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クルスク戦その後は?

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0001名無しさん@1周年NGNG
43年のドイツ夏季攻勢(7月もしくは4〜6月頃でも)、チタデル作戦でクルスク地区に集結したソ連軍が壊滅していたならば?

@43年夏季に機甲部隊が消滅して必死に再建、43年冬季のソ連軍の攻勢はありますか?そのときのソ連軍の目標はウクライナ周辺でしょうか?
A44年春季もしくは夏季にドイツ軍の4度目の大攻勢は果して可能ですか?
B44年はドイツ軍は4度目の大攻勢は行えず(行わず)、ソ連の攻勢に機動防御戦と陣地戦で対抗でしょうか?
C44年ドイツ軍は年々攻勢地域が縮小していますが、攻勢するとしてその場所は?
D43年冬季〜44年のモスクワ〜レニングラード間の戦線の状況は?
E43〜44年イタリアもしくは北フランスの連合軍の攻勢に対してドイツ軍は?
F同盟国やトルコの状勢はどうなりますか?

@〜Fのことについてみなさんの意見が聞きたいです。

0002名無しさん@1周年NGNG
どのみちドイツは負けてる
0003マンシュタインだっけ?NGNG
クルスクのソ連軍縦深陣地を突破するのは、まず不可能だって判明した、
7月12日頃、それでも、ソ連軍の予備兵力を徹底的にたたくべしとか、
主張したじゃない。

結局、連合軍のイタリア上陸だかが重なって、ヒトラーにとめられたけど、
やっても無駄というのが、当方の意見。

「ソ連の予備兵力を叩いて出血死させる」という発想そのものが、無限の生産力をもつ
巨人国家あいてに意味はないと思う。

オレ自身が、マンシュタインの億分の一の知性しかないけど、幸いにして歴史という
距離をおいて見れるから、そう判断します
0004名無しさん@そうだ選挙にいこうNGNG
クルスク戦がドイツ側の思惑通りに進めば、ソ連軍に多大の出血を強いる
事によってソ連軍の攻勢を(一時的に)食い止め東部戦線のドイツ軍を
立て直す時間稼ぎにはなったと思います。

ただ攻勢に転じられるかと言うと、まず翌年の44年夏期のドイツ軍の攻勢
は無理です、理由は44/6のDデイで西部戦線の状況が激変するからです。
その前の冬季と雪解け時期の春期は気候的に攻勢に不向きな条件ですから
もっぱら防備を固める事に専念するしかないのでは?
結局、東部戦線でのクルスク戦以降は防備一辺倒で局所的に機動反撃して
ソ連軍の進撃を遅らせる程度でずるずると後退するしかなかったのでは?
ただ史実よりソ連軍の進撃が遅れるだけ、ひょっとすると最後にベルリン
を占領したのはソ連ではなく連合軍だったかもしれません。
0005gerhinNGNG
マンシュタインの予備兵力殲滅作戦を実施すればどうなったか、
という話はよくききますが、ひとつ忘れていけないことは、
「敵を叩けば自分も相応の被害をうける」
です。
おそらく翌年の攻勢はおろか、戦線の消滅まで招くような気がして成りません。

>3,4氏
・・・この辺、検討を願えたら幸いです
0006自営業NGNG
人的資源が無尽蔵と、レンドリースの兵器の物量ではね・・・・
ドイツの人口は当時は7〜8000万くらいでしょ。

考えたくないね・・・・・・・
仮想戦記の世界だよ。
0007名無しさん@そうだ選挙にいこうNGNG
西ドイツが少し広くなる。
0008>7NGNG
赤軍の東進を少しでも長く、ひきのばせたろう、という発想だね?
0009>7@`8NGNG
どーだろう。終戦末期は東部戦線での(特にSSの)サボタージュが
激しかったから、少々クルスクでソ連軍を一時的に頓挫させたと
しても、それによって生じたメリットは最終的に西部戦線に振り向け
られたような気がする。すなわち、ソ連軍の西進を止めた分だけ
同じくらい西部戦線の東上も止められてしまうということ。
0010>7〜9NGNG
おお! よく読むと、43秋〜45敗戦までのヒトラーの戦争指導の
核心に近づいてますぞ。
彼は「ダンケルク後もイギリスと同盟を結べる」と信じたと同じに、
「英米軍が、ソ連の東欧席巻におそれをなし、反共十字軍としてナチsと手を結ぶ」
と信じてたらしいから・・・。
SSはその政策遂行手段でしょ?
0011>10NGNG
終戦間近にSSが東部戦線でサボタージュしたのは、ソ連軍捕虜になるのを嫌った
からです。捕虜の扱いのひどさ(特にSS兵に対する)が知れ渡ってたんですね。
ブタペスト救出作戦ではSS機甲旅団長レベルの判断でサボタージュが行われたと
か。ゲームのヒストリカルノート由来の話で、資料の裏をとったわけではありま
せんが。
0012ベンゼン中尉NGNG
クルスク戦は、部分的にドイツが勝ったのだが、大勢では負けだと言われる。クルスク戦で、ドイツ機甲部隊は反撃の兵力を失い、守勢に回らざるを得なかったのだ。
10>これは間違いです。そのころの武装親衛隊は火消し役と言われ、最前線の激戦地区に投入されていたのです。装備も陸軍よりも優遇され、そのあまりに過酷な戦闘から、負傷もしくは戦死者は全体の九割近くに達していたのです。

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