単に思考の型や発想の元が侍寄りってだけでも十分な気もする

寿海がずっと死に場所探してたのは分かるけど
醍醐母子と一緒に死ぬのは場違いすぎて
壮絶なシーンのはずなのになんか笑けてしまう
百鬼丸とどろろのエピローグの少なさはもったいなかったけど
どろろは青年になる前の少年と女になる前の子供の話だから
そこから先は描かない(描けない)という方針を聞いたらそれなりに納得もしてしまう
最後のシーン百鬼丸がようやく帰ってきたというところではなく
とっくに2人は再会済みで(だから既にみおから託された黄金の稲穂が実ってる)
日常の一場面ではないかという解釈見かけて良いなと思った