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軍版住人の李舜臣の評価は?

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0001名無し三等兵04/02/16 12:47ID:aRZfZ/C/

デ・ロイテル、ネルソン、東郷平八郎(李舜臣)は世界3(or4)大提督と呼ばれる

李舜臣は本当に凄かったのか?
それともただ輸送艦隊を狙っただけか。
軍版のエロい人たち、教えろ。

0202名無し三等兵04/02/24 18:46ID:QRo9ucMW
>>197
やはりそうか。

2chでは定説として流布しているが。

「坂の上の雲」だったのだろうが、そのソースは何だったのだろうねえ。
0203名無し三等兵04/02/24 22:45ID:???
>>202
確か水雷艇の艇長が言った事が、
東郷が言った事にされたという話を聞いた事がある。

うろ覚えなんで事実か否かは知らぬが。
0204李舜臣の活躍、記述例04/02/24 22:51ID:???
日本〜釜山の間の補給路が李舜臣の水軍によって遮断されたという「神話」は一人歩きし、
いろんな本で無造作に援用されている。
さしあたって手頃な本屋で立ち読みしてみた。

日本文芸社「歴史新聞」文禄の役の項は、
「朝鮮海峡の補給路を遮断された」
と表記している。
朝鮮海峡とは日本と対馬海峡の間約50キロの海路を指すが、
この間の補給路が遮断されたという証拠はない。
なぜなら李舜臣が日本船団の本拠地である釜山を襲撃したのは一度だけで、
この海峡の間で日本船団を襲撃した記録は皆無である。
しかもその襲撃によって補給路が遮断された事実はない。

このような誤った前提は、次のようなトンデモない見解を生む。
0205李舜臣の活躍、記述例(2)04/02/24 22:54ID:???
「2時間でマスター・戦国早分かり」(題名未確認)
金○○○郎 中○出版(あえて伏字)
ここででは、「李舜臣の活躍で食糧が運べなくなった。
その表れとして平壌の小西行長は水軍が大敗した直後(文禄元年七月)は敵を撃退できたのに、
半年後は食糧難になって敗れている。」(要旨)
平壌の敗退は食糧難とは関係もなく、戦力の多寡が主因。
平壌に潤沢な補給があったとは思えないにせよ、
釜山〜平壌という陸上補給路の長大さのためで海での敗北とは関係はない。

著者は塾教師の経験をもつという。
この本は慶長の役の清正の蔚山戦を「敗北」と規定しているほどの暴論を展開しており、
こういう人が若者に講義をしていると思うとゾッとする。
恐ろしい事だ。
0206李舜臣の活躍、記述例(3)04/02/24 22:56ID:???
上述「2時間でマスター・戦国早分かり」(題名未確認)でさえ、
慶長の役の制海権には触れていない。

ところが、
集英社「まんが日本の歴史」(全20数巻)では、
慶長の役について、

「陸と海で苦戦を続け、海では大敗しました」
「海からの補給を閉ざされてしまいました」(詳細には記していないが、
日本〜半島の補給が閉ざされたというふうに読める)

と絵の説明に書いている。
慶長の役では、日本〜半島の補給路は微動だにしなかった事は、
上のほうのレスにもある。

漫画を読んだ子どもらは、
「ああ、秀吉軍は食糧が生みから半島に送れなくなったので、困ったのだな。
太平洋戦争と同じだな」
というような誤った認識を抱くのは間違いない(書き手本人など大人が間違っているのだから嘆かわしい)
こうした、明らかな謬見が一般化しているために、それが定説となり、
世の中に流布する。
恐ろしい事だ。
0207李舜臣の活躍、記述例(4)04/02/24 22:57ID:???
一方、
山川出版「日本史広辞苑」や、
学研、教育出版の中学校参考書(各一冊)
は、李舜臣の活躍ぶりを美化している部分はあるものの、制海権には触れていない。

山川「日本史広辞苑」はさすがに専門書らしく、
「沿岸の制海権を確保した」
と、厳密に記述している。
0208名無し三等兵04/02/24 23:03ID:???
204の訂正
朝鮮海峡とは、釜山と対馬の間の海峡の事。
0209名無し三等兵04/02/24 23:43ID:G1TaTcnO
俺の持ってる小学館(講談社だっけ?)カラー写真たっぷりの
ブリタニカ日本百科事典なんてもっと凄いよ

秀吉の朝鮮出兵の記述が無いの!
で、いきなり日本軍大敗!とか出て来るのよ
秀吉の天下統一と同じくらいのスペースで
その次あたりにいきなり大敗!って(w・・・
開戦が載ってなくていきなり敗戦かよ!
真珠湾が無しでいきなりミッドウェー載せるような暴挙

この本は結構ベストセラーだから持ってる人多いんじゃない?
他にもつっこみどころ満載でした
0210これでいいですか?04/02/25 00:04ID:???
朝鮮南岸へ上陸した日本軍は破竹の勢いで進撃し、瞬く間に漢城、平壌など
朝鮮の主要都市を攻略し、一部は明領内にまで到達しました。

しかし、朝鮮の道路事情は極めて貧弱で、しかも、各地には*ゲリラや山賊が
跋扈していました。(*ゲリラや山賊→韓国では、義民・義兵と呼ばれます)
そこで、日本軍は黄海へ水軍を進め、前線近くまで海路で物資を送りたかった
のです。しかし、それは李舜臣が率いる朝鮮水軍の活動により阻止されていま
した。
このため、日本軍は前線への輸送を、困難な陸上輸送に頼らざるを得なくなり
ました。日本軍が進撃するにつれて、せっかく釜山などに陸揚げした物資も、思
うように前線へ送れなくなっていきました。
また、朝鮮はもともと日本よりずっと人口が少なく、田畑は荒れており、食糧な
どを現地で入手することも難しかったのです。
このような事情から、前線の日本軍の中には、少しずつ、補給に悩む部隊も出
て来るようになりました。
0211名無し三等兵04/02/25 00:22ID:npqc56Z2
>>210
OKではないですか!

あなたの頭脳は明晰で文章も秀逸だ。

ただ、
>そこで、日本軍は黄海へ水軍を進め、前線近くまで海路で物資を送りたかった
>のです。しかし、それは李舜臣が率いる朝鮮水軍の活動により阻止されていま
>した。

の、まさに当スレの主題部分ですが、
黄海に水軍を進め、前線に海路物資補給という点ですが、
実際にそういう計画が日本軍にあったかどうかを示す資料も見当たらないんですよね。
あるのかもしれないが。

これは李舜臣の戦いと日本の船団および陸上軍の行動の足跡を見て
そうじゃないかと推察されるだけです。

当然ながらその足跡を見ると、日本〜釜山までの補給路が遮断され
その海上補給路がなくなり兵糧その他を運べなくなった、
という説が胡散臭いとわかるわけですが。
0212名無し三等兵04/02/25 00:28ID:g/hBW93P
>>210
朝鮮はもともと日本よりずっと人口が少なく、田畑は荒れており
食料などを現地で調達することは難しかった・・・・

昔からそんな国だったのだな
0213続き04/02/25 00:31ID:???
その後、明の軍隊が朝鮮救援のためにやって来ました。
日明両軍は平壌で激突し、日本側が一度はこれを撃退します。
しかし、明はなおも大軍を朝鮮に送りこみ、多勢に無勢となった日本軍は
補給の問題も踏まえ、平壌、さらには開城からも撤退し、漢城まで引き下
がりました。明軍は追撃してきましたが、日本軍は、漢城近くで再び明軍を
撃退しています。
しかし、漢城ではこの頃、飢饉が発生していました。このこともあって、いよ
いよ補給に困ることになった日本軍は、明との講和を決意し、明の使者を
連れて日本へ帰ることになりました。
こうして、文禄の役は終わりました。
0214名無し三等兵04/02/25 00:35ID:npqc56Z2
>>213
「補給」という言葉を中心に据えて記述するとすれば、
それでOKじゃないでしょうか!
0215名無し三等兵04/02/25 00:36ID:???
>明はなおも大軍を朝鮮に送りこみ、多勢に無勢となった日本軍

これ違う。半島で日本が寡勢になったことはない。
慶長末期に一時的に12万になったのが最大。
021621004/02/25 00:37ID:???
>>211
講評ありがとうございます。
>あなたの頭脳は明晰で文章も秀逸だ。
恐縮です。(´∀`*)

>資料も見当たらないんですよね。
そうなんですか。皆様の御説を読んで、いくつかサイトもみまして、
多分そうなんじゃないかと思ったものでして。
0217名無し三等兵04/02/25 00:37ID:???
明軍は慶長末期に一時的に12万になったのが最大。
0218名無し三等兵04/02/25 00:43ID:???
>>215 >>217
これは私の書き方が悪かったです。
在朝鮮の日明の総兵力の比較ではなくて、1593年1月の平壌での
状況を書いたつもりでした。
補給の問題に焦点を当てていたもので、大事な所を端折り過ぎました。
0219裸足侍 ◆cljj.KUKAI 04/02/25 00:51ID:v0uxqE2j
まぁ朝鮮は昔から不毛の地ってことよ
0220名無し三等兵04/02/25 00:59ID:???
>>202
司馬にしても「ソースを思い出せない」と言ってたようなw
0221名無し三等兵04/02/25 01:01ID:???
つまり朝鮮を放置したのは明の焦土戦術
0222名無し三等兵04/02/25 02:23ID:???
>>217
>これ違う。半島で日本が寡勢になったことはない。

しかし、当時、半島の秀吉軍は兵の半数を撤退させていたので、
推定6万くらいしかいませんでしたよ。

慶長の役は、開戦半年くらい(正確には忘れた)して、
秀吉の命令で戦線を縮小、同時に戦力も半減させているのです。
だから、明12万で押し寄せた時分は兵隊の数は逆転している。

縮小の理由は多岐にわたると思いますが、
積極的な意味を見つけるとすれば戦略的な意図(攻勢期を伺っていた)、
消極的な意味では、経済的負担の軽減ということでしょうか。

本スレの論点からはズレますが。
0223名無し三等兵04/02/25 13:15ID:???
>>222
そうそう。
清正の篭城あたりだと、駐屯してた明軍の数は6万から8万程度なので
ほぼ同数。

最後の最後に新たな増援の結果12万にまで達してる。
この連中はもはや戦力にならない廃兵がほとんどだけど。
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