔屓目にみても
ないといった方が正解ではないかと思う

戦国韓でおそらく最高の名君であろう昭侯(前359−333)の時代は
趙の粛侯(前353ー325)、魏の恵王(前371ー319)、秦の孝侯(前364ー338)の時代と
概ね重なる
昭侯が申不害を(前351)宰相に起用して君主の威権を強化させ、俗に言うところの
「内は政治と教育を治め外は諸侯と応接すること15年の間、申不害が死ぬまで
国は治まり韓を侵すものがなかった」
とあるもののこの時代は魏が斉、秦、趙と戦争に明け暮れている時代と被る

韓は韓でそれまで折々魏に攻められる事が少なくなかったところへ秦に参朝する
昭侯の即位した年に秦では商鞅の第一次変法が施行されて強国化への端緒についた頃
魏はこの時代、秦には安邑を落とされ、斉に馬陵で敗れ、秦に岸門で敗れて西河を失陥して
大梁遷都に至る
秦の韓への圧迫が強まるのも西河を魏が失った以降に顕著になる
それまで韓に矛先が向いていなかった秦も申不害の死後に宜陽を攻める

韓は主体性が薄く、主導して起こした大戦も皆無に近く、強国に付随するか援助を請うのが
常といってもいい観はある
これは次代の宣恵王以降よりそうなるが
0468名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/17(水) 17:56:30.48ID:QvmUvIJS0
魏の大梁遷都は安邑や河西の失陥、馬陵や岸門の敗戦の前やで
0469名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/17(水) 18:17:58.87ID:e3H9iYmx0
うん竹書紀年あたるとやっぱ前になるんだよなー
0470名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/17(水) 18:34:25.94ID:zFH3glQw0
韓信は戦国時代の韓と何か関係があるんだろうか
淮陰出身だから楚人だが
0471名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/17(水) 19:41:05.16ID:QvmUvIJS0
それなりに韓と近いし移民流民大発生しててもおかしくない時期なので元は韓に縁があっても不思議ではないわね

>>469
史記が間違っているとは限らないけど史記でも魏の大梁方面への進出が認められる上に趙も韓も東進傾向なので状況証拠的には竹書紀年説優勢感
0472名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/17(水) 21:08:23.13ID:baSOK0sM0
>>470
燕とか朝鮮の方に韓があったらしいし
そこから南に逃げたとかかな?
また劉邦達も魏人意識だったらしいし(その前は宋の領土だけど)
晋から逃げて来たのかもしれん
0473名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/18(木) 08:33:30.65ID:G6D7+GWF0
魏が商鞅と孫臏を追い出したり酷い目に合わせなくて才能を活用していれば魏が天下統一してたんだろうな
他にも范雎を濡れ衣で酷い目に合わせて逃亡されるあたり色々とミスが多すぎる
秦が天下統一出来たのは商鞅殺したり白起を自殺させたりミスを犯したものの
改革させた法を変えなかったり別の人材見つけたからなんだよな
項羽が劉邦に負けたのも人事上のミスとか報奨ケチったりして人を大事にする事を項梁が生きていて教えていれば楚が数百年は保つ王朝が作れたのであろうか?
0474名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/18(木) 12:12:54.69ID:3OWS/wYs0
中央って難しくね?秦と斉に挟まれる地理上の欠点は如何ともしがたいように思う、周王朝
そもそも旧三晋を纏める事出来なかった奴らに中華統一は難しいんじゃないか
0475名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/18(木) 17:24:05.88ID:yoVXKC380
同じような事例があるにも拘らず結果が違うのであれば人材以外の原因を探した方が良い気もしますね、あと多分おそらく商鞅は追い出してない

それにこういうのはなんとでも言える
孫臏来ても斉は楚に負けるし、范雎がいても邯鄲で大敗するし白起は死ぬ

…人材を思い浮かべてて思ったんだが、魏に来た名のある人物も少なくないな(犀首、恵施、甘茂、孟卯、孟嘗君等)資料格差を考慮すれば秦に引けをとらないと言えるかもしれない
0476名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/18(木) 18:13:03.00ID:zgVI4or70
やっぱり函谷関じゃねえかな…
あれがあった上で改革に成功して統一できた
0477名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/18(木) 18:31:54.26ID:roayOVNB0
後発の元僻地が外国人を登用しまくって天下統一は面白いな
0478名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/18(木) 19:18:51.55ID:tbsPb7ca0
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/86/Shudao.png
函谷関はキングダムやコーエーゲームでは絶対視されるが、渭水盆地はあちこちから入れるのだ
0479名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/18(木) 19:48:11.45ID:yoVXKC380
相対的な問題やからなあ
たとえ函谷関が張子の虎でも黄河の川上に陣取る秦は攻め易く攻められにくく相当有利なはず

一応天下を取った西周はもちろん、春秋秦や戦国前期の秦でさえも時々中原方面に突出することがあり立地の優位性を感じる
0480名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/18(木) 20:00:14.97ID:cMZ1Ql3L0
函谷関は周文が落とすまではマジで難攻不落だったからねぇ
周文はもっと評価されて良いかもしれない
0481名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/18(木) 20:31:54.61ID:tbsPb7ca0
五カ国連合軍にもやぶられて長安の近くまで布陣してる
そのあいだの関中の東半分は趙軍などに蹂躙され、まんがのように住民は全部逃げるわけにはいかないから
大量虐殺もあったんじゃないかな
0482名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/18(木) 20:39:04.23ID:tbsPb7ca0
五カ国連合軍が戦ってるそのあいだ斉は秦に味方しました!てってしょうもない国だな王建様はぁー斉王は暗愚なの?
0483名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/18(木) 21:22:12.43ID:rsrtt+j+0
斉はいつもいらんことしてるイメージ
0484名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/18(木) 21:35:48.32ID:tbsPb7ca0
最後の魏王は大梁から豊邑の県城にうつされて死んだらしい。
皇居から群馬県庁にとばされたイメージ。秦もまさかそこから天下人が出るとは予想しなかったろうが
豊は魏に同情したらしく劉邦も信陵君ファンだった。義のために趙を救ったのが萌えポイント
0485名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/19(金) 03:21:20.62ID:iiHq/Vpk0
項梁は韓にまだ王がなく横陽君をたて韓王とした。項梁が戦死すると韓王成は懐王のもとに逃げた
韓王信は韓の襄王の妾腹の孫に当たり身長は8尺5寸の大男だった。張良は韓王信を手に入れてこれを将軍とした

沛公は陽城を撃ち張良を韓の大司徒としてつかわし韓の地を攻略させたが、韓王信は将軍としてよくはたらきその将兵は
武関から関中にはいった。劉邦が漢王になると韓王信は漢中までつきしたがい、説いた
「項羽が諸王に封じ大王がここにおられる。これは左遷であります(左遷の語源)士卒は東のもの、皆、韓に帰りたがっております
時を外さず行動に出れば天下は大王の手にはいります」
劉邦は秦を平定すると韓王信を韓王にすると約束したが、とりえあず大尉としてつかわし韓の地を攻略させた

項羽は韓王成が入関に従わず、また格別なる功労もないとして殺した。かれは呉県の県令鄭昌を韓王昌に封じた

いくらやくたたずの王族が嫌いとはいえなんともハードな処置
韓の民は怒り、韓王信は十城あまりを平定して韓王昌を吸収して降伏させた
0486名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/19(金) 19:31:24.92ID:KyEvL8aB0
>>484
劉邦が生まれた豊に魏王が来たの?
0487名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/19(金) 21:18:05.20ID:KkAUrZG10
そうなるね
0488名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/20(土) 01:15:28.27ID:3UsmCfvJ0
張良は述懐していう「わしは5代の韓の宰相の家にうまれ韓の仇を討つため強大な秦をたおした
私財を吝まず万斤の黄金を費やして天下を震わせた
いま帝王の師となり万戸候になり、列侯につらなる。これは庶民の極みであり良としても満足だ」
0489名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/20(土) 08:08:16.55ID:758bZaI70
張良は途中から韓王室復興のために動いてるように見えんね
0490名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/20(土) 12:09:00.23ID:zI0aCA8r0
義帝殺しといい劉邦にプラスになる悪手がやたら多いよね項羽さん
0491名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/20(土) 16:44:54.09ID:powFRVzY0
>>490
実は義弟殺しを促したのが留候、だとしたら策士としての評価が爆上げだな
人間的評価は大幅に下がるが
0492名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/20(土) 17:02:56.34ID:BCd7h0DG0
そうだとしても「さすが張良」で変わらないかなぁ
0493名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/20(土) 17:11:49.32ID:uKdB/79/0
>>490
項羽「劉邦はワシが育てた」
0494名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/20(土) 17:43:22.24ID:xtR0iCt70
本質的には陳平より張良の方が過激
0495名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/20(土) 21:04:40.51ID:x9nsqlG40
張良は始皇帝を暗殺未遂したり、行動原理が立身出世や後世に名を残すことではないからな。
ただひたすら純粋に復讐。
0496名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/20(土) 22:59:58.71ID:5QcVNSXy0
思えば張良が保身したのは最後だけだな
0497名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/21(日) 00:28:27.56ID:GZ2mnCXT0
劉邦の臣下であって漢の臣下じゃない
陳平の真逆
0498名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/21(日) 01:55:56.44ID:/YfC4ZJI0
韓王信が匈奴に亡命したことを張良はどう思ったのだろうか
0499名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/21(日) 03:21:01.07ID:tqusk84x0
貫高ら十数人は張敖の忠義立てとして劉邦暗殺もくろみ、暗殺者を二重の壁に隠したが、貫高をつけ狙う怨家に密告されてつかまった
調べをおそれて趙午ら十数人は争うて自害した。

貫高はひとり生き残って囚人車の檻で罵った「公らのために、陰謀にくみしたのに、いま趙王は何も知らず陰謀にくわわってないのに捕まり、
みなが死んで王の無実をたてるのは誰なのか」こうして長安に到着すると、廷尉に高はこたえた「王はなにもしりません」
激怒し鞭打つこと数千、鉄針で刺し、焼き焦がしたが高は答えなかった
呂后は、可愛い婿の趙王がそうした陰謀に加わることはないと説いたが、劉邦は激怒した「もし張敖に天下をとらせたら女など事欠くことはないわ!」

廷尉が上申すると劉邦はいった「高は壮士であるわい」「誰か高と旧知のものはいないか。趙王のこと、士の情をもって聞き出すようにせよ!」
大夫泄公がいった「わたくしめがききましょう。かれはまことに趙国の名分を立てる人物であります」

大夫は割符をもち、竹の輿で貫高と語らった。そして詳しい事情を聞き、つぶさに主上に報告した
主上はこれをゆるし、泄公をやって「張敖さまはすでに釈放され皇帝はあなたも赦免されました」といわせた


貫高「わたしがいきていたのはすべて王の無罪をたてるため!人臣として弑逆の大罪をおかしたからには何の面目があって主上にお仕えできましょう。」
と自害して果てた
0500名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/21(日) 03:31:13.67ID:tqusk84x0
張良が秦・始皇帝の暗殺をくわだてたとしても、貫高が劉邦暗殺をくわだてたとしても、やり方はおなじだが
これでは失敗するというか、もっと確実なやり方がある

始皇帝の鉄槌が失敗したとしてもよい。行動に移すのが大切なのだ
何もしなければ「あなたは韓の宰相の子だそうだが、いったい恩義にむくいる気はあるのか」と世間に指さされないまでも
張良としては義のもってゆきどころがない
この時代は主人の仇に報いるのが国士であって、無名の市井の若者でも国士たらんとした
国士として韓の恩にむくいるのが張良の身のたてかたであった
0501名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/21(日) 07:27:47.62ID:IHQMIbFm0
ノブレス・オブリージュ的な責任の取りかたということかね
現代権力者に足りない思考
0502名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/21(日) 09:32:49.48ID:jZIOQgMx0
メンツの問題か
0503名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/21(日) 10:40:08.78ID:VOtApZdo0
>>501
地位の高低は関係ない
上から下まで通じてた当時の常識みたいなもの
0504名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/21(日) 12:40:12.14ID:0o+sHHw30
>>501
現代権力者は貴族じゃないから当たり前
0505名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/21(日) 13:35:49.06ID:RxybVYZA0
漢や呂雉から逃げ出したヘタレ
侠者の片隅にも置けない
0506名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/21(日) 13:48:57.66ID:VfX1Wqc50
復讐も王佐も果たしたんだから十分だ
あとは後の世代に任せるだけ
0507名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/21(日) 16:37:57.17ID:cyATOo3y0
トータルでは陳平にかなり劣るイメージ
鴻門以外での献策がもっと伝わっていればな
帷幕の秘事ウヒヒヒヒ
0508名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/21(日) 17:30:35.44ID:tqusk84x0
張良は司徒として韓で戦ったときはいくさが下手で秦兵に手を焼きそこへ劉邦がきたので安心して付き従った
そこでいったん手薄で人口の多い南を攻略して宛城を陥落させはるか南方の武関にむかった
このころには章邯・王離率いる秦の主力軍は鉅鹿で項羽にやぶれていたので秦の命運はもうおわっていたが
韓にちかい東の函谷関をさけたのも秦の軍隊が多く韓兵が弱かったこともありそう
函谷関で逆襲され韓を取り返されたら、項羽の性格からして眉をよせて張良を斬っただろう
0509名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/21(日) 17:38:16.17ID:VfX1Wqc50
裏方での功績は蕭何>張良>陳平な印象
加入順そのまま
劉邦は陳平がいなくても王になれてるし、張良がいなくても公になってるからね
0510名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/21(日) 18:14:21.18ID:fE/tuIuy0
>>508
宛の南に武関あるの?地理的に楚の国土になるけど?
0511名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/21(日) 18:21:56.43ID:cyATOo3y0
建国の功臣って意味じゃ陳平が逆立ちしても張良に敵わんよそりゃ
ただ漢王朝の功臣としてなら比肩できる人物が見当たらない
0512名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/21(日) 18:43:54.14ID:tqusk84x0
洛陽から南下すると宛、楚の宛城から西に北上する街道上に西安がある。距離的には大阪から東京くらいかな
0513名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/21(日) 18:55:26.68ID:LdP7Na640
陳平の活躍は劉邦が既に王として立場を固めたあとだから漢の功臣として見ても他の上位陣に敵わん
新参として入って、トータルで古参に勝ったのなんてそれこそ韓信だけよ
0514名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/21(日) 19:05:49.14ID:Ns/Q1EnA0
普通に考えて寄せ集めの劉邦軍があの秦の函谷関を抜けるわけもなく
また宛城から容易に関中を突けるなら楚がとっくに秦亡ぼしてる
無理難題だから
懐王は関中にはいれたら王にすると破格の恩賞で釣った
0515名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/21(日) 19:56:07.96ID:lODbPbZp0
みんな寿命粛清日和見で消える中陳平いなかったら漢なんて物は無かったんじゃないのか
建国と守成を勘違いしてないか
0516名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/21(日) 20:07:10.04ID:kWcEeRQm0
陳平の義がわからない
魏人だしさいしょは魏王に仕えたい、みたいな考えだったはずだが
0517名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/21(日) 20:20:26.19ID:tOQdwNqA0
>>512
だからはるか南方の武関ておかしいと思わん?
0518名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/21(日) 20:50:46.36ID:/19a9T1J0
函谷関からしたら武関に迂回するのは
はるか南方を目指すことになる
0519名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/21(日) 21:03:52.49ID:MjRk+jHG0
仮にそうだとしても、その功績だけで三傑の圧倒的な劉邦への貢献に勝るとするのは贔屓がすぎるよ
まず呂氏が漢の滅亡を狙ってたかどうか
これが判然としないので仮定からして無理があるが
0520名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/21(日) 21:14:13.92ID:9KzmrAPh0
司馬遷は漢の宮刑受けたから高祖の妻はろくなもんじゃないという曲筆があったろうな
0521名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/21(日) 21:53:28.26ID:U/cIDdiR0
司馬遷からすれば孔子も筆誅してたし俺もやって良いよね位は思っていそう
0522名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/21(日) 23:33:04.20ID:e4B+3ftN0
書の編纂には自分の思想を後世に伝える意味もあるし
わりとノリノリで筆誅してたと思う
0523名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/22(月) 00:25:24.52ID:dHnTHzlm0
>520
呂太后本紀を立てて君主の妻というより国の支配者扱いなんだから
むしろ敬意を表してると思うわ
0524名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/22(月) 00:45:27.10ID:b7aBzp5B0
項羽の和議を反故にして追撃を勧めたのは張良の功績とされるが
項羽を騙した平国公は
国を亡ぼして列候になるとは図々しいと噂されて出奔する羽目になった、気の毒な一人
0525名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/22(月) 00:54:27.29ID:Fd8jz8qN0
呂后はまだしも呂一族としては全面的に功績カットされてると感じる
王になった三人とかいくらなんでもぽっと出過ぎて王位に就かせるだけの説得力が無さ過ぎる
0526名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/22(月) 01:22:12.84ID:3MBBu4Uw0
斉に派遣した軍の総大将は漢王の義兄である呂沢が位置的に相応しいが。。
たぶん呂氏の手柄が韓信曹参ハンカイあたりにぜんぶつけかえられてると想像
呂氏の功績バレたら後でクーデターした元老はキチガイになっちゃう
0527名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/22(月) 02:06:46.11ID:qthRhC/b0
>>524
挙げ句ドラマでは存在すら消されるという
0528名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/22(月) 07:45:45.25ID:IiFVVK9F0
>>526
司馬遷は樊噲の子孫と友人だったからそれもありかもな
樊噲の事はその友人から聞いた逸話も列伝に入れたと言ってるし
0529名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/22(月) 07:49:02.90ID:sQef7LSz0
>>457
ドワーフかよ
0530名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/22(月) 13:04:07.11ID:7sHf1wy20
>>516
多分義はない
用いられるかと保身が出来るかを軸に世渡りしてたら漢に行き着いた
0531名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/22(月) 13:22:55.91ID:fFV4sleX0
義なぞぶん投げて欲深い有能を集めれば勝てる。その生き証人がチンペーさん。
0532名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/22(月) 13:32:36.17ID:Ul/zrRfg0
悪名は無名に勝る!
0533名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/22(月) 15:32:04.42ID:N9ebrVRk0
>>531
韓信と陳平はある意味劉邦軍の象徴だよね
0534名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/22(月) 15:47:43.46ID:fxkiFdQI0
>>528
警備兵が鴻門の会に乱入したのはうそくさい話で義兄の呂氏が項羽に酒でもついで機嫌とったのが本当かも
陳平も楚の卿だからこの席でいた可能性があるんだよな
0535名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/22(月) 15:52:15.06ID:JNldtqWe0
自分を厚遇してくれた劉邦に対しては
陳平兄さんも忠義の気持ちあったと思うよ
豫譲みたいな感じで

足踏んづけてもイチチで済ましてくれる君主なんて
そうはいない
あの慎重で何事もそつのない陳平が
足を踏んづけられる相手
そこまで互いに心が通じてるってのも
なかなかいないだろう

ほんとに踏んだか知らんけど
0536名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/22(月) 16:06:21.99ID:Hr4q+1f60
項羽ならば即首チョンパだろうな
劉邦の場合は少し冷静になって普段そういうことしなさそうなコイツがここまでしたのには理由がありそうと考えそうだからな
0537名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/22(月) 17:15:01.15ID:2noNzQaZ0
>>534
ローマ教皇の説得でフン族だかが引き返したってのも
本当ならどんな説得をしたか言わないのは疑問だし
きっと何らかの贈り物か何かを贈ったか
徐州の曹操の時みたいに本国に何かあって引き返すために和睦しただけか
0538名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/22(月) 17:16:30.87ID:2noNzQaZ0
>>535
歴史を見ても現実を見ても
世の中に見る目のない人はほとんどいなく天才を理解してくれるだけで凄いことだからね
0539名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/22(月) 17:17:50.48ID:2noNzQaZ0
>>524
秦の将軍と和睦して油断させて攻撃とか
実は張良が得意なのは騙し討ちなんだよね
世間の諸侯が受け入れなかったのにこういうのもあるかもしれない
部下を身代わりにして逃げましょうとかもあるし
0540名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/22(月) 17:18:59.07ID:2noNzQaZ0
>>500
確実なやり方はないんじゃね?
近づくのも難しいだろうし
0541名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/22(月) 18:35:32.40ID:fxkiFdQI0
張良はつねに劉邦のそばにいて、貴族だけに話題豊富なのもあるだろうし気分もよかったのだろう
宴席の座興としてサイコロ賭博このむから張良はそんな相手もしてたかもね。景帝は六博を投げて呉の世子を殺してる
このばあいは人を勝てせて機嫌を取る遊びだが、呉の世子の家来は楚人で剽悍で限度しらずに口論となった
楚人ばかりの項羽のあいては難しそう
0542名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/23(火) 15:22:28.45ID:GmWu9WqR0
張良は善良扱いさせるけど秦や楚を騙して攻めることに罪悪感すら感じていないし
暗殺という手段を普通に取るし弟の葬式の費用も惜しんだから
本来悪く思われても仕方がないはずなのに大人気

劉邦も張耳は元主人だし、元王だから趙王にしたんだろうし
韓信も仕方なくだろうから

家臣の功績第一位と本来考えていたのは斉の三万戸を与えるから
好きな場所を言えだった張良
更に功臣席次と食邑はずれているし最も食邑の多い者でも一万千戸ない
項羽も周可に上将軍と三万戸で説得しているから
これは恐らく褒章として与えられる最高峰なんだと思う
0543名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/23(火) 19:04:34.30ID:RXDy4VK/0
擁歯って諸侯にして貰えたけど
その家は何代か持ったんだろうか?
劉邦が許しても呂雉が許してくれるかどうか・・・
0544名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/23(火) 20:15:56.92ID:HLiyQb9f0
雍歯を初代と考えて四代目の時に酎金を怠った罪で爵位を没収されたらしい
ついでに言うと三国時代に子孫の雍闓が蜀漢に反乱を起こして最後は裏切りにあい死亡

初代が高祖に反逆したのに許されて
その末裔が高祖の子孫に反逆して死亡ってのが面白い
まるで先祖の罪が子孫に返ってきたかのようだ
0545名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/23(火) 20:21:02.49ID:hRJw6jEL0
擁歯の領地は蜀の奥地だから劉邦の悪意しか感じられない。彭越も蜀流されそうになって泣いたというから左遷だね
0546名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/23(火) 21:00:44.34ID:UqrJgyZl0
張良や陳平の子孫も後に緊縮財政の影響もあってか爵位剥奪されているし
特別雍歯の子孫だったかって印象はないかな

領地は意図があっただろうが
0547名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/23(火) 21:03:19.15ID:QO3LdiE/0
>>544
お答え頂き感謝であります
まあ雍歯としては殺されなかっただけで感謝で僻地とはいえ領地も貰えたから
手酷い裏切した者にしてはまずまずの待遇でしょうな
例えそれが政治的な理由だったとしても
0548名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/23(火) 22:27:28.04ID:GmWu9WqR0
酎金に関しては、ほぼ全て、いや功臣全部駄目になっていたような
武帝の時期に
残っていたとしても前漢の長沙王みたいな忘れられた例外ぐらいだよ
衛が滅びたのは秦の二世皇帝の時だったように
0549名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/23(火) 22:30:38.75ID:hRJw6jEL0
劉邦が皇帝となると、韓王信は太原郡、現在の山西省太原市を韓と改名してそこに遷される。匈奴の隣だからひでえはなしだ
こいつも左遷。魏趙韓氏が智氏をほろぼした晋陽もこのあたりだからまったく縁がないとも言えないが
0550名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/24(水) 02:10:14.53ID:ZE3Uhuqo0
雍歯とがもらった土地は成都の北で長江文明の中心であったらしく三星堆文化の遺跡など出てくる
内部抗争で滅び、新たな勢力が盆地北部の成都に拠点を作る。これが「蜀」で巴蜀文字はインダス文字に類似し殷の甲骨文字と異なる。

長江文明の担い手は食人の習慣があり割られた猿の頭骨多数、嬰児の骨がまじってでている。最初の子は食べると子宝に恵まれるという
現在中国人は北人と南人に分かれるが、北人は南人をひどく恐れて江南に移住したがらない。食われるという

長江文明の王都は殷墟に匹敵し青銅器はしのぐ。住居は高床で母系社会。葛を使用する織物。断髪。稲作栽培。笛が大量に出土
稲作による豊穣で軍人や職人など食料生産に関与しない階層が登場。
銅鐸ににた青銅器を多数うめるなど弥生人との影響がうかがえる。春秋戦国の「楚」はこの長江文明の風習を引き継いでいる
0551名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/24(水) 09:02:24.56ID:drHATegr0
>>548
武帝期の酎金罰は運用が明け透けすぎて逆に機能してないよね
0552名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/24(水) 10:47:27.58ID:26hylY5x0
>>549
元々、韓は燕や朝鮮に近かったらしいし
それを晋の分家の曲沃の分家の韓万に韓の名を与えたんだろうし
0553名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/24(水) 12:10:56.58ID:0bDev/Le0
春秋の韓と戦国の韓は別物なんだってね
同じだと思ってたわ
0554名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/24(水) 22:03:18.46ID:26hylY5x0
>>549
>>550
侯の場合は長安居住が義務付けられて領地に行くこともできず
(そうなると周勃の話とか変になるけど)
税の上前を受け取るだけ
0555名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/25(木) 01:43:50.04ID:cZa2l/5N0
秦王「かつて韓は印璽を呈して藩臣たらんと乞い願った。これにより兵革はやむと願い、わしはゆるした。しかるに韓は背いた
趙は、宰相李牧をつかわし、質子をよこした。わしはゆるした。しかるに趙は背いた。魏王も服しながら韓趙魏とくんで無害のわしを襲おうとした
だから秦は兵をおこし王を虜にした
荊王も長沙以西を献じながら盟約に背いて秦を撃った。だから王を生け捕りにした
燕は昏迷し、太子丹は刺客とをおくった。燕をせめほろぼした。斉王も乱をなそうとしたので討った。わしは一介の渺々たる身で天下を平定した」

聖人じゃん。石にも大聖皇帝と刻んだらしいね
0556名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/25(木) 08:30:56.29ID:QL/rUanp0
「秦は虎狼の国」

六国や縦横家が秦をそう評するのがよくわかる
0557名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/25(木) 09:23:59.67ID:cZa2l/5N0
大梁の魏人尉繚がきて説いた
「秦にくらべて六国の力はまるで微弱、しかし諸侯の力を合わせ不意打ちすれば油断できない。晋の智伯、呉の夫差、斉のビン王が滅んだのもこのためで、
大王には財を惜しまれることもなく諸侯の豪臣にわいろをおくり費やすところはわずか30万金ですべてに行き渡ります」
これをきいて秦王は尉繚の計をうやまい自分と同じ礼をもって遇することにして衣服や飲食も対等にした

尉繚は「秦王は人となり鼻が鋭くたかく目が鋭く鷹のように胸は突き出て豺狼のような声を出し残忍で虎狼のような心をもつ
困窮すれば人にいくらでも低く出る、得意なときには平気で人を食う。わしのような卑賤のものに王はへりくだってる
もし秦王に天下を取られたら民は悲惨なくらしになろう。このような恐ろしい人にながくは付き合いきれない」と逃げだしたが秦王は捕らえろと命じた

この話が好き。
0558名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/25(木) 09:30:57.97ID:SiboPZgc0
最近楚漢戦争について勉強したんだけどこの戦い最終的に虞美人の取り合い戦争だよな
0559名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/25(木) 10:08:53.93ID:URTK6QlD0
三国志も貂蝉の話だしな
0560名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/25(木) 10:27:06.27ID:L7rjl07U0
>>557
>秦王は尉繚の計をうやまい自分と同じ礼をもって遇することにして衣服や飲食も対等にした

>秦王は捕らえろと命じた

即効本性現してて笑う
0561名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/25(木) 12:28:48.06ID:G7yXMpZo0
>>558
なんでだよ!!どう読んだらそうなるんだよ!!項羽ともう一人は誰が虞美人を取り合ってるんだよ!!
0562名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/25(木) 12:35:21.87ID:CyiE6wNN0
本宮ひろ志の赤龍王でも読んだんじゃないか?
0563名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/25(木) 12:37:36.67ID:oM5Ps66L0
>>561
劉邦にきまってる
本宮ひろしの赤龍王で読んだから間違いない

…あれって元ネタあるのかね
0564名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/25(木) 13:26:37.40ID:MTgLUMNr0
赤龍王は陳平が出てこないのがな。陳平どころか登場人物が少なすぎる。張良と韓信だけで天下統一したようなもの。
0565名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/25(木) 13:33:03.63ID:5zq8x5Tl0
完結しただけマシ(天地を喰らう感)
0566名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/25(木) 14:22:37.07ID:EUmJ9P4Z0
留侯世家異伝は初期の劉邦陣営をよく描いてるが絵がね…
0567名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/25(木) 16:50:45.75ID:SiboPZgc0
赤龍王読んだことないわ
0568名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/25(木) 17:14:49.41ID:oM5Ps66L0
いよいよ誰と取り合ったんだよ
0569名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/25(木) 18:52:43.69ID:MAC8h7t60
騅だろうなあ
0570名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/25(木) 20:56:43.25ID:cZa2l/5N0
秦は六国をほろぼし暴虐な六王は罪に服し、天下は一家と為り、泰平の世になった
三回の天下巡幸をおえ、秦王はその年は咸陽をでおとなしく休み、大きな土木建設もなく、戦争もなく
財政もゆたかで、朝廷もめずらしく民をおもいやり村落二里ごとに六石のモチアワを配布して2頭の羊も贈った。民衆はよろこんで大聖をたたえた。
次の年、秦王は咸陽のそばを四人の家来を連れて夜中に蘭池をながめるためお忍びで歩いた

蘭池は海を模してつくられ石の鯨などがあった。そこで多数の盗賊におそわれ4人の武士は賊を撃った。王は怒りがおさまらず関中の盗賊の大捜索を命じた
わしの愛情に関わらず、みやこに盗賊があふれるのは余計な人が多いからだと考え、人減らしのため翌年から匈奴のオルドス討伐軍をおくり対外戦争を始める
また贅婿(いらない婿、金持ちは婿を金で買うことが多かった。陳平のような人)を徴兵して南方の植民地に送った
のちに漢の平帝の世に博士は論じた「始皇帝がうらみをかったのは兵士のために寡婦1万5千を南方におくったことが一つ」

劉季のような農家の三男が世にあまっており、かれらは皇帝を「上」とよび、仕事がなくさけをのんで役人の無能をののしった
いっぽう無職の若者のあいだで皇太子は大人気で扶蘇は一説には楚人の女からうまれたといわれ、次の上になると期待がかけられる
このような民衆の報告は上げられ、皇帝も悪口に参り、わしの面子が潰れるといらいらしていた

王は官吏でも無用とされたものを懲罰してオルドスに兵士としておくる。御史の厳しい監察に公務員でも低成績ではうかうかできなくなった
0571名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/25(木) 21:39:58.67ID:AqXeSund0
北米のpcゲーム、プリンスオブチン秦太子で扶蘇は主役として闘う
中華系米人の題材だが庶民人気ある人物
ゲームでは趙高の魔手をのがれ項羽軍に参加して秦とたたかうが
正体をしり項羽は項梁の仇だといい穴埋めを命じる
扶蘇は絶望し漢王軍に参加
地下宮殿でラスボスモンスター趙高を討ちとりめでたしとなる
0572名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/26(金) 15:21:18.60ID:OCAALWM50
呂雉が小姑虐めた話は出典どこだろう
0573名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/26(金) 19:23:57.54ID:IkU3Ykra0
兄嫁が劉邦を嫌ってた逸話からじゃないかな
その息子もようやく封建されたけどガリガリ侯だったらしいし
0574名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/26(金) 20:49:35.98ID:CsiHdpF20
殺されかけた擁歯は許すのに
鍋は許さないのか
0575名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/26(金) 20:57:23.90ID:IkU3Ykra0
恥をかかされた恨みで許さないのと
雍歯は手柄が大きくて敵対していた奴等はたくさんいるから処罰するとやばいからじゃ
0576名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/26(金) 21:27:33.27ID:n9uKof1e0
あれだけ歯向かったやつも許すというパフォーマンスの面も
0577名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/26(金) 21:27:36.31ID:RO3+1gQE0
面子潰された恨みってかなり厄介
0578名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/26(金) 21:29:02.33ID:2i8kFU7s0
あれ張良の策ではなかったか。
劉邦が雍歯を憎んでいる事は誰もが知っているからこそ、雍歯を厚遇すれば諸将は安心すると
0579名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/26(金) 21:56:31.32ID:GfoKC+a40
先に雍歯が張良に
「俺、劉邦パイセンに恨まれ過ぎててヤベーかも」と
相談されてたりしてな
0580名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/26(金) 21:57:03.04ID:GfoKC+a40
相談してたりして、だわ
0581名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/26(金) 22:11:02.10ID:n9uKof1e0
確か大盤振る舞いを確約しすぎたせいで土地が足りなくなったけど
雍歯を優先して賞すことで「あいつが褒章もらえるなら自分も」効果を狙ったとかなんとか
0582名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/27(土) 00:11:03.45ID:oEUadavb0
>>572
司馬遼太郎の「項羽と劉邦」の馬車から兄嫁を突き落とす呂雉が大好きなんだけど
確かに出典何なんだろね?
史記を見落としたかな?高祖本紀か項羽本紀か呂后本紀のどれかか子分達の列伝かな
それとも漢書の方かねえ
0583名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/27(土) 01:10:31.80ID:LFuEfMwX0
彭越「雍歯が大丈夫なら俺も大丈夫だな!」
英布「そ、そうだよな・・・?」
0584名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/27(土) 04:08:56.51ID:OlWK7pTV0
ガリガリ公になるまでは兄嫁一家は無役だったので、宮殿の近くに住んで呂皇后が世話していたのかと思う
江戸時代は牢人は貧乏描写されるが、お取り潰しになった諸侯の子孫も裕福に暮らしてるね
爵位がなくなっても娘を嫁にあげて孫あたりで羽振りよくなるというても
0585名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/27(土) 06:00:28.94ID:m4zhvCRQ0
>>582
大漢風ってドラマかも

>>576
雍歯は裏切ってムカつくけど別に劉邦に死の危険があったわけ℃
障害を負わされたわけでも、大切な存在をやられたわけでもないし
こいつでも許すし封建するで他の奴等を安心させられる
0586名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/27(土) 06:21:49.98ID:X8q5OuPc0
なんか張良の献策だから凄い感出てるけど至極当然の事だよな
わからない劉邦陣営が馬鹿だらけなだけで論功行賞の基本じゃんて思うが
0587名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/27(土) 06:25:12.48ID:QfqtrSwC0
それが全くだめだめだったのが
項羽兄さんだった訳だが
0588名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/27(土) 06:35:33.75ID:cZR2V6CB0
今の時代なら常識としても楚漢戦争時に常識だったか
0589名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/27(土) 07:01:50.37ID:OlWK7pTV0
雍歯は沛の豪族で昔から仲が悪い沛公劉邦に従いにくかったので対抗して豊公になった。
蒲の県から蒲公が項梁にしたがってる。この人物もなぞだが、蒲将軍として英布とともに項羽の先手となり王離軍の猛将蘇角を撃ち殺してる。
独立勢力が多かったのでそのひとりという見方もできる、そうすると裏切りともいえない
雍歯の親分の王陵も劉邦にしたがわず南陽あたりに勢力持っていた。王陵に雍歯はさからえない
呂后の次代になっても王陵・雍歯はとくに冷遇もされてないから、たぶん劉邦以外には礼儀のあるまともな人と思われたのかも?
0590名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/27(土) 07:19:26.28ID:X8q5OuPc0
>>588
他の土人地域じゃなく諸子百家含め春秋時代経験した先進地域だからね中華は
孔子や孫子みたいな現代でも通じる概念が既に出来上がってた以上楚漢戦争時代人だけがそれは非常識だよはちょっと通じないんじゃないか
0591名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/27(土) 07:21:54.00ID:X8q5OuPc0
同じ時代の日本人に求めてるんじゃなくこの時代の中国人ならわかって当然な概念かなと
まあ有り体に言うと張良上げの為の小ネタのように思っただけです
0592名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/27(土) 09:23:03.81ID:xbC2VcIr0
こうして趣味で歴史談義をしている時には当たり前に分かることでも、自分が当事者になったら分からなくなるのかも
0593名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/27(土) 09:31:59.69ID:OlWK7pTV0
家康は駿河人質時代にいじめられた隣の孕石主水はすぐ殺してる
秀吉は家臣に五千石あたえたときに「これでは馬の餌代にもならぬ、秀吉ではこれが精一杯だろう」と嘲笑う連中を追放して殺してる
劉邦のブチ殺したいわ、はまだ実行に移せないから愛嬌がある
0594名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/27(土) 09:40:50.18ID:8xq9Bzcz0
個人的に天下さだまっても功臣をすぐ恩賞与えて諸侯にするのは反対だな
後醍醐天皇のようにゆっくり考えてから
ま張良は叛乱防止で領地すぐ与えろと言うだろうけど
0595名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/27(土) 09:43:06.70ID:oDb+9Ql+0
後醍醐帝の場合、考えた挙句にあれじゃ…って気もするけど
0596名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/27(土) 13:41:56.71ID:oEUadavb0
>>594
重耳「介子推よ・・・正直スマンかった」
こういう例もあるからなあ
重耳の場合は下級家臣を先に表彰して強欲な狐偃や働きがすぐ重耳が見ることの出来る趙衰や先軫だのは後に表彰すべきだった
劉邦の場合は強欲と言う言葉とは縁のない張良のアドバイスがまさにファインプレーだったと思う
0597名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/27(土) 20:55:04.16ID:Nelu6Fki0
>>590
隗より始めよ、灯台もと暗し、今でも盲点は幾らでもあるぞ?(  ̄▽ ̄)
0598名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/27(土) 21:49:04.92ID:m4zhvCRQ0
>>594
その場合に反乱がおきるんですよ
それを抑えられるだけの力はない
力があるなら恩賞なんて与えなくていい
0599名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/27(土) 22:11:28.60ID:cZR2V6CB0
今みたいに書物や情報がかんたんに手に入る時代とちがって情報は地域層の寡占だったんでね
張良にとっては常識だったやも
0600名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/28(日) 06:12:20.79ID:whUmD2BE0
>>589
王陵は若い頃の劉邦の世話してたみたいだから
劉邦からすれば昔世話になった親分なんで蔑ろにする気が最初から無かっただろうし
何より自分のせいで母親を殺されたという負い目もあったからもあるような気もする
硬骨漢なんで人に礼を尽くして頼まれると全力で事を成し遂げようとする人なのも当然知ってたから後を任せるに足る人物として呂雉に名前も挙げてるし
0601名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/28(日) 06:59:38.77ID:Z2ftb/bp0
この時代は人口増加や悪政で暮らしにくい人はとっとと土地捨てて車に家族乗せて流民になるので
うまれた赤ん坊の占いに「将来は大臣になる」「人の奴隷になる」「外国人になる」という竹簡がある

ゲルマン民族大移動もアフリカのような南の海にめざし斉の首都は長安より人口も多く海産物で養われた。
斉や燕、越のような海沿いは飢えることもなくのんびりくらせる、と関中の人は飢饉凶作では家族ごと車で東方に逃れていった
秦王政が天下統一をすすめてるときも政治がひどいのか大量に逃げ出してる
東方諸国もすべて統一されたから無駄な努力だったが、最終的には海沿いの東方で大反乱がおこり秦はほろびた
秦がほろんだ要因としてこの民族移動も大きい

劉邦は関中にみやこを定め、楚の名族貴族である屈氏や景・昭氏などをすべて関中に移した
劉大公が豊を懐かしがったため父親のため長安の近くに豊の建物や人を移して新豊をつくった
0602名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/28(日) 07:19:52.10ID:bTSzxMXc0
葬儀屋の周もなんで重用されたかわからない
棺は下手すると百キロと持ち上げるのに大力がいる
たぶん怪力だと思う

劉邦軍でずっと先手つとめて戦果も多いが項羽あいてでは負けも多いし
少帝呂氏殺すとかロクなことしてないし
0603名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/28(日) 07:23:31.35ID:CacT8ZIb0
>>602
信用出来る友達というのはそういうものだ
0604名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/28(日) 07:29:16.24ID:CSBPMcU70
当時は葬儀は一大イベントで仕切るのはなかなか大変だったので
これを差配した項梁や陳平は名を挙げた

周勃の葬儀屋は自分で経営していたのか下働きかはわからないが
多くの人を扱う仕事なので後の経験になったと思われ
0605名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/28(日) 09:52:31.58ID:B011yv2A0
葬式の管理と言うのはかなり大変だね。
名士の葬儀ともなれば参列者の人数を把握して全員分の酒や食事の準備とその他必要物資の調達、細かいタイムスケジュールなど、短時間で一気に考えないといけない
0606名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/28(日) 10:32:01.16ID:lRXDL9AM0
>>599
楚漢世代の人にとって最も影響力のある歴史だと思われる戦国時代を代表する人物達を
「恨みを晴らすぜ」で語るパターン多すぎな史記をみる限り
私怨全開の方が知識人の常識だった可能性もなくはなさそう

>>601
まぁ始皇帝期の人民管理に実は巨大な穴があいていたからこそ陳勝や劉邦が英雄になれたんだろうね
0607名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/29(月) 03:18:44.42ID:1d8kQ73b0
西戎は秦公が賢明であるときいて由余を使者に寄越した。由は先祖が晋人であり、中原の言葉が話せた
(どうも西戎は言語が異なる異民族であったらしい。トカラ語ともペルシア語ともいわれる)

秦公はさっそく祭事の鼎をみせて「わが国にはこのような宝があり国を治めておる」と説明した
由はわらった「これは、鬼神がつくったものでしょうか人がつくったものでしょうか。鬼神であればさぞ煩わしく人民は苦しんででしょうな」
不愉快になった秦公は「わが中華には礼儀や制度がある。これがない国はさぞおさまらんだろう」

「中華はそこが間違ってるのです。王は法で人を苦しめており、また民は信愛でもって上をせめたてる。徒党を組み争うのでおさまらない。
西戎は君が質素をきわめ、民は純粋にして、忠誠をささげてる。ですからおのずと国は治まるのではないでしょうか」

秦公は「由余は聖人であるな。隣国に聖人が居て善政をしいてはわしの害悪になる」となげいた
内史はすすめた「聞くに、西戎王はぜいたくの味をしりません。ですから美女をおくり贅沢をすすめられるとよろしい」
秦が十六人二列からなる女楽をおくり、西戎王はすっかりそのとりこになり日夜酒を飲んで政治を執らなくなり由余は責めたが聞かず家畜は雪で死んだ。民は呆れ果てた。
西戎十二カ国は秦公に征服された。こうして秦は西戎王ともよばれるようになった

趙国は四十万とか、楚も帯甲百万とか兵隊が畑でいくらでも取れる国だが
秦は西に広大な後背地を持ち多くの純朴な国があったから、取り込んでいけば人は増える
始皇帝が善政を敷いてユーラシア中央に伸びていったらまた結果は違ったかも
0608名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/29(月) 06:34:47.94ID:Rb/umubP0
>>607
国ごと、いや地域ごとに言葉が違っていたし
文字の統一さえもできていなかった
ただし、外交などでよく使う文字は似通ってきたりはしたらしい
項羽が文字を投げ出したのもこれは秦の字ではこう楚の字ではこうなるからとやられたからとか
0609名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/29(月) 07:19:38.28ID:QKfmE81y0
しかも、この時代の字って、絵みたいなやつを小刀で彫るんだろ?
自分の名前が彫れればじゅーぶんだし、劉邦に至ってはそらすらできねーし、俺も転生しても軍師無理だわ
0610名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/29(月) 07:20:06.05ID:Rb/umubP0
匈奴はトルコ系、匈奴はトルコ人、匈奴はテュルク、匈奴はツルク
匈奴は北方民族、匈奴は北方遊牧民
犬戎は周と同族に近い
越は呉と同族に近い、呉は異民族、呉の姫姓は偽り
秦は異民族
楚は異民族
晋は異民族、晋の姫姓は偽り
北魏は異民族、隋は異民族、唐は異民族、宋も異民族
今の中国人は北方民族の子孫
タイは夏人
倭人は庶殷
漢は秦なり
この世の文字は全てウルクの文字が起源、甲骨文字はインダス文字なり
人間は存在価値がない動物
日本人はいじめが大好き、日本人は自称優しい
アメリカ人はいじめが大好き、アメリカ人も自称優しい
スウェーデン人はいじめが大好き、スウェーデン人はアジア人差別が大好き
イギリス人はいじめが大好き、英語は欠陥言語
日本人もアメリカ人も弱者が一般人を憎みテロをする
日本とアメリカの一般人は自分達が底辺や被差別者から憎悪されていることを認めない
西洋も東洋も移民がそこの国民を憎むことはあるが
日本やアメリカはその地で生まれた自国民の弱者が自称善良な市民を憎んでいる
通り魔被害者が就職できない者を努力してないからだと言う日本
通り魔被害者の友人が負け組の派遣なんかにと言う日本
そして非難されると公務員共のお得意のそういう意図ではなかったで済ませる日本
悪意がないとか後付けでそういう意味ではなかったとか誤解させたで済ませる日本
悪意がなかろうが平気でそういう表現を使うことが人間のクズの証拠
嘘の自白という表現を使う奴は例外なく人間のクズ
自白を強要されてやってもいないのにという意味だというような意味の問題じゃない
日本人は生きている価値のない人間のクズが50人中45人以上
裁判で自白を採用した人間は拷問の共犯、拷問命令を出しているに等しい
自白を任意か強要か判断した奴も拷問・脅迫・人権侵害の共犯
日本人は人間のクズばかり
自白を採用している、これだけで日本は1秒でも早く滅びた方が良い国
日本、中国、サウジアラビア
自白を採用している国は人権侵害国家
拷問や脅迫で自白させて、自白は任意だと言う
自白は任意だから、信頼できる、自白は直接証拠だらしい
ほぼ全ての人間が取調べに耐えられず、毎年何千何万の無関係な者が自白しているのに

ああ梁山泊のように日本に敵対する集団が現れないものだろうか
貴族の承認がなければ皇帝も官職の任命ができない

日本の裁判官は証拠がなくても平気で有罪判決を下す人権侵害集団かと思っていたが
実際はそれよりも酷く警察の証拠のでっち上げが判明しても駄目
警察の脅迫が判明しても自由な意思を制圧していないから任意だと言う
最低最悪の人権侵害集団で、拷問命令を出しているよりも酷い連中だった

日本の司法や警察関係者は全匹人道に対する罪で終身刑にすべきだが
それでも軽すぎる
神がいるならこいつらみたいな人間のクズは何兆年無間地獄にいても軽い罰だ
だが裁判員裁判でも平気で自白を採用する人間のクズばかりなのが判明した
日本人はいじめ・差別・迫害・拷問・脅迫・人権侵害が大好きな人間のクズ集団

努力してないと完全否定の表現を使う人間のクズ
こいつら人間のクズに何を言っても無駄
逆に成果が出ると平気で努力したと言いやがる
0611名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/29(月) 11:32:46.41ID:SczsxWcd0
バイリンガルやトリリンガルは当たり前で各国の風土にも詳しくないと活躍出来ない
下手したら現代よりもグローバル化してたのがこの頃の中華
0612名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/29(月) 12:11:28.49ID:5r4TWo4g0
>>611
縦横家が凄いと思えるのがまずそこら辺
何ヵ国も渡り歩くからなあ
0613名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/29(月) 13:12:33.62ID:wYNgKXMg0
アメリカやらロシアやら行ってそこの政治家に政策を問いて地位を手に入れるって凄い生き方だよな
0614名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/29(月) 19:59:41.31ID:3W1TbM380
基本的には陸続きの周の諸侯間かつ文化も共通しているし

西洋で例えるなら現代のアメリカとかロシアじゃなくて
おフランスとかスペイン帝国構成国とかハプスブルク影響下の各諸侯宮廷を行き来した貴族、外交官みたいな感じかと
あと遥々東国やら九州に下向したり、地方から上洛して活躍した日本の宮廷人や武士なんかも同類かも
0615名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/30(火) 03:10:50.43ID:xQEPsw4i0
>>613
そう考えると凄いんだけども、しかし機械のない時代には人間の頭脳こそがスーパーコンピューターであって、その最高峰の物を手に入れたいと思うのも自然の成り行きであろう
0616名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/30(火) 04:28:54.43ID:7ZcMVw2I0
西周も咸陽の上流に鎬京をかまえていて、殷には「周方」とよばれた。つまり鬼方羌方土方などとおなじ蛮族扱いで周人も煮て食われた
周の貴族は革の服を着て、羊の肉しか食べない。
それがなぜか秦は西にあるので、夷狄あつかいされ、中原の諸侯にも侮蔑された。秦は「三晋におとしめられ、土地も奪われ、はずかしめをうけた」という。

西戎は家畜を飼っていて牛馬を財産にしたようで、農民とは違う。
畑よりも家畜を飼うほうが高収入というのはよくあることで、ローマの土地利用法も、農業は最低で、放牧はそれよりましだという
趙は北方は荒れ地で、代あたりでは家畜を飼っていて半農半遊牧のような産業形態だった

イギリスを見ると日本より小さい国なのに「囲い込み」をおこない貴族が農地を、羊の放牧地にかえてしまうことがあった。
羊の毛が高騰して荒れ地では農民よりも数倍の収入になるから、王家の土地であると法をたてに貧農からとりあげた
トマス・モアは羊が農民を食いころすと批判した

明治日本もお雇い外人の助言で、城東や千葉の荒れ地で羊を飼う産業転換も試してる
秦国が金持ちだったのは家畜が意外に高収入でもうかった、という見方も成り立つ。中原の貴族は毛皮の襟巻きをしたが高価だった
ただし土地貴族の「囲い込み」では多くの人はやしなえないから余剰人口は東方に溢れ出てる
0617名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/30(火) 04:54:11.67ID:7ZcMVw2I0
裕福な商人であった呂不韋は、韓の都市と東方の濮陽に移動して商売していた
つまり濮陽が経済的に先進地帯であった。衛の国はのちに秦に併合されて東郡になり、曹操は東郡太守からなりあがった

呂不韋は父親に商売の道を教わる「商人というものは穀物の売買では十倍の利益が得られる、宝玉売買では百倍の利益が得られる、
王をたて王師になれば、それ以上に利益がえる」と。呂不韋に宝石商になれとすすめた

穀物は豊作の年かいしめて不足の土地に売ればもうかる、十倍でも感謝される
漢代ではそのような商人が跋扈したたため、納税のために官僚や農民が買い占められた穀物を購入せざる得なかった
0618名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/30(火) 07:51:53.76ID:+Qz2tEh10
>>615
諸侯が招聘したくなる最高峰の才能というと、
レオナルド・ダ・ヴィンチみたいな人材を想像してしまうので、縦横家はなんかイメージが違うようなそうでもないような

>>616
その孝公の三晋に河西を取られ諸侯に侮蔑されたというヤツは、
「秦は繆公の時、周の天子や諸侯から称えられる存在でしたが、守N簡出子の代に乱れ三晋に攻められ云々」という文脈なので、
一部分を抜き出して「西にあるので夷狄扱いされました」って話にするのはちと無理があるかと
0619名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/30(火) 08:21:45.96ID:hW70Flvt0
なるほど
親族が一時養鶏で金稼いで会社作ったが生き物飼うのはたいへんと言ってた
農家も山羊や鶏など飼うと世話は3男や末娘がやらされた

呂雉の名前はキジだから実家で家畜の世話でもさせられてたか
0620名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/30(火) 10:55:49.83ID:XI36jnpU0
>>616
周は支配階級と一般人でDNAが違うらしい
しかも敵対しているはずの北方民族と遺伝的には同一だとか
恐らく一部の裏切り者か逃亡者が周族を支配するようになって元の自国民を敵視
日本人が朝鮮人を嫌うように
0621名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/30(火) 13:16:10.74ID:i7qTIFdr0
劉邦の長男、斉王劉肥が殆ど伝記がないのがふしぎ
斉はおさまり結構名君だったらしい
母の曹氏が卑しいというが
曹参の縁者らしいし豊の農家の奥さんになれない理由もないはず

文帝の兄である斉王の記録を消したのかな
0622名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/30(火) 13:24:20.72ID:kx5INgcR0
>>621
漢初は卑しくないやつの方が珍しいよな
0623名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/30(火) 14:02:17.50ID:hfi6pm0n0
>>621
劉邦を裏切った左司馬の曹無傷も縁者の可能性が高いと思う

案外と曹操の遠祖だったりして
0624名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/30(火) 14:11:53.17ID:hfi6pm0n0
>>620
周は遊牧系、一般民は漢民族の元祖の夏華族かもしれない

代々の周王が南方の蛮族の楚の遠征に失敗して、次第に堕落して
幽王の代に長男を廃嫡して、次男を太子にした挙句に
長男の外祖父の申侯(姜姓、斉と同族)が、遊牧民の犬戎と組んで
西周を滅ぼし、廃嫡された元太子が旧殷(商)の都の朝歌付近に遷都して
東周の祖となった、これが春秋時代のはじまりとなった

その一方、犬戎は旧西周を支配して、漢化して秦人の祖となった
0625名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/30(火) 16:31:33.75ID:tR8us/2Z0
漢化して秦人の祖となった、は些か語弊があるような
秦に討たれるなどして一部が吸収された可能性がある、程度に止めておくのが妥当かと
0626名無しさん@お腹いっぱい。2021/11/30(火) 23:52:32.60ID:Cf1R2DNW0
>>622
張良、蕭何、曹参位だねえ
0627名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/01(水) 00:24:37.22ID:vXb1y1G80
曹参は秦の揚熊をやぶり南陽や関中おとし斉では楚将を生け捕るなど小型の項羽のような猛将で
斉相国曹参は英布を倒し乱世を終わらせた
沛の小役あがりのせいか温和で争いを嫌い斉の儒者の忠告にも
「仰せのとおりにいたしましょう」と礼儀正しい
恵帝からすれば怠けてるように見えたが民衆の人気も高かった
0628名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/01(水) 09:57:48.16ID:m3xeLzua0
ただ曹参って蕭何とあまりソリが合わなかったっていうけどどういうことなんだろう
0629名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/01(水) 11:54:32.55ID:b4NCvIJQ0
ショウカは劉邦の1歳上で豊の同郷で仲よく曹参は沛の豪族
県令は憎まれていたがこれは秦では犯罪の告発を県令がおこない
属使が取締りするためでショウカや曹参は手心を加える為人気だった
トップが優しくなればいいのだが秦は県令は民衆厳しく取り締まるべしと下知されたその制度で県令は民衆にまず殺された
0630名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/01(水) 12:07:03.82ID:b4NCvIJQ0
沛が蜂起したとき父老はショウカに県令になってもらいたいが
秦が勝ったら一族殺される。だから劉邦が占いでえらばれた
劉邦が処刑されたら息子は曹一族が保護し曹肥としていきる
というような了解があったと思う
0631名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/01(水) 18:28:25.87ID:l4qYHikR0
同僚だったのに文官継続の蕭何と戦場に回された曹参
こじれてもおかしくはない
0632名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/01(水) 18:43:52.16ID:HaBfs1ba0
気を抜かない蕭何、抜く曹参って感じで比較されて批判も受けた逸話
0633名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/01(水) 23:56:54.53ID:SFD4zVBl0
秦の役人は竹簡を一石ではかり全部読むまで休息は赦されない法律があった
ショウカは若いときからノルマとして当然しています
高后や恵帝もやるかもしれません
田舎県令の竹簡には高后も恵帝も始皇帝の続きぐらいにまったくおなじ調子で厳しく政治してると竹簡に記録されてます
0634名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/02(木) 01:35:12.96ID:9te68W+K0
蕭何の地位は県令の属史で主任的な位置なので令史ではないかといわれてる。県令四百石で、県尉二百石なので令史もそのあたり。
優秀なので秦の御史(六百石)に中央の侍臣にあがるようにすいせんされてる
御史大夫に報告が上がり、ほめられて側近になれば出世は思いのままで異例のこととされる

秦の記録によると若い時は御史になって、郡の監察官になり、戦争に行かされて、戻るといなかの令史に格下げというコースだったようで
年取ればえらくなるというものではなく秦の制度では年取ると地位は下がったようだ。収入は増えただろう
張蒼もわかくして御史をやり、南陽の前線を監察していて劉邦につかまってる
0635名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/02(木) 12:06:07.22ID:ThGuT7Gm0
キングダムの李牧が死んだころ劉邦は魏の豊邑で三十歳ぐらいか
何してたんだろ
0636名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/02(木) 14:01:25.81ID:AL0m3ycK0
李牧の死亡時期とキングダム関係なくね
0637名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/03(金) 08:43:34.14ID:d/R2eg4F0
秦も漢も政権交代後、名門貴族や官吏はそのまま
身分継続が多かったのかな
0638名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/04(土) 08:53:35.94ID:oCR4cC+i0
六年に斉王韓信が謀反を企んだと密告するものがいた、これを列侯にはかると
「やつが背こうと、なんのことがありましょう。ただちに出兵し小僧を穴埋めにするまでのこと」

高帝は黙念としてた。これを陳平に問うと
「人が上書して韓信が背いたとのことですが、その叛乱の事実はあるのでしょうか」
「ない。」
「韓信はしっおるのでしでしょうか」
「知らぬはずだ」

「陛下は、漢兵が楚兵にまさるとおもっておりますか」
「楚兵にまさるとはおもえぬ・・」
「陛下の将軍で、韓信にまさるものがおりますか」
「おらぬ!」「いま陛下は兵士は楚の精鋭に及ばず、将も及ばないとおっしゃった。しかも兵を挙げて伐つというのは
戦いをうながすことになります、ひそかにおもいますにその無謀をあやぶまずにおれませぬ」

「どうすればいい」「むかし天子が行幸して諸侯を朝会させた例にならい、陛下は南方に遊び諸国を朝会させられますように
韓信はこれをかならず歓迎して出迎えますのでそこをとらえるのです」
主上はこの計にしたがって韓信を捕らえ、洛陽にもどり陳平の功績は多いとして、これを列侯に封じた
0639名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/04(土) 11:58:48.98ID:yIe2+d4r0
韓信を騙す策略を提案したのは蕭何じゃね
0640名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/04(土) 12:10:20.72ID:GNkz1vgX0
それ最後の時な?ア?(  ̄▽ ̄)
0641名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/04(土) 22:34:23.25ID:XiQ9MAvm0
【緩募】韓信が粛正から逃れる方法
0642名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/04(土) 23:39:59.04ID:kVqGlfT40
項羽が生きている間に第3勢力化する
0643名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/05(日) 02:17:03.11ID:qLEOFvu/0
陳平みたいに幕臣になってりゃ良かったんだよ
劉邦の懐に入ってれば安泰だったろうね
0644名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/05(日) 03:33:51.69ID:W+RQNtqW0
性格的に股くぐりしてた頃の韓信なら可能だったかもしれないけど王になった後の韓信にその選択は無理じゃね
0645名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/05(日) 06:51:32.40ID:S/L9H9rQ0
>>641
引退して官職?も領土も返上するか
ショウリマイ(バツ)と一緒に劉邦に反乱するか
ほぼこの2択だと思う

穴場としてベトナムに逃げるとか
0646名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/05(日) 07:49:20.15ID:lVaL2HIq0
領土を全部返上してしまったら、今まで苦労して働いたのは何だったんだろうって話になるしなあ
0647名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/05(日) 08:29:35.75ID:qLEOFvu/0
反乱起こそうとしなけりゃ
淮陰侯として食っちゃ寝の生活ぐらいはできてたのか
0648名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/05(日) 08:30:55.06ID:J/qQdB1X0
カイトウの献策を入れてれば
救援無視や仮王無心で粛清確定してるのに謀反はできない小心者
色々可愛い奴なんだよな
0649名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/05(日) 08:34:13.15ID:7F2ejeSe0
漢中に居た時に夏侯嬰に処刑され・・・・あれも粛清なのかな?
0650名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/05(日) 09:55:45.72ID:/KVRBN0o0
なんたら国志みたいに無駄な脚色や掘り下げヨイショが少ないのに主要キャラが立ってるんよな楚漢戦争って
章邯だけとってみても悲哀将軍として一本大河小説書けるんじゃなかろうか
0651名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/05(日) 10:18:29.85ID:45yD4LL60
史記に脚色やヨイショがないだと
0652名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/05(日) 10:53:39.08ID:3FJHb5ir0
コウエイや蒼天航路をガチだと思い込む層が多勢なとこと比べても無意味
あっちじゃ曹操は劉秀や李世民クラスで諸葛亮は張良や劉基以上らしい
そこまでは笑えるけど楽進とかいう人まで凄い扱いしてるからなあ
0653名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/05(日) 11:38:31.19ID:CWQElSXv0
>>652
楽進について詳しく
0654名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/05(日) 13:02:53.00ID:XYQfOF7r0
曹操が劉秀を笑ってすませられるんなら
曹魏の右将軍を凄い奴扱いするのも許してやれよ
0655名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/05(日) 13:18:51.41ID:gSPSx3Iu0
関羽は最初に取っ捕まった時に曹操が偏将軍にしたけど
偏将軍ってかなり階級低いような・・・
0656名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/05(日) 13:58:19.71ID:1VLu7aVt0
>>655
そんな将軍位なんかより爵位貰ってるのが箔的にデカいやろ
0657名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/05(日) 17:29:10.94ID:bCz0Gl1X0
>>650
項羽が伝聞と脚色の塊なのに説得力皆無
0658名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/05(日) 17:42:35.88ID:18J4EIeM0
>>645
彭越や英布と連携出来たら普通に劉邦を倒せたとは思うわ
韓信にはそういう外交能力が無いだろうけど
0659名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/05(日) 19:11:41.20ID:7YrjtWRL0
>>650
ぶっちゃけ史記と三国志正史を比べたら
史記の方が脚色多いと思う
0660名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/05(日) 19:12:48.51ID:1qWJvxAN0
同じ王同士だと上手く連携出来ない方が多いよ
地理的には彭越は使い捨てになり易い
部下とか格下ならそれでいいんだが
0661名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/05(日) 19:58:22.23ID:S/L9H9rQ0
>>655
自分も昔は気に入っているくせに低い地位だと思っていたけど
実際に魏の功臣上位でも亭侯とかだったりだし
将軍も思っていたより少なかったので、実は偏将軍でもかなり上位

また、劉備もたかが左将軍と言われることが多いけど
実は当時の劉備よりも将軍号が上だったのは袁紹と曹操しかいなかったらしい
別の話で李カクだったかが袁術の懐柔に与えた官位も左将軍で
皇族以外で最高の名家の袁氏の嫡子でさえ懐柔になるぐらいの高位の官職なんだよね
0662名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/05(日) 20:00:17.18ID:S/L9H9rQ0
>>647
危険だから始末される恐れがある
ハンショも無事に余生を贈れたとなっているけど処刑されたという話もあるし
長沙王や南越王は存在を許されたりしていたから辺境に逃げるべきだったかも
韓信の子孫とされる人が見逃されたという怪しい逸話もあるし
0663名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/05(日) 20:27:55.47ID:gSPSx3Iu0
>>662
范雎は引き立ててやった友人と推薦人2人とも秦を裏切ったから流石に昭襄王も庇いきれなかったのかもなあ
それ以前の商鞅も折角の忠告を無視して後に商鞅を引き立てくれた孝公が死んだらすぐ殺されてるし
0664名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/05(日) 20:34:56.99ID:oTB1+K450
>>659
特に呉世家と晋世家にある国の誕生は、司馬遷による脚色が感じる

また、李陵も李当戸の遺腹の子なのに、武帝によって
一族が処刑されたときに「弟一家も連座に皆殺しに処された」とあるし

紀信の死に関しても記録によってチグハグだけど、項羽紀は火刑に処された、
それ以外だと、好畤で章平、姚卬と戦って戦死したと、バラバラだし
0665名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/05(日) 21:37:58.96ID:gSPSx3Iu0
司馬遷「孟嘗君は筆誅を加えるべきだよな!」
0666名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/05(日) 22:26:44.57ID:1IEgXvT00
為政家としては韓信はどうだったんだろう?

漢で取り立てられたのも
学識を買われてのものだし
初め就いていたのも行政官
軍才のみならず政治の才と手腕もあったとおもうが

世渡りの才はないかもなw
0667名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/05(日) 22:39:09.98ID:3FJHb5ir0
まあ実際はどれぐらい出来るのかは不明だけどさ
ただ殊更評価低過ぎるとも思うんだよね
敵は蕭何と呂雉っていう中国だけじゃなく世界史クラスの傑物二人、こいつらの誅殺から逃れられる奴が有史以来何人いてるのかってレベルだと思うんよ
0668名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/05(日) 23:17:45.95ID:1qWJvxAN0
実際韓信は政治力皆無とは言えない
人間の才能(能力)は限りある事を良く分かってる
後世では一見万能型が散見されるが前代の反省を持って尚慕容格ですら統一には程遠い
政治と軍事で成功出来るのはベクトルが違う
韓信が高祖に天与の才と言ったエピを見ても良く分かってる(弁えてる)
簡単に反乱を起こせたり、禅譲を強いられるのは実力が無いだけ
0669名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/06(月) 01:04:38.08ID:QhHdk6St0
でも粛清モードに入った劉邦じゃなくても、いつかは何らかの罪を問われて処刑か良くて島流しにあってる気がするんだよな
ずっと平和な時代に生きて、昇進しすぎない程度の有能官吏とかなら良いけど
0670名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/06(月) 04:06:59.72ID:YbYh6OmX0
英布は驪山の始皇帝陵の労役で、数十万の刑徒とともにはたらいた。みやこ咸陽は渭水の北岸、驪山は南岸にあたる
驪山の陵は咸陽を見下ろせる位置になり、驪山の南峰で、全体を見渡せる指揮所があったという

布はここであまり働かず、もっぱら班長を手懐け、これはという豪傑と交遊した
反乱に合流したときに英布は数千の豪傑を率いていたと言われる

項羽が死ぬと祝宴の席で劉邦は随何をくされ儒者だとけなした
随何は九江王英布を下した事実を列挙して反論、主上は「わしはお前の功績を考慮する」といわせた

九江王英布は、九江・廬江・衝山・予章の諸群をあたえて淮南王とした
淮南王は六年に朝会し、七年に洛陽で謁見し、九年には長安にあがった。十一年には韓信と彭越が殺され
その肉が淮南王にとどけられ、恐怖した。英布は兵を練り始める

淮南王謀反の上書があり、主上はそれをもって蕭何にはかった
「・・いえ、布に限ってそれはないと思います。そのものを獄につなぎ、淮南王に使節を送り確かめさせます」
布は漢から使者が来て詳しく調べ始めたのでついにそむいた
0671名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/06(月) 04:07:35.03ID:YbYh6OmX0
主上は謀反の報告が来たので諸侯にはかった

「小僧を穴埋めにするだけのこと。あやつになにほどの事ができましょうぞ」とみな大笑いした

汝陰公夏侯嬰が申し上げた「わたしの賓客にもと楚の令尹の薛公がいます。かれには計略があるようです」

主上は薛公を引見した「布が謀叛したのは怪しむに足りませんが、布が上策にでるなら漢は山東をうしない
もし中策をとるなら、勝負は未知数です。下策にでるならば主上は枕を高くして寝ることが出来ます」

「む・・上策とはいかなるものじゃ」「楚と呉を取る、さらに斉をせめます。そして堅く守る」
「どうするのを中策という」「それは楚と呉を取る、魏と韓をとり、敖倉の兵糧を拠って、攻め上がります」
「では下策とは」「東の呉を取る、兵糧を越におくり、自分は長沙にとどまる」

主上「彼はどの策に出るだろうか」「まず、下策」「わからぬ・・なぜ上策をとらないのだ」

薛公「布はもと驪山の一味徒党で、王にはなりました。ですが、全ては我が身のためにしたことであって、
子孫のことはいっさい考えていないようです。その頭では、下策しかおもいつかないでしょう」

主上は理解して、薛公を千戸の候に封じた
0672名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/06(月) 04:11:44.71ID:YbYh6OmX0
予測したように、布は東の荊王をうち、荊王は敗死した。全軍を蹴散らして淮水をわたり楚王にいどんだ

英布は「主上は年老いてしまった。戦いを厭い諸将をおくるだろう。わしは諸将で韓信と彭越だけおそれていた。
そのふたりを主上はころしてしまった。わしに勝てるものは誰もおらぬわ」といい、だからこそ叛いたのであった。

楚王劉交は主上の弟で若い頃から学問をおさめており軍を三つにわけて包囲しようとした
「布は用兵に長じており、兵士はおそれてる。いま軍を3つに分けたら一方がやぶれるだけで全線が崩壊しよう。
どうして三軍で連携などできようか」と諸将に説かれたがきかず
はたして一方が英布にあたると鎧袖一触、ちりぢりになって全ての兵は逃げ出した

布の親衛兵はすこぶる精鋭でついに主上の軍とぶつかった。布の予想通り淮南兵は主上の軍を蹴散らし、負傷した主上は敗走
後退した主上は庸城の上から眺めるとその軍容は項羽とそっくりだった。

「何を苦しんで謀叛したのか、わしに申してみよ」主上は訴えた「ハハ、皇帝になろうとおもった」

主上は布を罵り両軍は激突した。
0673名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/06(月) 05:02:10.69ID:T5a4/0lt0
>>668
歴史動画でもこんな馬鹿なことをと馬鹿にするの多いけど
現在でも似たようなことで同じようなことをする人ばかり
指摘してもこれとそれは違うと細かい差異を言って言い張るだけ
馬を鹿としたのを笑いながら、羊を犬とする
0674名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/06(月) 06:59:25.51ID:UVDmSy1m0
>>667
蕭何もまあ、漢中から去る韓信をさんざ引き留めて劉邦に用いさせて、あげくに誅殺とかやっぱ根は中国人なんだな
韓信いなけりゃおまんら全員項羽に漬物にされてたろうに
0675名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/06(月) 09:11:03.98ID:YzfxfYCf0
>>673
韓信は広大占領地、特に項羽にも高祖にも屈しない難解な斉も問題なく治めてた
それなのに政治力ないとはない
0676名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/06(月) 09:21:42.47ID:3aOSktlc0
楚王韓信なんてのに居座られたら
帝国運営に支障来しまくりだったろうなあ
そしてそれで一番苦労させられたのが宰相の蕭何なんでしょ
0677名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/06(月) 10:06:47.10ID:QhHdk6St0
問題なく治めてたと言っても期間短すぎないかな
0678名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/06(月) 11:09:04.46ID:fz4iB16A0
>>675
それは、韓信が天性的な「戦の神様」であって、
やっぱり、政治的駆け引きは疎いと思う

その証拠に、蒯通のいろんな言及には狼狽するし、
旧友の鍾離眜を匿ったときも、劉邦に露見されると、
これも狼狽して、焦っている

韓信が言う「主上(劉邦)は将の将である」は的を得ている
政治的駆け引きは、劉邦のほうが上だったってこと

あと、横山史記には貧しい身分ながら、学問を習って、
母が亡くなって、葬儀費を出さなかったために、破門されたと
あるけど、司馬遷の史記には記されてないが、蕭何の評価もあり、
横山が、呉起の逸話を参考にして、話を盛るために挿入したと思う
0679名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/06(月) 11:51:43.93ID:YzfxfYCf0
>>677
それはその通り、だが短期間で問題が起こってたのも事実
0680名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/06(月) 11:55:16.62ID:YzfxfYCf0
>>678
駆け引きが苦手は分かる、敵には見事な策を決められるが
味方になると別問題なんだろう
まあ甘いとか言われるがそこも魅力なんだろう
0681名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/06(月) 12:51:10.43ID:7GH+MYYn0
>>674
韓信はガチで反乱起こそうとしたんだから
蕭何の立場からしたら誅殺するのは当たり前でしょ
0682名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/06(月) 13:18:20.29ID:L2qEBzCP0
韓信が反乱起こす方向に仕向けられた感じだな
彭越や英布にしても同じく
0683名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/06(月) 14:04:43.37ID:N6fD3pWP0
軍隊の強さがおなじでも率いる将軍によって兵は強くもなる
経験ない将であれば趙括のように名将の子であれば兵士は安心できる
当時も王センの孫王離がオルドスから三十万率いてくればもう安心だといわれた

韓信の戦果は休戦中に奇襲などいずれも
胡散臭いが酷使無双の大将軍だと言われると兵も信頼し強くなる
0684名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/06(月) 17:17:17.26ID:v5oo0EJ/0
韓信の戦術は義経みたく卑怯やインチキや約束破り
でも勝ったから問題にならない
これで負けてたらクソゴミ野郎として統一張楚の史書に書き殴られてたわ
0685名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/06(月) 17:22:14.84ID:v5oo0EJ/0
でも韓信が叛いたとの国に与える衝撃は
蜀で諸葛亮が魏延と共に叛いたぞとか
呉で陸遜が孫翼を担いで孫権に叛いたとか、そんくらいのインパクトなんだろな
0686名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/06(月) 19:20:52.30ID:2LdOcRHS0
統一張楚ってなんだよ
0687名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/06(月) 23:14:43.18ID:xfOI0Osg0
韓信はクーデターという戦の出だしで奇襲くらって死んだとも言えるので
政治力を低くするよりは戦術や知力をマイナスする方が適切かもしれん(ゲーム風に評価するなら)
0688名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/07(火) 02:14:27.04ID:e9sh/Ijp0
>>659
史紀は意外と他の資料との矛盾が多いんよね。

例えば春秋の晋が完全に滅亡した年代も、史紀と他の資料では違う。
魏の恵王が晋の正卿名乗ってたと有るのだが、史紀だと晋滅亡後っておかしな事に。

まあ記録残ってないだけで、魏が独自にお家再興してたとかも考えられるが。
0689名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/07(火) 02:21:28.87ID:e9sh/Ijp0
>>680
基本的に敵対する相手に対する、心理分析は本当に見事なんだよね。

背水の陣の時だって、敵将の陳余の性格とかも分析してそうですし。
斉で項羽の援軍破った時も、又潜りの逸話で楚陣営で馬鹿にされてた事利用してるし。

只、上に猜疑される自分と言う想定で心理分析した事ないんだろね。
0690名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/07(火) 02:53:55.34ID:aR2WUV2I0
例えば垓下の戦いの時に、劉邦からの援軍要請を黙殺していたのは非常にまずい。なぜなら「項羽と劉邦が潰しあい、生き残ってボロボロになった方を倒すつもりだ」と言ってるのと一緒だから。これではいずれ謀反を起こす人間だと見られても仕方がない。そう言う所はダメなのだ
0691名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/07(火) 05:02:21.03ID:QImqwgku0
項梁が旗揚げしたとき、会稽郡の郡将を名乗り、項羽は副将とされた。項羽が襄城をおとし、敵を穴埋めしたことで項梁はかわいい甥を褒めた。
懐王や宋義など楚の貴族には「項羽は虐殺を好み彼を将軍とすると民は降伏し難い」と厄介者あつかいになる。しかし項羽は
知略もめぐらすこともでき、鉅鹿を包囲していた秦の王離の30万の大軍にたいして狡猾に9回も補給路をこわし、いためつけて飢えさせた
楚兵は雄叫びをあげて一人で十人の秦兵をたおしたという。河北の諸侯の同盟軍は城壁ですくんでいた

名将の孫である王離は「家は三代でおとえる、秦は負けるであろう」と咸陽で評した者がいた。何故か頼りない印象を与えた
頼みは隊長たちだったが、実務担当のかれらも年取っていたのか弱かった。蘇角は項羽に殺され王離は降伏した
趙の李牧や楚の項燕ですら負けた無敵秦軍をやぶってみせたのは、やはり項羽の将としての力がずば抜けたていたからだろう

項羽は斉を攻めるときは版築を背負い(城壁を作る槌や板など)、兵士と苦労をともにした頼もしい将軍だった
上下の連帯が項羽軍のつよさだったがカエサルもナポレオンも兵士たちに愛された
そういう意味では奇策のみの韓信はやや劣っていたかもしれない。
項羽は背がたかく礼儀正しく、負傷した兵士に枕元でつきそい涙を流して看取ってやるほど情に厚く、人気が高かった
0692名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/07(火) 07:33:59.72ID:hA+yWQZq0
それ社長が毎日会社でまかない作ってふるまってくれたり土日の旅にバス旅行させてくれる会社みたいなイメージなんかな
0693名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/07(火) 07:35:55.81ID:hA+yWQZq0
でも社長の一族以外は管理職になれない
0694名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/07(火) 08:07:50.74ID:kWMHD91q0
劉邦政権もすぐに幼馴染とか親族による統治を志向するようになるしまあよくあることよ
0695名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/07(火) 09:29:08.93ID:dnZC4cyO0
そんな外様や後発組優先させて身内離反するほうがキツいししゃーない
能力主義を掲げようない
0696名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/07(火) 09:37:43.65ID:97Tl3x5v0
陳平はそんな状況でも生き残り位人臣を極めたから凄いよな
0697名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/07(火) 09:39:10.18ID:zI8IWFX80
まかないの日は朝から
社内がスパイス臭い
0698名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/07(火) 09:43:20.68ID:g9GdPrg40
>>695
それでも呉楚七国は起こるしまあ難しい
0699名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/07(火) 10:37:08.54ID:l6p1f1fW0
陳平が二十金しか貰えなかったように若い社長項羽の使える金はすくなく項伯など叔父たち
重臣が管理した
留守をまもる大司馬の曹咎がやぶれ大王の金銀宝石はみな漢に奪われたとある
0700名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/07(火) 12:00:01.05ID:QImqwgku0
斉は土地は貧しかったが絹の大生産地であった
趙など山西は鉄の大生産地で知られ韓も人口が多い先進国
秦も宝石や家畜など売り物があった
楚のケン中郡、のちの長沙は成王が設置し錫など金属がとれたし
南陽は金属の大生産地だが秦に取られた

項羽の支配する徐州には産業なかった
0701名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/07(火) 12:04:34.94ID:EVpKDaHR0
敗因の一つ:地元愛
0702名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/07(火) 12:11:23.66ID:NInQyOH30
>>700
交易都市かつ郊外は穀倉だったやうな
0703名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/07(火) 12:23:55.06ID:f715hyqx0
徐州は項燕将軍の代々の領地があったみたい
忠誠は高いのではないだろうか
沛にも近い項梁が沛公を重用したのも家来衆だと
0704名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/07(火) 12:28:21.35ID:Vfm6pmA30
>>695
能力あるやつに謀叛を起こされたら最悪だしな

能力主義で人を集めて使い終わったら始末する
後は信用できる身内で固めて、信用できるうちに地盤を固めて身内無しでも大丈夫なようにする
0705名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/07(火) 15:31:26.73ID:oLZfCzQx0
楚や呉ではコメや魚の吸い物など食い物が豊富で働く気力はうすく
貴族も腐敗して王様は意外に貧乏
無為重んじる老荘とか楚人だし

その気になれば果物や塩漬けの魚の流通で儲けられたはず
0706名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/07(火) 15:48:38.71ID:4Qmzg0gx0
斉は塩も採れたんじゃなかったか
0707名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/07(火) 16:26:14.43ID:qF/10ZYE0
>>693
上司は優しいし居心地いいけど昇進昇給は渋い会社
0708名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/07(火) 17:05:38.45ID:My688Euf0
南陽の貴族である光武帝は河北の転戦で豆スープと麦飯がつらかったそうで
南なら白いコメと魚の煮物食い放題
金持ちにならんでも食い物は充分なのよね
0709名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/07(火) 17:14:08.31ID:OOB64oAV0
それでも食い詰めて老婆に握り飯恵んでもらう韓信
0710名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/07(火) 17:16:31.46ID:xn9kdQPN0
貧乏人でも食い放題とか現代人より良い生活してるな。つか食っていけるなら乱世なんて起きようがないだろう。
0711名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/07(火) 18:01:29.91ID:0l+nji3G0
アフリカでも人口2億のナイジェリアの朝食定番はサバのトマト煮の缶だそうだ
海産資源は凄い
イギリスは鯖を生で内陸に輸送してたべ
英文学ではサバの悪臭の言及が多いが
フランスは塩漬けサバ輸送しておりクサイとは言われなかった
0712名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/07(火) 20:25:32.92ID:2vFtsXjB0
イギリスの食文化もあれはあれで結構面白いんだよね
昔やる夫スレ経由で勉強した記憶あるわ
0713名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/07(火) 22:59:29.84ID:5HGzihXx0
韓信隊で食うメシは
暖かくて美味えから・・。
0714名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/08(水) 02:07:49.98ID:QCY8nd5C0
背水の陣強いるような奴の飯が美味いかって
血の味しかしねえ
0715名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/08(水) 02:18:17.97ID:E3WAPjCu0
鉅鹿で項羽が使った破釜沈舟の計のが強烈だけどな
韓信は一兵卒で参加していたから身を持って効果を体感しただろう
0716名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/08(水) 02:19:08.47ID:4A8CVDch0
食事の味は割と士気に影響するし、それを理解してそうだから旨い可能性は高い
0717名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/08(水) 07:19:57.32ID:OjWM9kPr0
>>641
樊噲が心酔してるんだから
むしろ樊噲をとっかかりに
呂后に取り入る
0718名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/08(水) 08:07:53.86ID:Ulp7VtfX0
石奮は趙人で河内郡温県に移り住んだ。主上が温県を通過するとき15のかれは小役としてつかえた
恭謙な少年を主上は珍重したずねた「きみはいつまでわたしに仕えてくれるのだ」
「力尽きるまで尽くしたい」そこで主上は家族のことを訊いた

「母は盲目で姉がおります。琴が引けます」姉は美人として主上の後宮にはいり、石奮の家族は
都城内の戚里に住めるようになった(姻戚になったため。戚里は親戚が住む区画)
学問は一切なかったが石奮は礼儀正しく恭謙なことでは右に出るものがなく
やがて息子四人はいずれも二千石の高官となり本人を合わせて一万石だと世間はうわさした
文帝は皇太子の太傅が免官されたとき彼を太傅として指名した。

陳平が項羽から逃げ出し漢王のもとにたどりついたときに万石君石奮が名刺をうけとり
ほかの十名の客とともに食事を出し、漢王はねぎらい宿に下がるよう言った

陳平は「臣は急いで申し上げることがあって参った!今日のうちに、すべて申し上げたい!」

漢王は喜び、陳平を語らって、都尉として車に陪乗させ将を監督させた
「なんたる気まぐれ。大王は楚の亡卒を手に入れ、頭の中身もわからぬうちに先輩を監督させる」
この評判をきいて漢王はますますよろこんだ
0719名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/08(水) 08:09:26.99ID:Ulp7VtfX0
主上は布をたおし、傷のため徐行して長安にかえった
燕王がそむき、ハンカイを相国として兵を率いさせこれを撃たせた

その出陣後、人が謗った「あいつは呂后の一味徒党でございます。主上に万が一のことがあれば、
趙王と戚夫人を殺すでしょう」主上は激怒した「やつは、わしが病んで死ぬのを望んでおる!」

陳平の献策をもちい周勃を呼び出し「陳平は馳伝にのり、周ものせ、代わりに将とせよ!
それがすんだら平は軍中でカイの首を切れ」

車の中で二人は話し合い「主上はああ仰せになったが、旧友であり呂后の妹をめとり近親でもある
帝はいちじの腹立ちで斬れと仰せになったが、すぐ後悔する・・
こうなったら仕方ない、捕らえて長安に送り、主上に斬らせるほうが安全であろう」

陳平は壇をつくり、割符をもってハンカイを呼び出し、兵権の受け渡しを終えてそのばで捕縛した
後手で縛り上げて囚人車にのせ長安に送り出した。代わって兵をうけた周勃は燕を平定した
0720名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/08(水) 08:10:48.15ID:Ulp7VtfX0
陳平は帰途で主上の崩御をきくと呂后と呂須のいかりをおそれ、慌てて伝車を馳せて長安に急行した

とちゅうで使者と会い「詔がおりた。陳平は灌嬰とともにケイ陽に駐屯するように」と詔をうけたが
陳平はさらに伝車を馳せた。哭泣して棺の前で復命した

そのすがたは哀切を極めたため呂太后は同情し「あなたは下がって休息したほうがよい」

だが平は讒言を構えられるのをおそれ固く乞うて、宮中に宿衛した
よろこんだ呂太后は、陳平に郎中令とし、傅役として帝の日々の教育をまかせることにした

そのため妹の呂須は、もはや讒言も構えることが出来ずあきらめた
やがて囚人車のハンカイも到着したが、太后はただちにこれをゆるし、元の爵に戻した

陳平さん綱渡りの生き残り術。他人に讒言かまえられるまえに急いで申し上げる
0721名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/08(水) 09:39:50.35ID:UKM2gGNc0
劉邦は娘を韓信に嫁がせるとかは
考えなかったのかねえ?

てか劉邦って部下に娘を嫁がせるって
こと自体してないのかな?
0722名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/08(水) 10:55:02.35ID:QufayAWl0
えっ?
0723名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/08(水) 11:14:52.83ID:X2MgGWv50
主上「陳平が呂一族に殺されれたら気の毒だ。要塞にかくせば呂后も手をだせまい。その間にわしがなだめる」ガクッ

陳平「どうして…」
0724名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/08(水) 14:39:06.10ID:3doxQ+yF0
>>721
息子も少ないけど

娘って最悪、呂后の子、1人しかいなかったかもしれん
1度しかやっていないのに妊娠したのが2,3人いるし
女好きと言われるのに息子8人だけ
しかも年老いた自分が死んだときに後継者はまだ子供っておかしさ
0725名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/08(水) 15:39:51.70ID:3doxQ+yF0
大陸における高位の官職の名称

太師、太宰、太傅、太保、大司徒、大司馬、大司空、司徒、司馬、司空、司空、
相邦、相国、太尉、御史大夫、少傅、令尹、大丞相、丞相、右丞相、中丞相、
左丞相、仮左丞相、冢宰、大宰、大宗伯、大司寇、右師、左師、司寇、仮王、
領尚書事、録尚書事、平尚書事、省尚書事、尚書令、阿衡、宰衡、周公、卿士、
右卿士、左卿士、卿、正卿、上卿、亜卿、侯伯、大将軍、将中軍、佐中軍、
将上軍、佐上軍、将下軍、佐下軍、尚父、仲父、亜父、都督中外諸軍事、
都督六合諸軍事、宇宙大将軍、摂皇帝、仮皇帝、真皇帝、摂政王、親王、王、
国王、郡王、行人、衣王、周方伯、小伯、伯、天王、尚書左僕射、尚書右僕射、
内閣大学士、天皇、内臣、外臣、使持節、驃騎大将軍、驃騎将軍、車騎将軍、
衛将軍、中都護、行都護、都護、左都護、右都護、西域都護、牧伯、牧、太守
0726名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/08(水) 15:51:57.04ID:3doxQ+yF0
中原の官職の偉いと思われる順

@太師
A太宰
B相邦
C相國(相国)
D太傅
E丞相
F右丞相
G中丞相
H左丞相
I仮左丞相
J太保
K大司馬
L大将軍
M太尉
N御史大夫
0727名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/08(水) 15:57:19.73ID:3doxQ+yF0
中原官職順序

@太師
A太宰
B相邦
C相国
D太傅
E丞相
F右丞相
G中丞相
H左丞相
I仮左丞相
J太保
K大司馬
L大将軍
M太尉
N大司徒
O司徒
P御史大夫
Q大司空
R司空
S司城
0728名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/08(水) 15:58:38.70ID:RjHfD2e10
賈詡くんは董卓さんは超えられなかったのか
0729名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/08(水) 17:41:06.45ID:3doxQ+yF0
董卓さんも恵美押勝さんも太師になった人は碌な目に遭っていない
太公望も斉の君主になれなかったとか
0730名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/08(水) 17:48:01.69ID:3doxQ+yF0
曾子と孔子の共通点
両者に共通点があるとすれば、それは「独学」と言う点です。


実はもうひとつ有ります。

孔子も曾子も、「高貴な家柄に生まれながら、政変に巻き込まれて奴隷に身を落とす羽目になった」のです。

しかも、これは追い追い説明する予定ですが、両者は血縁的に近かったのではないかと思われます。

ですが、立場が異なったのです。

孟孫子を支持する立場(曾子)と、季孫子を擁護する立場(孔子)に。


曾子としては、異議申し立てをする立場にあると考えたでしょう。
0731名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/08(水) 21:15:47.59ID:FBiPuGB20
呂も劉もリューで音は似てる
現在呂氏は「2つの口の呂だ」ということが多く同音が多いようだ

劉邦は民1人あたりの人頭税は百銭
諸王侯のばあい民1人あたり64銭
これを10月に帝に拝謁して納めるよう決めた
0732名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/08(水) 21:22:59.14ID:FBiPuGB20
劉邦の長男肥は四十くらいでできた子で
曹氏は曹参の子で劉肥は孫という可能性もあり得る

当時中国でも貧民は息子のみ欲しがり
女子は金がかかるので歓迎されない
北インドでは女児は結納金の節約で全員殺す地方もある
劉邦に娘がいないのも似たような話かな
0733名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/08(水) 21:44:29.59ID:3doxQ+yF0
娘が3人いるとマハラジャでさえ破産するとかいうしね

それにしても劉邦は本当に女好きなのかさえ怪しい
そして一度やっただけで妊娠が恒と長の2人
実は呂后さえ10年以上経ってようやくとか
息子が生まれた時期が逃亡期間中でおかしいとか
0734名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/08(水) 21:45:07.33ID:3doxQ+yF0
劉邦って子種がなくて子供が作れなかったのではないだろうか
0735名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/08(水) 22:11:21.73ID:T4CUqD6y0
呂皇后が采配して帝が男児お望みで女子いらんと殺したかも
劉長は実子のようにかわいがってたそうだ
0736名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/08(水) 22:15:24.19ID:QufayAWl0
それで投げ捨てたり、無理やり英布討伐させようとするんですね、分かります
0737名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/08(水) 22:18:02.36ID:T4CUqD6y0
しかし劉邦が不遇時にうまれた劉肥も軽帝もどれもロクな人物ではなく
趙王も利発というわりにたいした逸話がない
弓馬が得意とか詩をかけば一流とか
文章かけば名文ができるとか
難しい計算がたちどころにできたとか
あれば悲劇の王子になれるが
0738名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/08(水) 22:31:37.03ID:ezwKeDcl0
そもそも劉氏がゴミしかいない
あれだけ膨大な数いてまともに名前残せたの劉秀と劉備だけ
一発は超特大ホームランでもう一発は自称かもしれんが
0739名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/08(水) 23:14:16.87ID:XtcpW+AD0
なにぶん紀元前のことなのでな。農民の子供の生年月日なんぞ正確に記録されているはずもない。
0740名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/08(水) 23:18:03.37ID:Ad1UNNf40
>>738
すごいすごい
0741名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/09(木) 07:30:24.95ID:d/RlO1zx0
>>739
劉邦とロワンが同じ日に生まれたらしいから誰か記録に残していればなあ
0742名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/09(木) 07:41:25.65ID:d/RlO1zx0
テスト
0743名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/09(木) 10:53:59.07ID:d/RlO1zx0
>>738
洪武帝の前に流言とかいたし
後の世も漢を立てた劉氏はそこそこいるよ
後漢とかになった奴のせいで劉秀のが東漢と呼ばれたり
0744名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/09(木) 12:26:37.55ID:xU7uSgDZ0
>>724
馬車から捨てたり色々したんだろ
0745名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/09(木) 12:30:23.10ID:xU7uSgDZ0
>>732
400年後、曹氏が曹氏に禅譲させたことになるわけか
0746名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/09(木) 15:41:12.11ID:TtWOoJOn0
荊王劉賈は主上の従兄で、別働隊を率いて彭越とともに戦い楚の大司馬周殷をくだす功績を立てた

楚王劉交は主上の弟で魯の穆生・白生・申公とともに詩をまなんだ。
楚王韓信を除いた後で分割して劉カは荊王となり劉交は楚王となったそのあと肥を斉王とした。
これは功を重んじたものである。劉交は魯でともにまなんだ穆生・白生・申公を大夫に任じた

劉交は英布を兵法でやぶろうとしたり劉氏ではいちばん教養ありそうな長者だ
楚王も子供も詩をよくしたので、申公が編纂し魯詩とした。文帝は申公を博士とした
申公は官をうしなうと楚にもどってまた大夫となった

穆生は酒がのめないので元王の宴席では甘酒が用意されたが王戊の代ではいつしか忘れ去られ、あま酒が出なかった
「もう去らねばなるまい。王は道を忘れた。このままでは市で首枷つけられることになるな」といい病気だと辞した
白生・申公は、たかがあま酒ぐらいで、先王の礼をわすれたのかと言った

王戊はしだいに淫虐になり、白生・申公はいさめたが王は激怒して二人に首枷つけて、赫い服を着せて市場で臼をつかせた
0747名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/09(木) 23:22:09.43ID:d/RlO1zx0
呂后もやってたけどうすをってのははやってんのかね
0748名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/10(金) 10:18:08.44ID:+vTwob0T0
うすをつかせるは酷く見えるけど普通にそれを庶民や奴隷はやっていたんだよなあ
0749名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/10(金) 10:35:05.85ID:BcQks/tE0
罰として便所掃除!
みたいな意味合いか?
0750名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/10(金) 12:29:53.52ID:01GPdT150
武帝も腰斬・宮刑ばかりの暗君だが汲暗から「主上は欲が深く、賢人を招き外面で仁義をほどこそうとしても無駄」と
いわれて顔色変えながらぐっとがまんしてる。

始皇帝「煮殺せィ」のイメージがあるがじっさいはそんな事言わないし(穴埋めはする)卑しいものでもよくへりくだって
意見を聞いていたという。
始皇帝は疑い深いとの定評もあったが、尉繚子では「他人を疑わない君主はマヌケ、しかし人の話を
利口ぶってさいしょから聞かないなら愚者だ」という。ので当時の賢君の資格は満たしてる
0751名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/10(金) 14:51:06.34ID:+vTwob0T0
>>749
かもね

それとは違うけど理不尽な左遷みたいなのでも
左遷先には普通にそこで働いている人達がいるからなあ
0752名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/10(金) 15:04:08.04ID:3GVyngAt0
韓安国「確かに!」
0753名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/10(金) 15:57:55.55ID:01GPdT150
魏の明帝も大臣公卿に土木作業させて悪評かったが
「高位の公卿まで土木をかついで宮殿を建てその徳に人はすすんでしたがった、ゆえに明帝とたたえた」
というふうに史書にかいて貰いたいから自分で自分の諡をつけて困惑された
0754名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/10(金) 16:47:57.47ID:+vTwob0T0
>>750
あんえいも主君が祈祷師の効果がないから処刑しようと言ったのを
あなたを恨んでいる国民は何万といるので1人が祈祷しても無駄だし
死んでエンマ大王?に会えば真実を言うしかないから無駄みたいに言ってた
0755名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/10(金) 17:30:25.73ID:01GPdT150
斉人は礼儀正しい儒者・博士が多いけど、冷たいと言われたようね
楚人が劉邦項羽のように情ありすぎるのか
0756名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/10(金) 17:34:02.88ID:+vTwob0T0
>>753
文帝も明帝も自ら諡号を望んだ
0757名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/10(金) 17:50:50.65ID:01GPdT150
臣下が付けたら盆帝とか厨帝とかにされそう
0758名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/10(金) 23:16:27.24ID:OUO79Pun0
当時の将軍としては李左車がトップクラスだとおもうがなぜ劉邦も項羽も登用しないんだろ
0759名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/10(金) 23:43:54.09ID:07bepLL10
李牧の孫なら必ず敗けるから
0760名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/10(金) 23:49:50.91ID:3GVyngAt0
>>754
晏嬰は景公相手だとありとあらゆる手段使って教え諭してたけど
これはピシピシ厳しく諭すモードの話だな
割と優しく諭したり例え話で分からせたりと景公が道を外さないようにしたりで本当に大変だったろうな
景公の娘を押しつけられそうになった時に実に妻を思いやる断り方をするエピソードと桃を使って乱暴者3人始末する話が特に好きだ
0761名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/10(金) 23:57:24.75ID:fA6YkOb80
韓信は李牧の孫李左車を捕らえたら千金あたえるといい
賄いのラードをふやし李牧隊のメシの旨さを韓信隊につたえたんだろ
0762名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/11(土) 00:23:42.39ID:RKP5/d3r0
晏嬰のエピソードはどれも面白いよな
司馬遷が絶頂射精しながらヨイショするのも納得
0763名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/11(土) 01:12:54.18ID:15OxYos+0
武帝がトウ皇太后に儒者ブッ殺されるほど儒に傾倒してたから
孔子を無用の飾りだと追い払うアンエイは司馬遷としちゃ痛快エピソード
0764名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/11(土) 06:17:23.78ID:DOC8gxTG0
>>756
太祖「ワイは文王で有りたいんや(チラッ)」
高祖「お前なんて武帝や!文帝はワイ!」
0765名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/11(土) 07:08:06.55ID:GEtGQd7Y0
>>758
趙の重臣で李牧の息子だか孫だから、国を裏切らないと思ったのと
後に関心に師事されているから引き抜けないでしょう
0766名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/11(土) 11:07:11.93ID:5SDwykna0
>>763
そりゃ竇太后からすれば自分の傾倒している老荘の道を馬鹿にされているみたいで腹立つでしょうな
実際それで今まで上手くいってたから尚更ねえ
後世の俺らからすれば衛青や霍去病が匈奴に痛撃食らわせて屈服させる展開は胸熱だけどさ
0767名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/11(土) 11:16:41.23ID:85VZ8Urb0
>>747
高貴な女性が臼をつくのは可愛いっぽいので俺が当時の百姓ならぜったい見物に行くわ
0768名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/11(土) 11:28:43.17ID:wLsVwGy10
>>764
だいたい初代が武帝で次代が文帝というお約束なのかと思ってたわ
0769名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/11(土) 11:53:49.67ID:eNxvvSxM0
閻立本(えん りっぽん、生年不明 ? 咸亨4年(673年))は雍州万年(西安市臨潼区)の人。工部尚書(656年)を経て、咸亨元年(670年)には中書令(宰相)にまで昇っている。
「歴代帝王図巻」(ボストン美術館蔵)は前漢の昭帝から隋の煬帝までの歴代13人の皇帝を画いた図巻として著名
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/29/HanZhaoDiLiuFuling.jpg
700年前の皇帝の絵図は正確なのか・・
0770名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/11(土) 14:02:02.28ID:fEosGUrD0
>>768
古代は周王朝の文武の順が尊ばれとるからな
実際次の晋でも文武の順になっとる
これが逆転するのは遊牧民国家の影響
0771名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/11(土) 15:18:46.83ID:0DQRqOXd0
文武文文武文武 文武文文武文武
0772名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/11(土) 15:40:05.94ID:5SDwykna0
武帝も宇宙大将軍に殺されるから
0773名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/11(土) 18:02:52.95ID:wqfDIAf50
>>768
文を示して後に武で平定するのが周以来の理想だった
古代末から中世にかけて、まず武で侵略して後に文で安定させる方式に変わってった
0774名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/11(土) 18:16:29.99ID:eNxvvSxM0
儒教が前漢から染み通って前漢末期では儒教で崩壊、後漢では王莽の理想とする儒教国家になったのと
貴族化がすすみ、貴族階級は武を卑しんだ
なんで後漢の軍は、姻戚の大将軍に任命し、大将軍府をトップにして、西域などから軍人を採用した

姻戚と宦官が争い始めて梁冀など大将軍を殺したりしたため将軍府は地方軍閥にあなどられるようになった
梁冀は悪人とされるが、かれがそだてた軍人は結構多い
田舎軍人は武功をたてても恩賞は将軍府からもらい、みやこに移住できない
この身分固定はどんどんひどくなり魏では兵戸といい戦争奴隷となり平民からも侮られた
0775名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/11(土) 19:38:57.31ID:D9oBtGnk0
お前らってWikipediaで見た情報をドヤ顔で語るだけ?
0776名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/11(土) 20:19:30.62ID:GAALk3au0
韓信軍は飯がうまく項羽劉邦軍は不味かったのだろうな
0777名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/11(土) 21:06:19.47ID:5SDwykna0
>>775
このスレにいるからには史記と漢書位は目を通しているよ
0778名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/11(土) 21:08:57.29ID:5SDwykna0
後は晏子春秋とか論語だな手元にあるのは
春秋左氏伝は残念ながら無いな
0779名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/11(土) 21:21:01.66ID:0F17lcQ/0
ウィキもほぼ史記漢書が元ネタ
それ以外だと竹簡ぐらい
0780名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/11(土) 21:35:02.77ID:0F17lcQ/0
日本の五目チャーハンは揚州チャーハンがちかく、
揚州チャーハンは春秋いぜんから揚州つまり会稽郡でたべられており項羽もまず五目チャーハンたべたようだ
韓信は楚軍をにげ漢軍で料理係として採用されたが恐らくは項羽軍でも食事係

韓信軍も五目チャーハンが得意だったが河北ではとくいのコメは手にはいらないのでおそらくは粟餅やパンをたべた
この地方は家畜がおおく羊肉は脂肪に富む
李左車はたぶん羊肉入の餅を作成した
0781名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/11(土) 21:42:04.55ID:sxum/rRh0
>>775
高祖の霊に直接教えて貰ったよ
0782名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/11(土) 21:48:58.51ID:0Ws2iDPH0
高祖「この捕虜め!ワシをだまし口先ひとつで官位を得たがもう許さん」
0783名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/11(土) 21:52:02.26ID:5SDwykna0
醤油は壮助がミャオ族にお使いに行ったときに持ち帰ったんだっけ?
それならそれ以前の項羽の頃のチャーハンは塩だけで味を整えていたのかな?
出汁は登場からあったのかな?
ローマは共和制の頃から魚醤はあったみたいだが
0784名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/11(土) 21:57:12.42ID:4nIbD2KA0
河北では野菜を漬物にしおもに炒めてたべるのが古来から主食
そのため塩分過多
キムチチャーハンといったとこ
0785名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/11(土) 22:36:22.38ID:NKM3I/rr0
いやあったけえかどうかだろ  
0786名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/12(日) 01:07:12.40ID:G1FGiczC0
『胡麻、胡瓜、胡弓、胡椒、胡桃』などは武帝の頃に西域から伝えられたとされるが胡椒は南ルートからすでにつたわってた可能性もあり
始皇帝のときに南越に大遠征をしてるのでそのときには入手できた
漢代にインドや南アジアからの船は沿岸にそって停泊しながら交通していたので、その寄港地がお城になり、交易でもうけた商人が原住民を支配した

フィリピン(呂宋)は中国に近い島だが食生活みると近代までインド文化の影響が強かった
つまりインド人のほうが積極的に海上進出していた
0787名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/12(日) 08:30:21.84ID:gfr9hgX40
チャーハンなんか食えないだろ
大人数で食うあったけえ飯

お粥じゃね?
0788名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/12(日) 12:01:45.77ID:ncT35YOd0
チャーハンできるのもっと後の時代だろ
0789名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/12(日) 12:09:20.18ID:4VYCaTtX0
隋の煽帝が運河で揚州チャーハン持ち帰ったと言われる
0790名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/12(日) 13:05:47.46ID:0LwxWSU00
たしかに古代の料理法は煮る蒸すであって焼きはまずない
0791名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/12(日) 13:12:59.56ID:ABNmVYwY0
温かくなくてもいい弁当などもある
昔の中華にあったかどうかは知らんけど
0792名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/12(日) 15:15:32.08ID:lDtJ11X30
>>787
大抵お粥だよね
ローマもそうだったらしいし
粟とかパサパサしているとか言う人いるけど
基本お粥にして食べる者だから炊いたらそうなる
0793名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/12(日) 17:42:57.04ID:M7QL6T+P0
何千人もいる兵隊に
炒め物なんて出せないだろう
0794名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/12(日) 18:23:12.39ID:cZgLTkuH0

やたら目にするよね
0795名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/12(日) 18:53:12.38ID:fY2y3l8e0
煮るのが一番楽だからね、火をかけながら他のこと出来るし
自炊するとほんとそう思う
0796名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/12(日) 19:34:52.07ID:fHnzKLvt0
煮る炒める揚げる焼くの順に難しいというか手間よね
処理や片付け考えると揚げ物が一番億劫だけど
0797名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/12(日) 19:43:55.26ID:tlmOVxBa0
蒸すには水をかけて蓋をすればいいから簡単
水があればだけど
0798名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/12(日) 20:40:48.74ID:lDtJ11X30
>>793
そうでもないと思うけど
かまどの数で兵数をカウントしたように数人で1つのかまど利用っぽいし
油が入った元以降に悪い水でも料理できるようになった
0799名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/12(日) 21:27:44.47ID:lDtJ11X30
いや、1人いつなのか???
0800名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/13(月) 00:21:14.18ID:QDqL0iIx0
華北はアワが8千年まえから栽培され富の集積と都市成立になったが、コメは蛮夷の作物とされた
一般的に華北で米が食べられるのは唐代以降で、煬帝さんの運河が大きい
アワはインドと中国で多く食べられヨーロッパでは遅れて伝わり、近縁のキビがあり関心も薄かった

生育期間が3ヶ月と短い水分が少ない乾燥高地でも栽培できるのが利点だが連作は地力を損なうこと
糖質が7割でカロリーが低く腹持ちがやや悪い、1ヶ月くらい干してから棒で叩いて脱穀しますが
脱穀は時間がかかり、骨の折れる作業であり穂を足で踏んで脱穀することもあった。
0801名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/13(月) 00:30:14.78ID:wOexryfx0
兵站で炒め物
0802名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/13(月) 07:05:16.43ID:pW1STQDJ0
米は南だけかと思っていたけど
どうも楚や呉だけでなく
斉や蜀も米らしいし、趙もレンパの逸話から米を食べていたっぽい
少なくとも米をたくさん食べたと伝えて趙王が米って何と思わないレベル
0803名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/13(月) 08:28:22.77ID:8SzySYrd0
古代では粟もコメも米とかいた
中国で米粥は大米粥、粟粥は小米粥というのがそのなごり
蜀は長江文明だし当然コメ、戦国秦は荊州も支配した。斉も船で米を輸入したのは考えられる
0804名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/13(月) 09:45:11.61ID:MBYPuAWo0
餅も原形はアワモチだとおもうがきな粉、大豆の粉つけるのはいつからかわからない
あれ甘く美味しいんだよね
0805名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/13(月) 17:33:21.62ID:ejUDfAqD0
孔子「米は桃より下」
てのは、粟のことだったかも知れないね
0806名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/13(月) 18:45:19.03ID:pW1STQDJ0
漫画で、孫子の命令に反して、魏の小米畑(粟畑)を焼かなかった将軍を
なぜだ、畑を焼かれれば魏王もうろたえるだろうに
畑を焼くと民が困窮するからみたいなのがあった
王は、民だと?魏の民が困ればもっけの幸いではないか?
0807名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/13(月) 18:46:11.22ID:pW1STQDJ0
漫画で、孫子の命令に反して、
魏の収穫間際の小米畑(粟畑)を焼かなかった将軍について
なぜだ、畑を焼かれれば魏王もうろたえるだろうに
畑を焼くと民が困窮するからみたいなのがあったと側近に言われて
王は、民だと?魏の民が困ればもっけの幸いではないか?
0808名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/13(月) 20:20:05.14ID:G2rpmwBJ0
あったけぇで思いだしたが中国歴史漫画で主人公などが冠かぶってないのが気になる
古代中国は子供のころから長髪を髷で絹の布でまとめ冠かぶる
始皇帝の兵馬俑でも兵士全員が布で髪結んでる

劉邦は亭長のとき竹でハデな劉氏冠つくりお洒落さんでもあった
貴族の項羽は着飾るなんてしなかったかも
0809名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/13(月) 21:33:00.88ID:pW1STQDJ0
魏王朝は、
皇太后、皇族、外戚、宦官のいずれも曹丕の意向で、
権力を握ることはできなかった。
0810名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/13(月) 21:34:15.08ID:pW1STQDJ0
>>808
下僕出身だから
ただ、どうも奴隷とは違うていで作中書かれている漢字だけど
0811名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/13(月) 22:00:01.36ID:XYHG9LE50
いちいち冠と髭を揃えるとキャラの見た目に差がつかなくて書き分けできなくなっちゃうからね
そこは日本も中国も同じで現代みたいに髪色や服装で書き分けできないから難しいんだと思うよ
まあ単にダサいとか面倒くさいっていう理由もあるかもだけどw
0812名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/13(月) 22:43:38.09ID:QDqL0iIx0
冠は金属のもの、革製のものがあり、役人は革製の弁をかぶった
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/93/%E5%BC%A0%E8%89%AF%E5%83%8F.jpg
張良がかぶってるのは・・・革の冠かな

劉邦は竹の冠をつくり高官以外にはかぶらないように定めた
傘付きの馬車に乗って竹冠をかぶれるのは高官のみで士大夫にうらやましがられた
0813名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/13(月) 22:57:37.59ID:QDqL0iIx0
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3c/%E8%8C%83%E5%A2%9E%E5%83%8F.jpg
范増は冠かぶってないしハゲ・・てる
もしかして日本人みたいに前髪そって髷結ってたのかもね。越の人は短髪だった
0814名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/14(火) 00:37:19.65ID:e3G+9KNN0
>>811
冠と髪型揃えると個性がなくなる、は単に作者の努力不足だと思うわ
歴史ものやるなら文化的な側面を描写するのも仕事だろと
0815名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/14(火) 01:03:15.72ID:6SzdvCu/0
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c0/%E9%A0%85%E7%BE%BD.jpg
項羽
これも冠かぶってないかも。范増と同じような感じ、若くて太ってる?

武帝も友人の丞相や衛青と同席のときは冠かぶらずにくつろいだ、朝廷に出るときはかぶったというから
覇王項羽クラスになると「うぜえ」と被らなかったかもね
0816名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/14(火) 04:13:19.87ID:e3G+9KNN0
冠って今でいうネクタイみたいなもんでしょ。
仕事するときに締める。自宅でくつろいでるときはノーネクタイでシャツの襟も開ける。
そして一部のホワイトカラー以外はつけない。
0817名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/14(火) 05:10:03.57ID:Mrp4JXEl0
楚は盤族扱いされているし
今でもアラブ人の王族の清掃ではネクタイはつけない
0818名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/14(火) 05:11:49.81ID:Mrp4JXEl0
曹爽は大将軍の位にあった。
司馬懿は、曹叡崩御時大尉であったが、
その後太傅となっている。
よくこれは、曹叡崩御後から曹爽と司馬懿は対立しており、
曹爽一派の画策で、司馬懿を大尉から、事実上の名誉職である
太傅にして、曹爽は実権を得たと言われる。
0819名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/14(火) 05:12:28.45ID:Mrp4JXEl0
しかしながら、
司馬懿は、対呉戦線では指揮を執っている。
対呉に備えるため、ケ艾の「済河論」を採用し、
水路・兵糧庫・軍屯の大規模な設置を行なっている。
0820名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/14(火) 05:13:31.65ID:Mrp4JXEl0
また、曹叡崩御後に曹爽とともにすぐに任命された、
「侍中・仮節鉞・都督中外諸軍事・録尚書事」の
加冠を外されているわけではない。
魏は非常に皇帝権が強い。
そのため、大尉とかの官職よりも、
この上記の加冠の方が重要になる。
これは皇帝権の部分的貸与だからである。
0821名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/14(火) 07:20:31.55ID:FUYosW2t0
>>816
しっくりきた
要するに成人男性の象徴なのよね
0822名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/14(火) 08:49:09.08ID:HHhsuepd0
西域の遊牧民には月桂冠かぶる民族もいた
中央アジアから伝承かな
0823名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/14(火) 11:31:36.07ID:55ptroAt0
白鶴じゃぶじゃぶ頭からかぶるのはダメか?
0824名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/14(火) 13:00:39.02ID:HITtXJBq0
冠は階級を表すんだろうけど
髪はみだりに他人に見せたり触れさせないんだろ?気が籠もってるとかうんたらかんたら
宮城谷の本なのかウィキなのか些末サイトなのか漫画なのかソースは覚えてないが
0825名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/14(火) 13:01:37.76ID:HITtXJBq0
漢文読めないから結局それが本当かどうか自分で判断できないのが悔しい
0826名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/14(火) 18:18:03.81ID:Xm6wnDP80
>>822
土着でしょ
なんでも伝承する訳でもなし
0827名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/14(火) 20:21:10.00ID:Mrp4JXEl0
髪を斬っちゃいけないらしい
ハゲにするのが死刑の次の刑罰らしい
0828名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/14(火) 20:34:04.46ID:Mrp4JXEl0
>>825
漢文は複数の解釈ができるから
それに今の中国人は漢文を全然読めないらしい
0829名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/14(火) 22:39:32.15ID:6SzdvCu/0
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f3/Bronze_jian_of_the_Terracotta_Army.jpg
兵馬俑の兵士は実は本物の青銅剣を持っておりそれは直後に取られたらしいあるいはとったのは、章邯かもしれない。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/72/Terra_Cotta_Warriors%2C_Guardians_of_China%E2%80%99s_First_Emperor.jpg
立像は髪を絹で結んで、せいぜい頭巾をかぶるていどだが、そのうえに兜も青銅製のをかぶっていたむっちゃ強そうなデザイン
秦は黒い軍隊というが、兵士は多くがグリーンの服を着ており、一部は赤や紫・青を配した派手な服をきていた

将軍像はわずか数人だが冠かぶっており、キジの一種であるミミキジの尾羽根の冠で、キジは勇猛な鳥とされた。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/25/Crossoptilon_mantchuricum_-USA_-captive-8a.jpg
0830名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/14(火) 23:43:09.75ID:tCrHbL+70
日本の国鳥ですね
0831名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/15(水) 00:34:47.45ID:hAWiW5Fw0
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/ab/Lacquer_painting_from_Ch%27u_State.jpg
楚人
考古学的発見に基づくと、初期は楚の文化は黄河流域の周にちかいもので、やがて現地の百越に影響を受けた
西周の期間、楚の文化と北にちがいはほとんどない。春秋後期になって、文化は分岐し始め儒者から卑猥であると批判を受けた

司馬錯は秦が蜀と楚、つまり長江をとれば天下が取れると考えた
楚は腐敗し、財務の多くは王の側近に使用されていました。多くの役人は賄賂を取る
軍隊は大きかったが中抜が多いため補給がよわいと呉起が指摘してる。これが楚が不活発な要因だった。自衛隊に似てるかも

三戸といえども秦をほろぼすのは楚なり、は范増が項羽に説いたが、これは北の長城に若者を取られた悲しみを唄った、楚の民謡とされる
音楽は瑟が琴よりも好まれ楚人は火の崇拝と赤い着物をこのみ、蛇神、龍、自由に流れる雲や蛇のような存在などモチーフにした
0832名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/15(水) 00:57:07.27ID:hAWiW5Fw0
現在の中国では劉邦は冷酷といわれ、項羽が持ち上げられる
虞美人の劇が中国では人気がありその影響かもしれない。劇では虞美人は項羽をしばしば諌め、彼女が死ぬとつまんないと客は帰ったという

楚王のエピソードは優しいものがおおく、情にあつい楚人好みになってる
秦王は冷酷なものが多い。秦の軍隊は剣も兜も殺意に満ちたものだったが、楚の刀は越の剣に似ていたが、より幅広で豪刀
越の剣は作りがていねいで美しいため中原では高価で箱にいれて宝としてあがめた
怠惰で働かない南人が剣作りだけ入魂なのは、楚や呉はシャーマニズムがさかんで一種の祭具だったからかも
0833名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/15(水) 07:08:20.67ID:28gKY9+30
>>828
漢文が読めないのではなく繁体字が読めないだろ。
0834名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/15(水) 08:54:07.66ID:fxSpfUbd0
繁体字ではなく篆書だよな?
0835名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/15(水) 09:55:28.27ID:5VrlsDAY0
今の字体に直しても読めない
文法も助詞も全く違う
0836名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/15(水) 13:07:51.12ID:K10HfSQq0
西晋が滅んだあたりでそのあたりの字体と滅んだ?
0837名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/15(水) 18:16:40.75ID:8KKgpLpc0
大豆は周代には中原で栽培されていたが味噌はまだなく醤が使われ肉醤が主

これは肉を刻んで醸したもので呂皇后の得意料理で専門の職業もいた
味噌にちかいものは黒豆を発酵させソースとしたものが作られ漢代でこのまれた
ダイズは長江からもたらされたが楚ではあまり一般的でなく漢代に普及した
豆腐は劉長の子劉安が発明したとされる
0838名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/15(水) 18:35:10.18ID:YRNFcoDq0
項羽や韓信は醤油かけ御飯を食べたか
となるとこの時代の楚は魚醤がおも
英国のウスターソースは魚醤がベースという
ソースかけ御飯といったとこ
0839名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/15(水) 20:34:54.72ID:ZmbgkLNG0
日本の織田信長も焼き味噌ご飯に付けて食べるのが好きだったから
武人は洋の東西や時代を問わず大抵簡単ご飯が好きなんだなと思った
0840名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/15(水) 21:35:42.16ID:0TOE2EZB0
将軍の冠にキジの尾を差すのは趙の武霊王が始め秦漢につたわり武官の正装
後漢の飛将呂布の冠にも長いヤマドリの羽根があるが
白起や李牧もミミキジの冠をつけてたはず

司馬遷の古老の取材では劉邦も劉あにい、劉大公も劉のとっつぁんという農民言葉らしい
闘鶏が当時の遊びで劉邦も好んだ
呂雉もアイツ気が強い、まるで女将軍、というあだ名かもしれない
0841名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/16(木) 01:00:33.27ID:KRCRiWps0
武官や貴族は好き勝手できたのかな?
官僚や庶民は服装が厳格に決められてたのはまた別の時代か?
0842名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/16(木) 04:28:07.31ID:LhCi83P50
劉邦は足組んで座ったが当時としてはチンコ見えるとんでもない不作法で儒者にはたえられず
劉邦も儒者嫌いで冠にションベンした
秦では2世皇帝まで五蟲と詔するくらい儒者冷遇されたので孔子九世孫は陳勝の叛乱に参加し博士となった
0843名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/16(木) 05:19:35.86ID:9zAgTJ2X0
>>842
叔孫通「両方から優遇されたが?」
0844名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/16(木) 05:21:15.65ID:bX2D3zkb0
そりゃ有能だからなあw
0845名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/16(木) 06:44:51.21ID:2FrE9HMG0
>>837
呂皇后の得意料理は何の文献に書いてあるの?
0846名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/16(木) 07:14:06.34ID:vVaMUPAi0
>>842
女子高生が短いスカートであぐらかいてると嬉しいけど劉邦じゃなあ
0847名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/16(木) 08:59:12.51ID:F2cg2aV/0
劉邦「俺の足の黒子の数数えるのに便利だろうが!」
0848名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/16(木) 10:40:25.89ID:PBCU2bA00
呂雉「わたしの得意料理は子路の醤(ジャン)です」
0849名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/16(木) 11:29:53.53ID:d1U9qDtJ0
>>845
秦漢時代は皆、王侯から庶民まで肉や野菜を煮たものを食べていた
これは豚汁のようなものだと考えてもよいが

少数説で、カレーという可能性もある
少なくとも文献記録と矛盾はしない
インドではマハラジャでもカレーを食べている
0850名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/16(木) 11:50:32.88ID:5LBBHZ1i0
アレキサンダー駄王がバクトリアでチャーハン食べて感激してギリシャにレシピを持ち帰った
このころは中国でも戦国で秦の張儀が宰相してた時期
イランで米栽培されてバクトリアではあったけぇピラフ料理が食べられた

なので羊肉ピラフの歴史は中国揚州チャーハンより古い
0851名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/16(木) 12:21:21.90ID:A7iMV9o00
>>849
何という名前の文献?
0852名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/16(木) 12:22:42.22ID:vVaMUPAi0
駄王w
0853名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/16(木) 13:50:27.42ID:d1U9qDtJ0
>>851
本草なんとかとか
0854名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/17(金) 07:27:16.37ID:0um898+J0
兵士1人の食糧はどれくらいだったのでしょうか。秦王朝の規定によると、重労働に従事する兵士は朝に粟半斗(1リットル。秦代では1斗=2リットル)、夜に粟三分の一斗(0.67リットル)が支給されました。歩哨などの比較的軽い任務は朝と夜にそれぞれ粟三分の一斗(0.67リットル)が支給されました。漢王朝期には、重労働に従事する兵士は1カ月に2斛9斗3升(約58.6リットル。漢代では1斛=10斗、1斗=10升、1升は約200ミリリットル)の粟と、食塩3升(約600ミリリットル)が支給されました。唐代になると、兵士1人につき一日2升(約1.2リットル。唐代では1升=600ミリリットル)の穀物が支給されました。
0855名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/17(金) 16:04:30.31ID:+P9cud1Z0
答えでてるじゃん阿保か
0856名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/17(金) 16:52:27.52ID:7hk9rMjn0
戦争中は毎日三食(?)粟粥なんて嫌だろうなぁ
いや、食べられるだけましなのか?
0857名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/17(金) 18:55:38.85ID:0um898+J0
>>856
日本の江戸時代少し前でさえ
米も麦も粟も食べられず
せめてヒエをたくさん食べたいが農民の夢だったからね

むしろ兵隊になれば飯が食える
日本も農民は米を食べて板を主張する奴がいるけど
軍隊が昭和になっても兵隊になれば米が食えるぞって宣伝だし
戦後もお米の手帳を持って行って記録しないと旅館でも米が食べられなかったから日本人のほとんどは米なんか食べられなかった
江戸でさえ混ぜご飯とかで米の量が少なくて済むと記録しているんだから

本を読んで美化するのは、北朝鮮を素晴らしいとやるのと同じ
それは嘘か、ピョンヤンの一部の恵まれた人だけだったりする
現在でも自分の周りだけ見てこれぐらい普通と言う奴多いけど
数字を出すと東大生の親の平均年収が高いとか
まあ年収1000万でもそこまで贅沢できないとも言えるけど
5ドルのために人をころす気持ちなんか分からないんだろうなあ
0858名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/17(金) 21:41:07.64ID:GbaLGWOa0
タンパク源は豆を乾燥させて砕き、きな粉を固めたものを齧る。チョコレートみたいなものだが、うまくなさそう
当時は粟粥、小米粥が多く、スープを煮立てて分けてもらってアワを入れる
趙の李左車はこれにラードをいれて好評だったようだ。ウクライナ人だと豚の脂たべる民族、サーロ食いっていわれた
獣脂なら保存もきくので趙では扱う商人もいただろう。
後漢では河北では麦が盛んになって、麦飯になったようだ。麦粥はローマ人の主食だし、まぁ普通かな
0859名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/17(金) 21:53:13.97ID:GbaLGWOa0
春秋戦国初期には、チャリオット、3人乗りの戦車が主力で、歩兵が続いた
戦車は食品や煮炊きの道具もひいていたろうから、遠征には便利だがやはり運用が限られるため歩兵が主力になる

そうなると馬車は食品や道具をはこび荷馬車としてつかわれるように代わる。項羽が背中に城責めの道具を担いだように
歩兵も重荷をかついだようだが、漢代には戦車や馬車が歩兵隊に随伴して補給品をつんでいたようだ
0860名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/17(金) 22:33:02.91ID:h5RhMijF0
https://i.imgur.com/QhkgvK4.jpg
0861名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/18(土) 01:22:23.15ID:XFHHEsl70
>>858
李左車がラードをいれたって何に書いてあるの?
0862名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/18(土) 14:56:42.18ID:rhR+wTOD0
司馬遼太郎が項羽と劉邦で油がどうたら書いてたような気がするが
ラード云々は知らんなあ
あと獣脂一杯使うのヨーロッパのイメージだ
同じ古代帝国のローマ帝国は小麦粥と魚醤とニンニクとオリーブ油とチーズとワイン
エジプトのピラミッド建設の労働者はパンと蜂蜜とビールとタマネギとニンニク
0863名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/18(土) 15:40:14.49ID:cWP2I1p80
ローマ兵は野菜を食べたようだが中国では兵隊が食べるイメージないね
ハクサイはかなり後代のものらしいので、アブラナの漬物をたべていたか
ダイコンはピラミッド建設でも支給されて中国に紀元前4世紀には伝わってた
0864名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/18(土) 23:41:16.25ID:gxeeqBLo0
粥に入れるならラードよりまず塩

趙とかで塩採れたんだろうか?
まあ、どうにか調達してたから
群雄割拠で国が成り立ってたんだろうけどね
0865名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/19(日) 00:17:08.32ID:1fal2Vud0
海が無くても内陸部でも塩は取れるぞ
岩塩や井塩とかでな
三国志の蜀とかその塩のおかげで国の経済を成り立たせてたぐらいだしな
0866名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/19(日) 00:24:26.07ID:4NvExMlo0
山西省(略は晋)には解池という塩湖がある。趙の邯鄲は河北省(略して冀州
山西と河北は、大行山脈で区切られていて、1500メートルほどだから低いけど行商ルートは別
晋は山がちで製鉄とか家畜の放牧でたべていて、冀州は華北平原がひろがっていて穀倉地帯
そのわりに河北省にあった中山国や燕が人すくなくよわいのが解せない。じつは大国だったのかもしれないけど
0867名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/19(日) 13:28:20.99ID:aGBjZVC20
>>866
解池がある解県は関羽の出身地で関羽自身も塩の製造・販売に従事(用心棒?)していたのではないかと陳舜臣が著書の中で推測していたな。
0868名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/19(日) 14:39:22.53ID:AYrjk5V/0
塩湖のかん水と小麦粉があわさり中華麺ができ今のラーメンがある
麺が登場するのはもっと後の時代だけど
0869名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/19(日) 17:32:11.95ID:4SU/9Kw50
かん水って別にラーメンに要らないらしいな
美味しんぼのラーメン回で説明していたわ
0870名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/19(日) 20:07:16.98ID:s4J0Woag0
臭みでしかないってやつな
0871名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/19(日) 21:18:48.18ID:4NvExMlo0
>>867
徐晃を大兄といってたけど山西(晋)の人だから同郷でもちあげたのかね
曹操は周亜夫の風があると言っていた
0872名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/20(月) 08:16:10.95ID:Zvb4J4jR0
ニンニクは古代クフ王の労働者に支給されていてとくに重労働に欠かせないとされ
古代ローマではオリーブ油と岩塩とニンニクと赤唐辛子を乳鉢ですり潰しパンに塗ってたべた
中国では春秋以前から小さいにんにくが料理に使われ、漢代に今のニンニクが入ると大蒜とされ、古いものは小蒜とされた
劉邦の嫂がこしらえた羹の鍋にニンニクが入っていたかもしれない
ニンニク発祥の地は山東省とも伝承され、赤ニンニクが生産されてる。あまり馴染みがないが白ニンニクより油が多く味が濃いらしい
0873名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/20(月) 10:19:01.66ID:PcN4vrkX0
関羽の本名は長生ってどこソースなんだっけ?
0874名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/20(月) 11:37:06.47ID:jRDNXBNX0
>>872
あんたの友達にあげる羹は無いから!からのガリガリ攻撃
尚その数年後・・・
0875名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/20(月) 11:40:37.64ID:B3m5mhqK0
>>873
本名というかあざな、通称をちょうせいから雲長に変えたとかで理由は不明
何かの罪で逃げたか、地元でいられない事情があったか、特に理由ないか
塩の密売をやっていて僻地に逃亡してあざなを変えたのではと推測されているみたい
どうでもいいけど、関羽って女の名前らしいよ
確かに、三国志には一言も関羽は男だとは書いていない
0876名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/20(月) 12:17:45.92ID:B3m5mhqK0
>>873
関羽伝
關羽字雲長,本字長生,河東解人也。亡命奔涿郡。
0877名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/20(月) 12:20:02.27ID:B3m5mhqK0
>>873
関羽伝
關羽字雲長,本字長生,河東解人也。亡命奔涿郡。

偽名をトッサに作るとき、長生さんが「関」所をくぐり、空に「雲」が「長」く流れ、鳥が「羽」で飛んでいたからという逸話がある。
0878名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/20(月) 12:22:36.77ID:PaIuc7I/0
○羽って名前が女性のものだとしたら、
項羽おじさんも項羽おばさんになるんだろうか?

○羽って何となく格好いいけど
0879名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/20(月) 12:37:09.36ID:KRC7RXQR0
>>878
お前さん、このスレでそんなこと言って恥ずかしくない?
0880名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/20(月) 12:53:06.91ID:Zvb4J4jR0
項羽の羽はあざなで子羽という説もある
楚王に子羽だと呼ばれると、楚の貴族っぽいね
0881名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/20(月) 13:37:15.75ID:Y7sRH6z10
関羽張飛という諱の語呂の良さから
2人とも改名したんじゃないか説もある
0882名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/20(月) 14:24:34.01ID:1p/zg28Y0
三國志厨は平気でスレチ連投するが病気かなんかなんか?ア?(  ̄▽ ̄)
0883名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/20(月) 14:25:29.06ID:B3m5mhqK0
もしくは名前がなくて劉備が付けたのかも
だから死ぬ直前に羽と飛が来てるとか、張飛のふ化から連絡があったと聞くと
飛が死んだかとか
関羽が曹操から劉備に戻ったり余所者のはずなのに劉備に尽くすのも
記録に残されていない恩があったのかと

状況証拠は、劉ヨウが劉備と関羽は父子の関係と言っているとの記録しかないが
関羽少年が劉備の息子みたいなものなったのなら
0884名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/20(月) 15:09:40.85ID:Zvb4J4jR0
項羽が関中にはいり、懐王にはかったところ「約定通り劉邦を関中王とすべし」と申し付けてきた
諸将には蜀も関中にちがいないと言うものがいて、命令を受けた項羽は范増とはかり劉邦は蜀に左遷した

みな怒り、周勃灌嬰も勧めたので主上は3万の兵で項羽をせめようとした
蕭何は諌めた「蜀という悪地になるとはいえそれでも死ぬよりはましではありませんか」
「どうして死ぬと言えるのか」
「今は万事、項羽に及びません。どうして死なずにおられましょうか。天の与えるものをうけねばかえって咎めを受ける
俗語に「天漢」という言葉があり美しいとぞんじます。(天の河と同義)人の下に屈して伸びた湯王・武王の例もある
願わくば臣は大王が漢中に王となられ、その民を鎮撫してよろこばせ、賢人を招かれますよう・・
巴蜀の地を平定してそのうえで秦に還れば天下を図れるとぞんじます」主上は「よし」といい蕭何を丞相とした

また何のすすめる韓信を上将軍として任じ、秦を平定した
そのあいだ何は巴蜀の地を手に入れ宣撫して諭告し税をとり、漢中から兵糧を送った
漢王が楚を撃つと、蕭何は関中の地で太子を支え兵馬を転送し補給した

漢中の国力もばかにしたものではないな。まぁ当時は流刑地だった
0885名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/20(月) 15:17:43.33ID:r3cHrPo80
>>884
巴蜀はともかく漢中の地を得てた事が重要
実際劉邦の関中攻略も漢中を拠点として行われている
左遷されるにあたってなんとか漢中の地を確保できた事がその後の歴史を変えたと言っても過言ではない
0886名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/20(月) 16:12:33.47ID:B3m5mhqK0
>>884
三秦が漢に負けたのだから、秦の他の血の王だったら勝てなかったかもしれない
0887名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/20(月) 16:28:19.04ID:Zvb4J4jR0
三秦で章邯は西部で咸陽をもらえず、司馬キンは咸陽から東、董エイは北部をもらったといわれるが、北部は異民族の土地で人が少なくおまけ?
章邯にも不満は残りそうだしよくわからない分け方で范増はケーキのように切り分けただけであまり地理知らなかったのかも
武功県あたりから韓信が来るとおもったら迂回して山奥の宝鶏あたりからきたから章邯も「レレレ」
まぁ韓信はそういうヤツだ
0888名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/20(月) 17:15:02.30ID:q3KIglxK0
関中攻めのルート決定に韓信は関わってない定期
中国でも古代から勘違いされてる事実
0889名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/20(月) 17:31:51.51ID:IsB466fj0
韓信「関中へ通じる橋は燃やしましたが命がけで通れる抜け道を見つけてあります」
劉邦「うおおおお!こいつ大将軍で決定やんけ!」

みたいな熱い展開はフィクションだったのか
0890名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/20(月) 17:44:26.60ID:EFFdZu5s0
司馬懿「孔明が兵が武功から来ればまずい、しかし陳倉からくれば憂いはない」
で四百年まえと同じルート陳倉から来ちゃうんだから戦下手よね
0891名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/20(月) 17:54:12.03ID:B3m5mhqK0
>>887
完全な地図もないし、地図は違法だろうしね

>>890
そうでない選択は失敗すると終わりで
全財産をトルコリラに賭けるという選択を今すれば俺より金持ちになれるぐらいのリスクだよ
0892名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/20(月) 19:12:34.28ID:r/JVYvHu0
『なんかやれや!』
(世界史SLG実況
Sid Maier's CivilizationY/SteamPC)
(15:07〜放送開始)

htt://www.twitch.tv/
0893名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/20(月) 23:14:32.89ID:o2Gc9WvB0
今も桟道みたいので交通してんのかな?

さすがに山谷くりぬいてトンネル道が主なのかな?
0894名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/20(月) 23:24:24.67ID:Ss3FQ3tq0
秦嶺山脈は3千メートル級で富士山が連なり衝立になってるようなもの
これを兵士で踏破するのは想像にあまりある
漢中は狭いし山の陰で薄暗く夏は蒸し暑く3大火炉といわれる
ジゴク
0895名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/20(月) 23:33:40.86ID:CNh8ZuKf0
箱根八里の作詞した人は蜀の桟道がどういうもんか知らなかったんだろうな
箱根の山なんぞと比較すること自体が烏滸がましいわ
0896名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/20(月) 23:56:33.42ID:JZNw4CZb0
漢中に行く途中、毎日足を踏み外して落下する人が居たらしいから絶望感凄かったろうな
0897名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/21(火) 00:58:06.47ID:unOrcDcQ0
司馬錯が古蜀をほろぼしたとき剣閣から入ったと言われる
蜀は田舎だが成都平原は関中よりずっと広く、人を増やせば生産力も高い。そのため秦は罪人をしばしば送った
長安君の乱、ロウアイの乱でも大量に人民を蜀におくりつけた
広大な土地なので内政ゲームマニアの蕭何が、ぜひ手に入れて遊びたいと考えるだろうね

蕭何や劉邦がうまれたころ、蜀では太守李ヒョウが山を火で焼ききりひらいて都江堰を作ってる
乾燥した成都平原70万畝もの田んぼに水を流し込み、生産は一気に向上「天府之国」と謳われる穀倉地帯となった

巴は別の民族で、現在の重慶が首都であった。厳顔が張飛とたたかった江州だ。楚と巴はあらそいしだいに押されて領土小さくなった
重慶は内陸奥深くにあるめずらしい国際港湾で、5000トン級のコンテナ船がつける。物流が良いので成都などより発展してる
ライン川のおかげで内陸スイスにも3000トンの船がつけるようなものか
0898名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/21(火) 07:35:31.15ID:JKj1WwMV0
>>891
お前勝ったなww
トルコリラ爆戻ししてるぞww
おめでとう。
0899名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/21(火) 12:32:10.45ID:ltBAuJpU0
秦末に巴蜀の人口は九十万、関中は二百万ぐらいと推定
蜀は東州兵に乱暴されたり後代も虐殺されたり台湾人と被る
0900名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/21(火) 18:31:10.51ID:aMlaKbL90
三国志演技でも目上の人(劉備)に自分の妻を料理として差し出すって美談があったな
晩年の奸臣ぶりがなけりゃ儒家の教えの体現者としてももてはやされていただろうに、まあ料理の神様にはなっているが

あくまで明代に成立した作品での描写だから、そのまま鵜呑みにするのは危険だ。武具や服飾の描写は明代そのままの作品だし。

漢代では食人はタブーだった(王忠のエピソード)が、明代では人肉はありふれた食材だった。こうした影響は、水滸伝などの明代に成立した作品全般に見られる。
0901名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/21(火) 19:53:48.16ID:Sao1PknV0
>>900
三国志ガ○ジ推参!
0902名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/21(火) 21:45:35.04ID:lukORism0
>>878
昔、自分も項羽は羽が名だと思ってたなぁ
関羽のせいだな、うん

コーエー三国志の武将作成で項羽の名前入れても隠し武将として出てこなくて
そこから調べて羽は字で籍が名前だと初めて知った思い出
0903名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/21(火) 23:38:48.56ID:bmuRhOfb0
項籍あんちゃん
なんで項羽って呼ばれるようになったんね?
0904名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/22(水) 00:23:39.50ID:DQVnHK7T0
管仲、鮑叔、子産など
名より字の方が知名度の高い人物は項羽以前にもいるな
0905名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/22(水) 00:32:47.61ID:lWH0DYH+0
つうか山ほどいる
0906名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/22(水) 00:55:47.90ID:vx3g4m+m0
あざなは目上の人がよぶものだが項羽が若くおじ貴がたくさんで子供よばわり
劉邦は本家の劉沢を候どまりにした

下相って土地が項羽の本籍らしいがこれは徐州と淮陰のあいだ
0907名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/22(水) 04:18:09.73ID:eXLOxLlU0
>>906
字で呼ぶのは目上の人だけじゃないよ
むしろ目上の人だけが辛うじて呼んでいいのは諱の方
目下の人は役職付いたらそっちを優先するってだけの話
その辺は通称使ってた日本も同様で役職の話は現代にも残ってる風習やんけ
0908名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/22(水) 05:55:59.93ID:ffPYnblQ0
諸葛孔明
白楽天
劉伯温etc

古来より人気のある人間は字で呼ばれている
人気ある→敬意を持つ→諱で呼ぶのが憚る→字で呼ぶ
の流れだと思う。
ちなみに劉季の場合は高祖ばかりだから名前で呼ばれる機会がほぼなかったと思う
皇帝だとそっちが優先だからね
0909名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/22(水) 12:20:16.73ID:AR7fQB9h0
あざなっていつからなくなったんだ?
0910名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/22(水) 13:46:25.73ID:T3dTTPRk0
項襄の子は周亜夫のあと後任の丞相になってる
従兄弟かなぁ
0911名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/22(水) 16:41:51.53ID:2WWoYUYW0
>>909
普通に共産党政権(文化大革命)からやろ
毛沢東にも字あるし
日本も明治維新で諱と通称を両方持たなく無なっとるし単純に管理のしやすさも含め近代化の流れなんやろな
0912名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/22(水) 18:45:14.84ID:/Rl0yb+q0
毛沢東が即位したら、東が使えなくなっていたな
中国東北地方はどう言い換えるのだろうか
0913名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/22(水) 18:58:45.55ID:M7aBdXGC0
スターリンは毛沢東の愛好とする漢や明の創業者を盗賊とみなし毛沢東思想は共産主義じゃないと嫌悪した
中国でもスターリンは大国思想だと嫌悪
大国に事大しないんだなー
0914名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/22(水) 20:37:21.90ID:iACQbB7U0
韓信隊のメシはあったかくて美味い
しかも塩味きくつて油分たっぷりなんだ
0915名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/22(水) 20:41:25.06ID:rhPDlrB10
>>914
それ史記のどこ出典?
0916名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/22(水) 21:20:49.07ID:iACQbB7U0
いまどき史記ってw
0917名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/23(木) 00:46:24.22ID:ZhEhrMQH0
日本の朝食は魚の干物が定番だが南中国では一般的に塩漬け魚が食べられていて
かん魚という。とても臭いので売ってるのは都市の貧民街と決まっていてイギリスでも港町のスラム街で塩漬け売ってる

北中国は塩漬け肉と野菜の漬物がたくさん食べられ乳酸菌で野菜を漬けるが河北では塩分が多くなりキムチに似たものになる
0918名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/23(木) 01:02:09.45ID:JaJDPtHY0
>>916
楚漢関連で他に何があんの
前漢書とかか?
0919名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/23(木) 02:54:23.20ID:BiP1qwCJ0
ここできくより自分で史記買って調べる
金は無いなら図書館いく。職員に言えば閉架から出してくるばあいもある
0920名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/23(木) 05:02:59.18ID:hBHtf7Dr0
で結局>>914は淮陰侯列伝に書いてあるの?
0921名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/23(木) 08:19:16.22ID:tIPglEGc0
韓信隊のメシはあったかくて美味いなんて
しょうもない事書き込んでるよりはマシだろう
0922名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/23(木) 08:59:57.88ID:lGTWBXc80
料理専門部隊なんかもいたのかね?

兵の士気を高く保つには
日々のメシは重要だろうけど
兵法書にはメシ関連のこと
何か載ってないのかね?
むしろ曹操が自分のメモ帳にいろいろ
記述してそう
0923名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/23(木) 09:36:33.74ID:JIKTRz4f0
>>921
なろう辺りの創作として李左車を登用した後のエピソードにするぐらいやろ
0924名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/23(木) 10:05:45.08ID:iPbFOPEW0
ちょっとしたネタだしそんな怒らんでも...
0925名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/23(木) 11:58:06.12ID:HX7+/N8s0
曹操の梅林の話は実話なのかな?
嘘だと分かったあと下克上されそうなシチュエーションだが
0926名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/23(木) 12:08:24.94ID:0JVLilzl0
呂雉の妹呂須が嫁入ったのは劉邦のナカマをもてなす肉を義理の弟がもってくる
という呂雉の都合だったりして
かなり嫂にいじめられたらしいからな
0927名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/23(木) 12:13:38.79ID:PXMTS+i10
>>912
唐の太宗の諱は世民という有りふれた漢字だったので太宗は”世”と”民”が並ぶケース以外は忌諱しないように布告したので、毛沢東が皇帝になったとしても同様に”沢”と”東”が並ぶケース以外は忌諱にならないと思う。

>>913
大国同士は事大なんかしないよ。
0928名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/23(木) 17:53:52.97ID:olhwkTWR0
けざわ あずま
毛沢  東
0929名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/23(木) 18:07:25.31ID:fvmWdRVL0
さすがにスターリン本人には基本的に遜ってたけどね中国
ソ連とスターリンの方が格上かつ強大なので
0930名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/23(木) 19:18:45.63ID:4+IT+/Rb0
>>929
毛沢東のソ連離れの一因がフルシチョフによるスターリン批判だったが、それは毛沢東がスターリンに一目置いていたのと自分がスターリン同様に死後に批判されて神格化されなくなるのを恐れていたのだろう。
0931名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/23(木) 21:11:15.62ID:RA4jfa1Y0
秦末にうまれたらどう身を振ればいいのだろう
軍で働けば爵位と田宅を賜う制度だしで役人していきるのが賢明か
上は仙人みたとホラ吹けば何万斤の黄金をくれる名君だし
0932名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/24(金) 02:34:14.17ID:/KNcEpul0
軍でちょっと働いたからといって必ずしも田宅を賜るとは限らないみたいよ
実際には適当な土地が余ってたらあげるかも?という条件付きなことも多々あったらしい
0933名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/24(金) 07:18:45.11ID:H+P20Aoi0
秦末なら迷わず近場の趙に走るだろ
0934名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/24(金) 09:23:25.99ID:oi+40Vrq0
秦末なら関中の民にはなりたくねえな。皇帝のために労働させられるわ趙高と項羽に苦しめられるわ最悪。
沛くらいの田舎に住みたい。
0935名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/24(金) 10:22:23.69ID:YJoK/y+d0
俺は巴や蜀だな
徴兵や労役も課されないだろうし
0936名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/24(金) 11:48:39.61ID:dm/8B9710
>>931
役人になれない
人材を求めている時ですら、家臣の誰かに贈り物をして取り次いでもらわないといけない

そうしないと国の正式の使者でさえも王には会えない
0937名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/24(金) 12:14:18.99ID:H+P20Aoi0
それもう中華の文化なんだろうな
後漢末に蜀の張松が、益州牧の使者でありながら賄賂なしでは魏王に会えなくて憤慨したとかしないとか
0938名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/24(金) 12:27:01.35ID:cIJMxFMT0
>>931
どの程度の生まれを前提にするの?
当時はある程度裕福でないと読み書きの勉強なんてできないから役人になるための最低限の教養すら身に付けるのは無理だよ
0939名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/24(金) 13:35:02.10ID:WzDbfiVP0
>>938
陳勝や劉邦みたいに農民層でも読み書き出来る奴はおる
0940名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/24(金) 13:55:41.64ID:zPA2AfgM0
秦国では人は君子と小人に分けられて君子は精神労働者で、農民や商工業は肉体労働で尽くす小人と規定された
他の六国はそこまで徹底的でないため陳平みたいに貧民も学問したようだ
0941名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/24(金) 14:55:08.63ID:H+P20Aoi0
トラック運転手の息子で東大生とかいるようなもんか
0942名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/24(金) 15:01:50.90ID:yItiDOMT0
貧乏国ほど藩校建てたり農民の底上げ人材育成にねっしんで
小藩から明治の高官がでたようなもの
0943名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/24(金) 15:09:09.49ID:zNA23RoT0
南陽とか比較的平和でいいかもね。一直線に洛陽にも長安にもでれるし金属業が盛ん。
荊州の商人なら長江に乗って蜀から呉、海に出れば斉や南越どこでもいける。絹や鉄器でもうけられる
0944名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/24(金) 15:48:43.75ID:NO53nqyH0
>>937
魏王って曹操だよね?
曹操の時代でも賄賂とかとってたのかあ
0945名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/24(金) 15:57:15.95ID:dm/8B9710
>>938
私の先祖は、字も書けず、数も数え切れなかったが数万の軍勢を動かした
0946名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/24(金) 15:58:55.55ID:dm/8B9710
>>941
理論上いそうであっても、取り換えられた子は賢くてもトラック運転手で
中卒だか高卒だし、資金がないとまともに勉強できないし
必要な情報も入らない

異常に優秀なら別だが
0947名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/24(金) 18:16:30.15ID:3qjZaMfq0
>>939
家業が農業だからといって貧乏とは限らないからねぇ
農家としては大したことなくてもなんらかの副収入があるかもしれないし
親族やコネ次第でお金の問題は解決し得る
劉太公家は劉邦と末弟が遊学?しとるレベルやし少なくとも太公の代からは並みの農民ではなさそう
0948名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/24(金) 18:20:04.41ID:dm/8B9710
>>938
かなり裕福な極一部しか人間と思われていない
貧しいとか低い身分と書かれていても豪族や名士と比べればってだけ
今の公務員がそこまで高くないけど庶民には憎まれるぐらいの収入があるように
0949名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/24(金) 18:47:08.86ID:kBErtXts0
韓のあったエイ川郡は先進地帯で多くの奴隷を使っていた。貴族は絹の着物に毛皮の襟巻きだが家奴隷はウール毛織物をきていた
褐という
また家奴を運ぶ車は毛布で覆われた

ローマ人は同時期に貴族も奴隷もウールだ
ただ白いトガ着用は元老院議員にかぎられた
0950名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/24(金) 21:51:52.30ID:kwXkd2ms0
>>943
荊州は当時未開地
後漢前に開発が進みフロンティアとなりここの出身者である光武帝が天下を取ることになった

その後も後漢初期は蛮族の蜂起が続く
0951名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/24(金) 23:35:49.59ID:2Rwor+9P0
主上が褐衣の劉敬にあって建言されて五百金を与える
とか度量しめす、そんな小噺多いけど
楚王趙王もそんな大器量だったんだろうか

陳勝が義兄にケチ野郎と悪評広められたため人が去ったという悪例もあり
上に謁見して何かしら役立てるならその者には褒美百斤、文官には絹の衣
武官には恩賜の剣とか細かく礼法制化されてそう
0952名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/25(土) 09:28:11.54ID:MvPamSXr0
>>951
物凄く珍しいから記録に残っているだけですよ
そこから他がそうだった可能性はかなり低いかと
もしあったら、実は裏があったとしても美談として残っているかと
0953名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/25(土) 12:29:53.60ID:MvPamSXr0
>>944
外交のような窓口がないから魏王以外でも君主に伝えるには誰かの取次が必要

たまに取次ぐらいで権限握るかwとか笑う人いるけど

宦官が本来皇帝のお世話係のはずが権力を握ったり
蜀でも魏でも、事実上の最高官職の録尚書事は文書の取次業務だし
取り次がないという方法で、今の国会でいう法立案も予算案も全部通せなくなる
成立するかどうか以前の問題で賛成反対の場に出せない

要するに王に会うためには王に近い臣下の誰かに贈り物をして取り次いでもらわないといけない
王が会うか会わないかを決める前段階で、王の所にその情報がいかない
変わり者の善良な人がわざわざ伝えるとかやれば別だけど
その場合もその人が取り次いだから会えたわけだし
0954名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/25(土) 15:04:25.72ID:pwrW3/SX0
嫌儲で韓信のスレッドが伸びてるのでここの兄衆が出向いて一喝してやってください
【歴史】「韓信」という2000年前に実在した中国クズニートの人生が嫌儲民そっくりな件 [667872883]
https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1640400933/
0955名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/25(土) 15:47:31.74ID:ng9TUHc00
始皇帝は五蟲といって賄賂と儒者と任侠団体をきらってた
あと2つは商人と工芸だったような
0956名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/25(土) 19:43:28.44ID:MvPamSXr0
侠って狂っているって意味だし
どのような褒美も喜ばず、どのような刑罰も恐れない

どれぐらいかというと
無報酬で刺客を行い、しかも、相手を信用するために私を冤罪で
無実の罪で右手を切り落として、私の妻子も処刑して市場で焼いてさらしてだよ

それで自分も家族の仇を討ちたいと言って相手を信用させてスキを見て刺す
そして、自分は3つの罪を犯したから生きてはいけないで自害
0957名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/25(土) 19:50:25.07ID:amUr0B/A0
この時代は中国はまだ椅子ははいっておらず、みな板の間に正座した。殷から周は正座が作法で、後漢から異民族の流入でみだれたが
宋代までは正座が正式とされた、王様や偉い人は一段高いところにすわった。玉座
朝鮮は辺境なので普通は膝などたてて座る。日本もそのようだったが江戸期に礼法として正座がやかましくなった

日本の畳というのはもともと全部敷き詰めるものではなく、板の間に一部におかれ主人などすわる
劉邦もそのような物に座ったと考えられるが正座を崩すとちんこがみえてしまい儒者は嫌った
始皇帝や項羽は礼儀正しくきちんと正座したんだろうな
恵帝以後は正座で朝見したと考えられるが武帝は衛青など親しい身内のまえではオマルに座りうんこしたり雑だったようだ

秦の役人は板の間で正座して一石の重さの竹簡を積み(やく40kg)ぜんぶよむまで休息はゆるされんとか、きびしー
しかも皇帝自身がやってるんだからもんくもいえん
0958名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/25(土) 21:41:24.26ID:MvPamSXr0
アメリカの大学生は大量の本を読週で読まなきゃいけないとかあるけど
実際には多分読んでないよ
それに逆に読んでも全部どころか全然頭に入らない
優秀な奴は別でも、大学伊大庵、大学一般ではそんなことはない
0959名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/26(日) 00:39:42.75ID:KKBTmsqv0
>>875
髭は?
0960名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/26(日) 19:06:55.51ID:opXfAKPx0
県令というと使えない役人を「田舎の県令でもやっとけ」というイメージがありますが、
中央集権化で王様は雲の上の存在で侯の地位も下がり気味だから、戦国末期では県令はあこがれで
立派な城に住み一国一城の主だから、夢のような生活ができると庶民は思った
じっさいは九卿が二千石、郡長が二千石、いなかの県令は四百石という俸給で、やすかった
韓でも県令は、なんとしても長く居座ってまた一族に相続させたいと手を尽くしたと指摘される。

安月給で憎まれて殺されるとは割りに合わないが、劉邦をよびもどすとき「県令(沛公)にしてあげる」というえさで
反乱のリーダーに引きうけたことからも魅力があったようだ
0961名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/26(日) 19:36:32.30ID:SI4w4jq50
アメリカの市長とかも終身刑の囚人を釈放する権限があったみたいだし
庶民を直接支配するのは県令だし、刑罰を加えることも釈放することもでき
給料は月給一万銭もないはずの人が五百万銭で官職を買ったりしている
0962名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/27(月) 07:23:31.73ID:wbW7uc400
つまり、庶民出身のイメージの強い劉邦や秀吉も今の俺らよりゃよっぽど上級、現世に例えりゃ戦後食糧難の頃にヨットで遊んでた石原兄弟くらいの富裕層の子弟だってことか
0963名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/27(月) 07:52:41.47ID:rJDsIpdR0
楚漢戦争の登場人物はほとんど上級国民よな
0964名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/27(月) 08:12:07.41ID:63YwdwNY0
劉邦の亭長が100石とり、がいちおう最低だが、左吏などこの半分の50石とり役人もいたらしい。100石が一千万円に相当すると、500万の役人もいた。
県令は年収4000万円だ、九卿で2億円、三公で10億円となる、半分か穀物と金銭で払われる

日本人の感覚だと九卿で2億でも役人としちゃ高杉だが、列侯などはさらに領地を持ち高収入であった

ソ連では国民が飢えてるときに特権階級は年収3億以上と言われる人がモスクワに3万人住んでいた
大陸だと桁はずれの貧富の差がありこれがオソロシア帝国貴族だ
かれらは空港からアエロフロート専用機を飛ばして秋葉原で日本茶を飲んだり、ロンドンでイギリス紅茶を飲んだりしたといわれる
0965名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/27(月) 11:52:46.89ID:wbW7uc400
楚のならず者「臆病者に股くぐらせて大はしゃぎしたら10年後呼び出されてヤベェコレヌッコロサレルと思ったら年収3000万の警察署長に任命されたけどコレなんかの罠すか?」
0966名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/27(月) 17:06:31.82ID:Dh7tsdIh0
反乱で始めて台頭したっぽい人も一部いるけど
たぶん劉邦さんはもともと名望家の類なので、どちらかといえば名士よりの立ち位置よね
0967名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/27(月) 17:31:30.92ID:zJT3I+As0
親や先祖を馬鹿にする事に繫がるし殊更貧乏家アピールする理由が儒教含めなくても少ないように思うんだよなあ
出自をイジる王朝創始者が多い中貧乏だって伝聞がある方が信じられるけどね
別に劉邦が名家でも名士でもいいけど色々整合性取れないし現実的ではないと思うなあ
0968名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/27(月) 19:01:21.31ID:psGCPlGP0
朱元璋みたいなガチ貧民じゃないだけで普通に市井の人だよね
0969名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/27(月) 20:27:47.00ID:9SKUpoOx0
>>965
自分との立場の違いをわかりやすく教えてやるためにマウント取っただけ
これは一見報恩のための行動に見える婆さんへの出世払いも同じ
0970名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/27(月) 22:38:53.43ID:887iDDQa0
>965
ならず者が取り締まりの指示役にまわったとして、組織が成立するとは思えないけどな
0971名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/27(月) 22:57:20.80ID:Dh7tsdIh0
>>967
実際のところは分からんけど
士の立身出世エピはおそらく漢初前後の流行りだし殊更アピールされても不思議はないかと

戦国時代の著名な説話を思い浮かべればイメージできると思うけど
同じような立身出世物語を持つ人物が多く貴人らしい貴人の活躍はほとんど伝えられていない
政権の枢要にはなお高貴な生まれの人物が並んでいたと思われるのに彼らを称賛する話は異常なほど少数
0972名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/27(月) 23:11:51.05ID:G/3uOplw0
春秋時代は逆に貴族の話ばっかで
その貴族が没落したり、没落から復活したみたいなエピソードが多いな
0973名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/28(火) 04:25:25.17ID:AFpBysZl0
亀田とか押尾とかローラ父とかみたいのを署長にしたらその地域がどうなるか社会実験したら良いさ
0974名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/28(火) 09:07:51.23ID:LNg2SBYo0
>>972
戦国前期成立とされる左伝の内容がそれなんで
多分その辺りまでは政治も知識も概ね貴人が独占してたんだろうね
0975名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/28(火) 10:18:21.61ID:iBVOg9l/0
>>970
むしろ浮浪者時代の韓信が
町でやらかして、
取り締まられてたのかもかねw
楚のならず者とされてるけど、
実は食い逃げ捕まえたり、
こそ泥取り締まる自警団だったかも
0976名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/28(火) 12:30:02.10ID:hzUsnWGZ0
>>967
戦国時代以降は身分が低くても必要から採用していたから
立身出世話があちこちであったんでしょう
0977名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/28(火) 15:08:44.32ID:JQh2JxzD0
陳嬰は県令から楚の上柱国して劉邦に投稿してうまくのりきってるね
0978名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/28(火) 17:18:04.19ID:LI545l510
ハガキ送ったのかな
0979名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/28(火) 17:18:37.18ID:/3J9ginW0
孟嘗君や信陵君の食客三千キャラが大いに持て囃されてるのは
戦国後期から漢代にかけての士&庶民層上位(劉邦みたいな遊侠含む)の期待が彼らに仮託された面があるだろうからなぁ

逆にそういった逸話を持たない貴戚の大物たち
たとえば戦国屈指の功臣といえる樗里子とか穣侯が説話においては完全に脇役扱いされてるのはその裏返しっぽい
0980名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/28(火) 18:15:48.05ID:XPt3LKZg0
文は送ったと思うよ
0981名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/28(火) 20:01:12.39ID:noPU5KNF0
張良「きょうのお便りは楚の上柱国の陳エイさんからです。。ナニナニ自分を楚の相にしていただきたい」
主上「〜採用、あいつ楚の若者に人気だもんね」
張良「この番組は呂皇后の提供でお送りしました」
0982名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/29(水) 00:23:06.90ID:/R/Za+lL0
普段から剣見せびらかして街で好き勝手する
無頼漢韓信
ヤツを諌めるために立ち上がり
「その剣で俺を刺してみろよ!」と
自分の命を差し出して韓信と向きあって
見事なまでに
韓信を更正させた立役者じゃないか
0983名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/29(水) 03:21:50.75ID:yAlF85l80
陳嬰の生き様大好き
0984名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/29(水) 18:31:00.94ID:4TA9q6J40
役人なのに慕われているからね
0985名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/29(水) 18:39:31.25ID:ZFNqwzwH0
田舎だからゆるかっただけで
そのうち「明日まで現地人を百人ころして城門に吊るしておけ、皇帝の命令だぞいいな」となるんですな
0986名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/29(水) 20:21:28.27ID:4TA9q6J40
近現代でも共産主義国では死刑のノルマがあるから
犯罪者がいませんと言っても言い訳扱いされる
0987名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/29(水) 20:21:31.73ID:4TA9q6J40
近現代でも共産主義国では死刑のノルマがあるから
犯罪者がいませんと言っても言い訳扱いされる
0988名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/30(木) 17:03:58.69ID:/XPgM4kF0
次スレたのんます
0989名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/30(木) 17:16:38.03ID:tgPdjqhi0
項羽と劉邦 その15
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/chinahero/1640852154/
0990名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/30(木) 17:26:33.19ID:0egmmNIB0
>>989
スレ立て乙
0991名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/30(木) 17:46:21.99ID:/XPgM4kF0
おつでごわす
0992名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/30(木) 17:46:43.30ID:/XPgM4kF0
埋め宮アンナ
0993名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/30(木) 18:21:36.82ID:0egmmNIB0
うめ
0994名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/30(木) 18:31:41.97ID:qWaKrQlj0
乙梅
0995名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/30(木) 18:49:54.67ID:0egmmNIB0
宇目
0996名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/30(木) 19:14:04.59ID:/XPgM4kF0
埋めッシュ
0997名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/30(木) 19:14:22.95ID:/XPgM4kF0
埋め星デンカ
0998名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/30(木) 19:15:47.95ID:io/zKQJq0
秦兵を生き埋め
0999名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/30(木) 19:17:18.35ID:0egmmNIB0
999
1000名無しさん@お腹いっぱい。2021/12/30(木) 19:25:02.77ID:/XPgM4kF0
>>998

うけた
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