インダス文明末期の紀元前1900年から紀元前1300年ごろに、インダス川流域からの植民者が
ガンジス川とヤムナー川の河間地方(ドアブ)へとすみついた。やがてインダス文明が崩壊すると、
インドの文明の中心はインダス川流域からガンジス川流域へと移動した[2]。紀元前1000年ごろに
先住のドラヴィダ人にかわってアーリア人がガンジス川流域に住み着いた。
やがてガンジス流域を中心に十六大国と呼ばれる諸国が成立し、互いに覇権を競うようになった。
このころの時代をヴェーダ時代と呼ぶが、最も古いヴェーダであるリグ・ヴェーダにおいて神聖な川と
されているのはシンドゥ七大河のインダス川とサラスヴァティー川であり、ガンジス川は含まれていなかった。
しかしそれに続く後期ヴェーダ時代に編まれた『サーマ・ヴェーダ』・『ヤジュル・ヴェーダ』・『アタルヴァ・ヴェーダ』
の3つのヴェーダにおいては、ガンジス川は神聖な地位を獲得することとなった[3]。十六大国は抗争を
繰り返すが、やがてその中から現在のビハール州を本拠とし、ラージャグリハを首都としたマガダ国と、
現在のウッタル・プラデーシュ州北東部を本拠としたコーサラ国が強大化していった。

このころ、当時支配的だったバラモン教に対する批判として、ブッダによって仏教が起こされ、
またジャイナ教もこの地域で起こった。やがてパータリプトラに首都を移したマガダ国がコーサラ国を
破ってガンジス流域を統一した。

マガダ国ではいくつもの王朝交代があったが、紀元前317年頃に成立したマウリヤ朝はアショーカ王の
時代にインドをほぼ統一し、初の統一王朝となった。この後は王朝分立が続いた後、330年ごろに
パータリプトラにてグプタ朝が成立し、再びガンジス流域を統一した。

その後、ガンジス流域を統一したのはデリーに本拠を置いたデリー・スルターン朝及びムガル帝国である。
ムガル帝国の衰退後はアワド太守やベンガル太守が自立し各地を治めたものの、やがて河口部の
コルカタに本拠を置いたイギリス東インド会社が1765年に下流域であるベンガルの支配権を獲得して
以後領域を拡大し、インド大反乱で支配権を取り上げられて以後は全域がイギリス領インド帝国領となった。