戦時下、隠された二つの地震 同級生の死を語り継ぐ(1/2ページ)
2011年1月9日9時2分

戦時下だった66年前の冬、東海地方を2度の大地震が襲った。
東南海地震と三河地震。
合わせて死者3千人を超す惨事は、政府と軍による情報統制で隠された。
東南海地震で工場が倒壊し、学徒動員の同級生23人を失った長坂宗子さん(81)=名古屋市千種区振甫町=は、今も体験を語り続ける。
そうさせるのは、「何が起きたかを後世に残さないと、亡くなった同級生たちが救われない」との思いからだ。

長坂さんは当時、愛知県豊橋市立高等女学校の3年生。
学徒動員のため、同県半田市の中島飛行機製作所山方工場で同級生約300人と働いていた。
「お国のために」と張り切り、偵察機「彩雲(さいうん)」の風防ガラスを作った。

1944年12月7日午後1時36分。
昼休みを終えた直後、突き上げるような揺れが襲った。工場の天井に張り巡らされた直径10センチほどの鉄パイプが、のこぎり屋根もろとも崩れ落ちた。
作業台のすき間にしゃがんで直撃を免れ、崩れた屋根の窓を割って外に出ると、れんが造りの工場はぺしゃんこになっていた。

同じ班の仲間は無事だった。だが、翌朝の点呼で整列すると、人数が少ないクラスがあった。
「みなさんの同級生が地震で死んだ」。学年主任が声を絞り出した。

「それからはみんな半狂乱でした」。23のひつぎがトラックで故郷へ運ばれた。
亡くなった友人の一人は、父の出征で豊橋の親戚の家に疎開してきていた。
「死ぬために疎開してきたようなもの。かわいそうで仕方なかった」

同県防災会議によると、山方工場では153人が死亡し、動員学徒が96人を占めた。
工場が軟弱な埋め立て地に立っていたうえ、作業用の空間を確保するために内部の支柱を撤去していたことが強度の弱さにつながり、被害が拡大した。