>>55 の続き(・∀・)

手術を強行されてから約4ヶ月後、桜庭は希望していた退院が叶えられたが、藤井医師によって『退院許可と引き換えに手術の同意書を書かされた』


その後、桜庭の精神的意欲は減退し 原稿を書ける量は手術前の5分の1に減少。桜庭はスポーツジャーナリズムの世界から姿を消す。


運転手や自動車修理工場の見習い工などをしながら各地を転々。


1969年(昭和44年)ごろからは、てんかん発作に悩まされるようになる。
名古屋の中央労災病院で診察を受けた結果『ロボトミー手術・チングレクトミーの後遺症である可能性』と指摘される。


1976年(昭和51年)2月、桜庭は弟が経営する会社に勤めていたが、英語力をかわれ、フィリピンの支社で働く事になった。
ここには約2年間、滞在していたが、働く気力が湧いてこない。藤井医師が言っていた「チングレクトミーによって無理がきかなくなる」という言葉を思い出す。


1978年(昭和53年)のある日の夕方、桜庭はマニラ湾の夕日を眺めていた時、決意をする。

『世界に名高いマニラ湾の夕日を見ているのに、俺の心には何の感動も湧いてこない。

もはや俺は人間ではないのだ。生きている資格はない。こんなことになったのは、あの藤井医師のせいだ。あいつがチングレクトミー手術をしたせいだ。

あいつを殺して俺も死のう』


1979年(昭和54年)9月26日午後5時頃、桜庭(当時50歳)は藤井医師(当時53歳)との無理心中という形で決着をつけるべく、
遺書を持って、バルビタール(長時間作用型鎮静・睡眠薬)などの薬物を服用したのち、東京都小平市の藤井宅にデパートの配達員を装って押し入った。