利根川の情報下さい
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
NGNGお願いします
0002信濃川
NGNG0003三流土木技術者
NGNG利根川の何を書けばいいのか分からないじゃないか。
利根川の別名は坂東太郎と呼ばれ、関東地方を流れる暴れ川である。
江戸時代以前は、利根川は東京湾に注ぐ川であったが、江戸幕府は、江戸を水害
から守るために、江戸時代初めに、河道を付け替え、鬼怒川と合流させた、そのため
現在では銚子付近で太平洋に注ぐ川になっている。
江戸時代を通じて、幕府によって改修工事が行われたが、18世紀の後半に、
利根川の上流にある浅間山が噴火をした。これによって発生した火山灰等により
河床高が上がり、江戸時代後半には大水害が頻発した。この土砂は、明治時代
以降、浚渫船を用いた浚渫を行い撤去したが、この量は、パナマ運河の開削工事
で発生した土砂よりも多い。
人工的に水路を掘って利根川を利根川を東遷させたため、現在でも利根川から
分流して東京湾に注ぐ江戸川の方が川の勾配は急である。したがって、埼玉県の
あたりで堤防が決壊したら東京(特に下町)は水浸しになる。江戸時代には30年ごと
にこのようなことが起きていたらしい。これが明治以降は河川改修を行ったためさすがに
減ったが、最後に起きたのが、戦後直後の昭和22年(1947年)のカスリーン台風、
これは、戦争で治水にお金を投資できなかったから起きたとも言われている。
江戸から明治にかけては、利根川は舟運に用いられた。東北地方から南下してきた
船は、銚子から利根川や運河を通って江戸まで物資を運んだ。講談の名作に「天保水滸伝」
という話があるが、これは江戸時代末期の利根川を舞台にした話である。水運で物資や人
や金があつまり栄えていたと言うことだ。
また、舟運を利用して特産品を生産して大消費地の江戸まで運ぶこともおこわなれていた、
銚子や野田では現在でも有名な醤油メーカーがある。その他の特産貧もあるだろう。
以下のHPを参照すること
http://www.tonejo.go.jp/jiten/
0004三流土木技術者
NGNG上の最後の特産貧は特産品の誤変換だ申し訳ない。
江戸時代の利根川の治水は、旗本の伊那氏が主に担当していた。
当時は、河川の両側に連続堤防を作るような現在の治水方法ではない。
もっと自然の原理を利用したものである。遊水地を利用した。関東流とか
伊奈流と呼ばれる治水方法である。
遊水地とは、洪水の時にここにいったんここに水をため、洪水後にゆっくりと
流下させる施設であるが、明治時代までは霞堤等を用いた自然の遊水地を用いていた。
行田市には中条堤と呼ばれる堤防も有名である。これは下流側への洪水を防ぐと供に
氾濫水を集め、洪水後に本流に戻す堤防である。このような堤防は河道に水平に設置されている
のではなく、上流に行くほど広がっていく構造をしている。
しかし、堤防の上流側と下流側の住民の利害が対立することもことも多かったようである。
(小生の住んでいる多摩川流域にもこのような堤防がある現在は、使っていない堤防になって
市街地の中に残っている)
現代の遊水地(渡良瀬遊水地等)は、基本的に国が買い上げた国有地であるので、この中で耕作等の
土地利用は行われていないが、江戸時代には、人が住んでいて、生産活動を行う場であったようだ。
人は盛り土をした水屋と呼ばれる家に住み、田畑を作り生活していた。
明治時代以降、足尾銅山の鉱毒事件以降に渡良瀬川に大きな遊水地が作られたが、基本的にこのような
治水法を放棄したようである。結局河道の浚渫や堤防のかさ上げが行われ、川の両側には連続堤防が
整備された。
0005三流土木技術者
NGNG埼玉新聞だ。
検証・利根川−堤防は大丈夫か−
http://www.saitama-np.co.jp/main/rensai/bunka/tone/toneindex.htm
0006名無しさん@お腹いっぱい。
NGNG最近聞かないのですが。
0007三流土木技術者
NGNG0008名無しさん@お腹いっぱい。
NGNG現状はどうなっているのですか。
0009名無しさん@お腹いっぱい。
NGNG0010名無しさん@お腹いっぱい。
NGNGhtp://www.nacsj.or.jp/database/tonegawa/tonegawa-011129-report.html
0011三流土木技術者
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