桜田門外の変
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2009/03/30(月) 23:00:36ID:C7u7vFJk江戸城桜田門外(東京都千代田区)にて水戸藩の浪士らが大老・井伊直弼の行列を襲撃し暗殺した事件である。
当日は季節外れの雪で視界は悪く、護衛の供侍たちは雨合羽を羽織り、刀の柄に袋をかけていたので、襲撃側には有利な状況だった。
江戸幕府が開かれて以来、江戸の市中で大名駕籠を襲うという発想そのものが想定外で、彦根藩側の油断を誘う。
襲撃者たちは『武鑑』を手にして大名駕籠見物を装い、直弼の駕籠を待っていた。
駕籠が近づくと、まず前衛を任された森五六郎が駕籠訴を装って行列の供頭に近づき、取り押さえにきた日下部三郎右衛門をやにわに斬り捨てた。
こうして護衛の注意を前方に引きつけておいたうえで、黒沢忠三郎(関鉄之介という説あり)が合図のピストルを駕籠にめがけて発射し、
本隊による駕籠への襲撃が開始された。
発射された弾丸によって直弼は腰部から太腿にかけて銃創を負い、動けなくなってしまった。襲撃に驚いた駕籠かきは遁走し、数名の供侍たちが駕籠を動かそうと
試みたものの斬り付けられ、駕籠は雪の上に放置される。彦根藩士たちは柄袋が邪魔して咄嗟に抜刀できなかったため、鞘で抵抗したり、素手で刀を掴んで指を切り落とされる
など不利な形勢だったが、二刀流の使い手として藩外にも知られていた河西忠左衛門だけは冷静に合羽を脱ぎ捨てて柄袋を外し、襷をかけて刀を抜き、駕籠脇を守って稲田重蔵を倒すなど
襲撃者たちをてこずらせた。
しかし、一人では抵抗しきれず、遂に斬り伏せられる(河西の刃こぼれした刀は彦根城博物館に保存されている)。
0002名無しさん@お腹いっぱい。
2009/03/30(月) 23:05:10ID:C7u7vFJk直弼は地面を這おうとしたが、有村が発した薬丸自顕流の「猿叫」とともに、首は鞠のように飛んだ。襲撃開始から直弼殺害まで、わずか数分の出来事だったという。
一連の事件の経過と克明な様子は、伝狩野芳崖作『桜田事変絵巻』(彦根城博物館蔵)に鮮やかに描かれている。
有村らは勝鬨をあげ、刀の切先に直弼の首級を突きたてて引き上げにかかったが、昏倒していた小河原秀之丞が鬨の声を聞いて蘇生し、
主君の首を奪い返そうと有村に追いすがって後頭部に切りつけた。小河原は広岡小之次郎らによって斬り倒されたが、有村も重傷を負って歩行困難となり、若年寄遠藤胤統邸の門前で自決する。
襲撃を聞いた彦根藩邸からは直ちに人数が送られたが後の祭りで、やむなく死傷者や駕籠、さらには鮮血にまみれ多くの指や耳たぶが落ちた雪まで回収した。直弼の首は遠藤邸に置かれていたが、
所在をつきとめた彦根藩側が、闘死した藩士のうち年齢と体格が直弼に似た加田九郎太の首と偽ってもらい受け、藩邸で典医により胴体と縫い合わされた。
0003名無しさん@お腹いっぱい。
2009/03/30(月) 23:06:45ID:C7u7vFJk襲撃側のうち、最初に駕籠目掛けて斬り込んだ稲田重蔵は河西に斬り倒され即死。有村次左衛門のほか広岡小之次郎、山口辰之介、
鯉渕要人は彦根藩士たちの必死の反撃で重傷を負い、他の藩邸に自首したのち自刃した。他の者も多くは自首したり捕縛された後に殺害されたり、
獄死している。
増子金八と海後磋磯之介は潜伏して明治期まで生き延びた。
井伊家の側は直弼以外に8人が死亡(即死者4人、後に死亡した者4人)し、13人が負傷した。死亡者の家には跡目相続が認められたが、
直弼の護衛に失敗した生存者に対しては、2年後の1862年(文久2年)に処分が下された。草刈鍬五郎など重傷者は減知のうえ、
藩領だった下野の佐野に流され揚屋に幽閉される。軽傷者は全員切腹が命じられ、無疵の者は士分から駕篭かきにいたるまで全員が斬首、
家名断絶となった。
処分は本人のみならず親族に及び、江戸定府の家臣を国許が抑制することとなった。
0004名無しさん@お腹いっぱい。
2009/04/01(水) 18:21:29ID:cA8VJqnV0005名無しさん@お腹いっぱい。
2009/04/01(水) 19:06:32ID:ZMWxiu6l■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています